ジャーナリスト 石川秀樹 -41ページ目

ジャーナリスト 石川秀樹

ちょっと辛口、時どきホロリ……。理性と感情満載、世の常識をうのみにせず、これはと思えばズバッと持論で直球勝負。
3本のブログとFacebook、ツイッターを駆使して情報発信するジャーナリスト。
相続に強い行政書士、「ミーツ出版」社長としても活動中。


無益なことにあまりエネルギーを使いたくはないんですが……。
朝日新聞が「アベノミクス」批判に1ページを割いているので、
負けん気がむくむくと。


オピニオン欄、今回のテーマは「経済学は無力か」だ。
現実世界に処方せんを示せないことを「無力」と見ているわけだが、その無力な経済学者を登場させて、曲がりなりにも処方せんを出して国を動かそうとしている安倍首相の経済政策を批判しようというのだから、ずいぶん乱暴な話である。


本日の主役は一橋大学大学院教授の斉藤誠さん。
この人は今回の株高の要因となった円安を、「政策効果とはいい難い」とアベノミクス効果を全否定している。
その上で、朝日の編集委員が「お金をばらまく量的緩和で物価を上げてデフレから脱却しようという『リフレ政策』もアベノミクスの柱です。
これは危うい政策では?」と水を向けると
「2%の物価上昇目標ですが、市場は中長期にも実現するとはまともに信じていません」
このあたり、根拠なくいい切られても、読む側としては困惑するばかり。
きっと斉藤さんが信じたくないのだろう。
すると斉藤氏がいう。
「なぜなら理論的には、物価が2%上昇すると金利は3%くらいになる。賃金も3,4%ぐらい上がるでしょう。そうなれば企業のコストは膨らむし、国債価格が急落して、国家財政も、国債を大量に抱える銀行も困る。雇用に影響が出て労組も困る。そんな姿をだれも望んでいません」


学者先生にこういわれると、多くの人がうのみにするだろう。
「理論的に」というので、あたかも理論があるようだが、それではこれを逆説的に読んでみよう。
「……理論的には、物価が2%下落すると金利は0%くらいになる。賃金も3,4%ぐらい下がるでしょう。そうなれば企業のコストは軽減されるし、国債価格が急騰して、国家財政も、国債を大量に抱える銀行も喜ぶ。雇用に影響が出て労組も喜ぶ。そんな姿をだれも望んでいます」
ね、おかしいだろう?
後から書いたのが、つい先日までの日本経済の姿だ。誰がデフレを喜んでいただろうか。


素人ながらいわせてもらうが、経済学は心理学である。
今回の円安は間違いなく、次期首相たる安倍さんが口先介入したことから始まった。
「金融政策を変える。といったのだ。
それに市場が反応した。
客観的に経済その他、状況がそろっていたから円安に振れたわけではない。
政権が断固たる姿勢を示さなければ、円安はなお進んでいただろう。
「政権も自らの政策効果などと言わず自然体で臨めばいい」と斉藤さんはおっしゃるが、自然体で臨んでいたから(坐して手をこまねいていたから)、日本は10年の余もデフレに苦しんでいたのじゃあないですかねぇ。


もうひとつの言葉の誤魔化し。
「賃金も3,4%ぐらい上がるでしょう。そうなれば企業のコストは膨らむ」の部分。
企業を主語にすれば一部当たっているかもしれない。
しかし、社員の側を主語にしてご覧よ。
「賃金が3,4%ぐらい上が」ったら、誰もが喜ぶ。消費増も期待できる。
アベノミクスはハナっからここを当てにしている。
光の部分を無視して、影の部分だけに焦点を当てて語れば、同じ事象から悲観主義しか出てこない。


大新聞は実になんともペシミスティクに世を憂いてくれる。
「番犬、虚に吠ゆ」という言葉がある。
ありもしない影に怯えて吠えまくることをいうが、今回もまた、だ。


編集委員の原真人さんはこのキャンペーン末尾「取材を終えて」にこう書く。
「政策を魔法の杖のように吹聴する学者が脚光を浴びがちだが、原点を忘れぬ学者の言葉をよくかみしめておきたい」


