より多くの人間が,
より少ないコストで,
多くの知識を手に入れることができる世界,
自分の知性を表現することができる世界にあって,
『教養』のもつ意味は失われようとしている
確かに『教養』という語は,
古臭く,役立たずなものを連想させ,
それにどこかエリート主義的な気取った響きがある
いささか反動的ではあるけれども,
それでも『教養』は非常に重要であると思う
『教養』というのは単なる知識とは違う
知識を重視する人の多くが問題にするのは,
「自分は何を知っているか」という点であるが,
『教養』が問うのは,
むしろ「自分は何を知らないか」,
あるいは「自分は何を知りうるか」という点,
知の内容というよりも態度,心の持ちようである
自己の知を対象化することによってこそ,
人は自己の外に出て,
思考の領野を広げることができるのではないだろうか
そんな『教養』は矢継ぎ早に思考を展開するような頭の回転の速さとも違う
みせかけの頭の回転の速さには,
思考そのものよりも感情が関与している部分が多いように思える
回転が速ければより遠くまで行けるのに,
思考を展開させずに次々に単発でことばを繰り出す人が多いし,
そういうことばの切り売りも流行っている
『教養』というのは思考を深化させる知性の働きであり,
それは思考による感情の制御(単なる抑制ではなく)の営みとも言えるかもしれない
中途半端だが,
長くなったので,ここでおしまい
『カラマーゾフの兄弟』
フォードル・ドストエフスキー最後の長編小説である。
もしそんなものが決められうるとしての話だが、
この本が「世界文学史上最高の傑作」と呼ぶに値することには、
寸分の疑いの余地もないであろう。
遠い昔の遠い国で、
そう、巨大でありながら、
文化的にも経済的にも政治的にも精神的にもあまりに時代に立ち後れた、
帝政末期のロシアにおいて書かれたこの書物は、
その影響力こそ弱まっているとはいえ、
時代、距離、文化、言語を超えて、
いまだに命脈を保っている。
そしてこれからもそうあり続けるであろう。
しかしながら、
この書物とは一体何なのであろうか。
ミステリー小説?実験小説?心理小説?
はたまた、小説の形を借りた哲学書?宗教論?
それとも、虚構の形式に仮託した自叙伝なのであろうか?
恐らく、これらのどれでもないのだろう。
そして、同時にこれら全てなのである。
小説の本筋など見失ってしまうほど至る所に鏤められた
荒唐無稽な挿話や登場人物の独白の全ては、
実は伏線、あるいはこの書物の本筋そのものに他ならない。
ドストエフスキーは
アリョーシャやラキーチン「自身」の文章を入れたり、
時折この小説世界のなかに「筆者」自身を観察者として投げ込んだ。
ドストエフスキーの熱烈な読者であったジイドは、
この偉大な作家が恐らくそれほど意図せずに用いたこの語りの技法を
『贋金つかい』において大胆かつ緻密に展開してみせている。
登場人物一人一人が何を知りうるか、何を為しうるかについて、
ジイドほど細かく配慮した小説家を私は知らない。
そしてその制約が登場人物を自由に賦与しているのだが、
それでも登場人物の自由さにおいて、
この『カラマーゾフ』の世界の住人にはかなわない。
この表現が適切かどうかは分からないが、
ジイドの登場人物は「かっこよすぎる」。
ドストエフスキー特有の詳細に及ぶ人物描写には、
いつもどこか混乱したところがあり、
それが読み手の心に少しの違和感を与えるのだが、
それはつまり「彼ら」が人間であるからなのだ。
「彼ら」すべてはドストエフスキーの分身であり、
ドストエフスキーとは「彼ら」すべてなのだ。
しかしながら「彼ら」はみな独自の容貌や感情や思想を持ち、
お互いに少しも似ていない。
村上春樹もジイドと同じく
『カラマーゾフ』からの影響を認めている一人であるが、
私が彼の作品によく感じてしまうのは、