「魔法の杖のように吹聴する学者」とは安倍首相のブレーンの浜田宏一エール大名誉教授あたりを指しているのだろう。
では原編集委員お気に入りの斉藤教授が何をいっているのかといえば、「経済学者は何もできない」といっているのだ。
「何もできない」が持論の人を引っ張り出して、何をいわせたかったんでしょうな。
何もしないよりは「変える」といってくれた安倍さんの方がまし。
内閣支持率のいつにない高騰が、国民の気持ちを代弁していると思いますがねえ。


原点をかみしめるべきは、大新聞の方ではないか。




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【筆者から】
このブログの元になっているのはFacebookへの書き込みです。
主にFacebookページ「ジャーナリスト 石川秀樹」に投稿しています。
ミーツ出版(株)という小さな出版社の社長をしています。61歳で行政書士の資格を取り開業しました。さらにこの数年は「ソーシャルメディアを愛する者」としてFacebookで熱く語り続けています。ブログは私の発言のごく一部です。ぜひFacebookページもご覧ください。コメントをいただけたら、こんなにうれしいことはありません。


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26日の静岡新聞朝刊におもしろい記事が載っていた。
「オスプレイ模型が人気 輸入品は品薄状態 県内メーカーも販売へ」というのだ。
老朽化したCH46輸送ヘリに代えて米軍が、岩国基地(山口)、普天間飛行場(沖縄)に配備しようとして大反対があった。開発段階から事故が多発したからだ――
と前置きはそれくらいにして、静岡新聞は「模型の人気」を伝えている。

hidekidos かく語り記


静岡市周辺はかつて木工の町だった。
その加工技術を活かして戦後の一時期、木製模型が一世を風靡した。
昭和30年代後半(『3丁目の夕日』の時代だ)にはそれがプラスチックモデルに代わった。
タミヤ、ハセガワ(焼津市)などのメーカーがあり、ガンダム模型のバンダイもその系譜を継いでいる。
だから静岡新聞らしい着眼で、この記事は生まれた。


ユニークな形状だもの、模型があればそりゃあ売れるだろうな。
イタリアからの輸入模型が、入荷すればすぐ売り切れ品薄が続いているという。
オスプレイ反対派が聞けば目をむくような話だ。
そうは思ったが、僕はこの記事に興味をひかれた。
日本という国は今、そこまで多様なのだなと思ったのである。


まじめに議論すれば「オスプレイ」は日米安保の話になる。
戦後68年目にもなって、今も米軍が多くの日本の土地を「基地」として使用している。
沖縄は特に“影響”が顕著だ。
中国、北朝鮮、それに領土問題をめぐっては韓国もロシアも、周辺おだやかならずだ。
自衛隊がこれらの国を蹴散らしてしまえば小気味はよいが、今どきそんな無茶はやるまいし、日本の法律、憲法下ではそんなこと、やろうとしたところでできない。
「そんなことでいいのか」と息巻く人はいるだろう。
「瑣末な領土にかまけて戦争なんか起こす気か」と、こちらでもカッカとする……。
そんな中にあって、模型が売れているのである。


模型をサブカルチャーと呼んでいいかどうか知らないが、日本のサブカルチャーは世界有数だ。
コミック、着せ替え(じゃあない「コスプレ」)、AKBにさまざまな中間小説やらのストーリーテリング……。
明治維新なら政治にはせ参じただろうが、有能な個性がさまざまな分野に芽吹いている。
模型もその中の一つではないか。
“シズオカ”の力をもってすれば、イタリア模型の上を行くのはたやすい。
こういう発想や議論を、僕は「笑止な!」という気は毛頭ないのである。
さまざまな分野に異能者が育っている。
政治や経済一辺倒、まじめな議論でなければなんの価値もないようなコチコチ頭が日本を閉塞に追い込んだのではないか。


(話は飛ぶが)
アベノミクスが出てくるまで、大真面目な日銀のすることに誰も異を唱えず、金融政策のよろしきを得ないで10年間も続くデフレを招いてしまった。
政治もザマァーない。
原発政策の安全神話は一体、いつごろから国民に刷り込まれたものか。
そんなこんな、誰も“その時の現状”を批判的に見ないで、わが身のことだけ憂えていれば、誰が何をしていたって嗤(わら)えるものじゃあない。


オスプレイけっこう!
模型のことで駄文を連ねている方が、へたに憲法を云々するよりケガがないや。
よほど日本が国力(つまり経済力をですな)を取り戻して、余裕綽々になるまで、物騒な議論は棚上げにしてしましょうや。
閉そく感漂う中で、領土だ、国の安全だなどと語り始めれば、どうせよからぬ方向に落ち着くに決まっているだろうから。



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いま静岡県では県立浜松、(浜商)の体罰が話題になっている。
同校は、男子バレー部などで体罰が行われていたのに県教委に報告していなかった。
その後調べたところ、教諭や講師9人による体罰事案が13件あったことが判明した。


浜商といえば、野球部がセンバツ優勝するなど地元ではスポーツの名門校として通っている。
体罰は水泳、バスケットボール、バレー、陸上、野球の各部で行われていた。
文化関係では1つもない。
みなさん、『そんなの当たり前』と思うかもしれないが、僕の考えは違う。
体罰といい、暴力といい、起こるのはスポーツの部というのは、この蛮行は「日本のスポーツ界」における特殊な文化(いや、「文化」といわれるほど高尚なものではない!)、特殊な悪弊というべきものだ。
熱くなる土壌があるのであろう。


僕の家は中学校のグラウンドのすぐ前にあるので、生徒たちの掛け声や歓声が聞こえる。
それに混じって、毎日のように部活であろうか、それとも体育の時間だろうか、教師の怒鳴り声が聞こえてくる。
書くに値しない「悪罵(ののしり声)」である。
これが15歳にもならない少女たちに浴びせる言葉なのかと思う。
体罰とは少し違うが、パワハラである。
教師が熱くなってどうする!!
生徒たちは懸命に声を出し、グルグルとグラウンドを駆け足しているではないか。
なんの不足があって“気合”(とこの教師はいいたいのだろう)をかける。
こういう怒声を聞いていると、僕は『こいつ、陰では生徒をぶん殴っているんじゃないか』と疑ってしまう。


気合をかける程度のことで試合が強くなるなら、指導者なんぞいらない。
「指導」というなら頭を使え、経験を惜しみなく生徒たちに教えよ、と思う。
それも懇切ていねいに、わかるようになるまで粘り強くだ。
「手前(てめぇー)でキレてどうするよ」と、僕なんか下品で気が短いので教師を面罵したくなる。


怒りに任せた鉄拳は教育ではない。
ただの暴力であり、幼稚な“指導法まがい”にすぎない。
生徒を教え導き、自分の最大限の力を引き出させる技術(教育論)をもたないことの裏返しにすぎないのだ。


僕が小学4年のとき、友達と共に悪さをして先生に見つかった。
先生はなぜその行為が悪いのか僕らを諄々と諭したうえで、頭にゲンコツをくれた。
脳天に響くほど痛かったが、先生の思いは伝わった。
これを「体罰」だとは思ったことがない。
ただ、悪さに対する応分の罰を受けたのだと思った。
至極公平なことで、子供にもわかる理屈だった。


中学3年のとき、つまらない子供だったので、テストの時間中、下敷に書いておいた公式を盗み見ていた(つまりカンニングだ)。
そばに人の気配がするので顔を挙げると、横から先生が僕だけに聞こえる音量で
「公明正大にやりなさいよ」といった。
顔から火が出るように恥ずかしかった。
テストは普通に採点され、親に報告されることもなかった。


いまFacebookでこんなことを書いたり、会社でそれなりの役割を果たすことができたのも、この先生のおかげだと思っている。
人を矯正するのは体罰では果たし得ない。
心を込めた一言、子供の性格や将来性を考えた瞬時の判断が、人の人生を変えることもある。
そういう“技術”のことを教育というのである。


体罰は、教育に未熟なものの蛮行だ。




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握手した手はやわらかかった。
彼、村上文一さんと6時間以上も話し込んでいたのだ。
最後に互いに手を出し合ったとき、強く握られることを意識していた。
政治家はいつも強く握り返してくる。彼のそれはふわっと包み込むようで、いたわりながら加減して握り、左手を添えた。

hidekidos かく語り記


数週間前、突然、村上さんから「会ってもらえないか」とメッセージが届いた。
無論、承知した。昨年暮れ、Facebookの友達になりウォールを少し拝見していた。
気持ちのいい男だな、と感じていた。
初めての出会いを果たした後、彼は突然話し始めた。


東北の震災があってFacebookを始めたこと。
郷里は青森県・弘前市である。遠くにいるかつての友たちの消息が気になる。
それから、なぜ静岡県東部に暮らすことになったのか……。
観光専門学校、パチンコ屋、踊りの師匠、老人病院、そして奥さんとの出会い。
かれこれ2時間近く、問わず語りに話すのである。
今の仕事は沼津市で魚の冷凍倉庫会社の工場長を務めている。
仕事の話もタップリした。
初対面で自分をさらけ出す人間は少ない
。でも、まあ、小気味良い話っぷりだった。
その時の心の内を彼はFacebookの「FB人物探訪 [ 8 ] 」でこう書いている。


「家に招かれ、彼の仕事場であろう部屋に通され、座った途端に私が多弁になったのには、私自身が驚いた。」


こちらがあまり積極的に話さないので、“拍子抜け”しつつ、大いに気を使ってくれたわけだった。
おかげで「村上文一」という人物のアウトラインが知れた。
ただ、僕が知りたかったのは「文ちゃん」がなぜここに来たのか、である。
昼すぎたので近くの蕎麦屋に行った。
そこで『記者ということ』について、ちょっぴり話をした。


「ペンと手帳を持たずに出掛けると、丸腰で歩いているような不安定感がある」
「あーっ、その話を読んだときに会いたいと思ったんですよ」
なるほど、それでわかった。
僕が日ごろ書いていることは、人間の居住いについてが多い。


「記者はいつでも傍観者だ。出来事が目の前で起きていても、レンズを通して見ているとき、当事者ではなくなる。観察者、記録する者としてそこにいるというような錯覚がある。傍観者でしかないことを、恥じる気持ちをもっていなければいけない……」


そんな話もした。場所をコーヒーショップに移して――
文ちゃんが「今、一番困っていることは何ですか?」と問い掛けてきた。
唐突で返答のしようがない。はて、この質問は誰にでもしているのだろうか……。
長時間話したので、わからなくもない。
目下、困っているようなことはないが、もし話したとしたら彼はどう反応するだろう。
<文ちゃんは一所懸命に聴くのだろうな>と思った。
できるかどうかはわからない、でも一肌脱ぐ気は十分にある。
やんちゃだが男気がある。無茶もしてきただろうが卑怯、未練なことはしない。


だから文ちゃんのウォールには、突然、見知らぬ人から相談事が舞い込む。
『この人なら』と感じることがあるのだろう。
40年近くも理知と理性だけで生きてきた僕のような者にはない「熱」を、文ちゃんは知らずに周囲に放っている。


<それとも何か、文ちゃん自身考えていることがあるのだろうか?>
「あと4年、長男が大学を卒業すれば……」というようなことをいう。
もっと、好きなように生きられるのだと。
現状が不満なのではない。
無一物で青森を出てきた。時に住みかをなくし車の中で寝た。そんな自分が妻を得、2人の子をもち、会社でも確固たる居場所を築いている。人生に不足はない。しかし――
もっと、何かをしたい、何か役に立つようなことを。
それが文ちゃんのいう「好きなように」なのである。
45歳を間近にして、彼はそんな、焦がれるような思いももっている。


「文ちゃんは政治家に向いているかもな」僕はいらぬことをつぶやいた。
政治家の仕事は、民草の(私たち庶民の)夢を実現することである。
そのためには言葉が必要だ。人に会い、語り、説得し、納得させて味方を得る。ひとつの事業を実現させるために、あらゆるレベルの人と隔てなく話し、夢をリアルな現実に変えていく根気と粘り強さと、強い信念をもっていなければならない。
彼はそのための資質を十分にもっているように見えた。
政治家でなければ「社長」だろうか。
この仕事も、自分の夢や思いを現実のものに変えていく説得のプロセスが伴う。


「俺もね、文ちゃん、会社にいたときはたいてい弱い者に味方してきた。男は最後の最後、女房、子供を守りぬく気概があれば十分だ。それさえ外さなければ、何でもやっていいと思うけどな」


僕は62歳で出版社を興し本を執筆しつつ、行政書士の仕事もしようとしている。
年齢はさして障害にならない。しかし一方、僕はひと山越えてきた者である。
負っているものは少ない。
彼は働き盛りだ。若い分だけ可能性があるが、しくじれば痛手も大きい。
何をするにも“勝つ段取り”をきちんと仕込んでおかなければならない。


Facebook談義そっちのけで、話が思わぬ方向に展開してしまった。
僕も文ちゃんも、なぜ今こんな話をしているのかわけがわからないが、Facebookが取り持つ縁はまことに奇妙で、かつ興味深い。
彼が取った行動が何かを生み出す契機になるのかどうかわからないが、望まれるなら僕は、見守る以上のことをしたいと思っている。


そんな思いを込めて、僕は文ちゃんの手を強く握り返した。



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「学力調査(テスト)前に過去問特訓」だそうだ。
福岡県教委の複数の教育事務所が、事前に対象の子供たち(現在の小5と中2)に過去問を解かせるように校長に伝えたり、過去問集を作って学校に配っていたのだという。
おやおや、熱心なことだ、と新聞はいいたいのではないようだ。
文科省はこれを、「調査の公平性を損ねる」とおかんむりらしいというのがミソ。
どっちもどっちだ、と思ったことだが、さて、善悪となるとどっちなんだろう。
これは難問だ。


佐賀県武雄市の樋渡啓祐市長は「学校ごとに結果を公表する」といっている。
文科省は渋々ながら、学校別成績を自治体の裁量に委ねることを検討中だという。
となると、成績が気になるお役人、教職員はいそうだ。
自分のために。
だから「事前対策」に狂奔しているのだといえば、それはそうかもしれない。
でもね、それは子どもの損になることなのだろうか。


日本の教育のおかしなところは、いつのころからか「競争することは悪である」かのように変な神経を使い始めたことだ。
先生や学校のためか知らないが、テストであれば(調査といっているがテストだろう)良い成績を取らせたいのが人情ではないか。
努力すれば確実に成果出るのだ。
座して何もするな、学ぶなというのは、それこそ本末転倒なのではないか。


児童生徒は文科省のモルモットではない。
全国一斉にヨーイ、ドン、学力の到達度を見るのだといって、何のためにそれをやりたいのか。足りなければ補って水準にまで引き上げるというのが目的だろう。
だとすれば事前特訓、悪とはいえないと思うがねぇ。


学力調査は4/24実施。
学校別優劣が明らかになって、また上を下への騒ぎになる? としたら、日本の教育界の程度を疑わなければいけない。
調査は子供達のため。最終的に卒業までにきちんとした学力がついていればいいのである。


順位を気にする大新聞の記者さんが、この問題、取り上げたんでしょうな。
枝葉末節にこだわって大樹の在り方を失う。
まあ、ありがちな発想だと思いました。
メディアも教育界の程度も五十歩百歩でしょうか。




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