小説のトーンがある一人の登場人物の思想に
支配されているということである。
それが彼の小説に都会的で、現代的で、
洗練されたフォルムを与えているのだが、
その登場人物はやはり「生きてはいない」。
(そして、大抵みな「おしゃべり」すぎる)
ドストエフスキーの描く登場人物は、
ひどく高慢であったり、淫蕩であったり、乱暴であったり、
あるいは容姿が醜かったり、
身体や精神を病んでいたりする人物ばかりなのであるが、
それにも拘らず抗しがたい魅力がある。
はっきりとは理解できないのだが、
それがロシアの作家がよく使う表現の
「魂が美しい」ということなのかもしれない。
とりあえず、小説の技法について
カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)/ドストエフスキー

フォードル・ドストエフスキー最後の長編小説である。
もしそんなものが決められうるとしての話だが、
この本が「世界文学史上最高の傑作」と呼ぶに値することには、
寸分の疑いの余地もないであろう。
遠い昔の遠い国で、
そう、巨大でありながら、
文化的にも経済的にも政治的にも精神的にもあまりに時代に立ち後れた、
帝政末期のロシアにおいて書かれたこの書物は、
その影響力こそ弱まっているとはいえ、
時代、距離、文化、言語を超えて、
いまだに命脈を保っている。
そしてこれからもそうあり続けるであろう。
しかしながら、
この書物とは一体何なのであろうか。
ミステリー小説?実験小説?心理小説?
はたまた、小説の形を借りた哲学書?宗教論?
それとも、虚構の形式に仮託した自叙伝なのであろうか?
恐らく、これらのどれでもないのだろう。
そして、同時にこれら全てなのである。
小説の本筋など見失ってしまうほど至る所に鏤められた
荒唐無稽な挿話や登場人物の独白の全ては、
実は伏線、あるいはこの書物の本筋そのものに他ならない。
ドストエフスキーは
アリョーシャやラキーチン「自身」の文章を入れたり、
時折この小説世界のなかに「筆者」自身を観察者として投げ込んだ。
ドストエフスキーの熱烈な読者であったジイドは、
この偉大な作家が恐らくそれほど意図せずに用いたこの語りの技法を
『贋金つかい』において大胆かつ緻密に展開してみせている。
登場人物一人一人が何を知りうるか、何を為しうるかについて、
ジイドほど細かく配慮した小説家を私は知らない。
そしてその制約が登場人物を自由に賦与しているのだが、
それでも登場人物の自由さにおいて、
この『カラマーゾフ』の世界の住人にはかなわない。
この表現が適切かどうかは分からないが、
ジイドの登場人物は「かっこよすぎる」。
ドストエフスキー特有の詳細に及ぶ人物描写には、
いつもどこか混乱したところがあり、
それが読み手の心に少しの違和感を与えるのだが、
それはつまり「彼ら」が人間であるからなのだ。
「彼ら」すべてはドストエフスキーの分身であり、
ドストエフスキーとは「彼ら」すべてなのだ。
しかしながら「彼ら」はみな独自の容貌や感情や思想を持ち、
お互いに少しも似ていない。
村上春樹もジイドと同じく
『カラマーゾフ』からの影響を認めている一人であるが、
私が彼の作品によく感じてしまうのは、
小説のトーンがある一人の登場人物の思想に
支配されているということである。
それが彼の小説に都会的で、現代的で、
洗練されたフォルムを与えているのだが、
その登場人物はやはり「生きてはいない」。
(そして、大抵みな「おしゃべり」すぎる)
ドストエフスキーの描く登場人物は、
ひどく高慢であったり、淫蕩であったり、乱暴であったり、
あるいは容姿が醜かったり、
身体や精神を病んでいたりする人物ばかりなのであるが、
それにも拘らず抗しがたい魅力がある。
はっきりとは理解できないのだが、
それがロシアの作家がよく使う表現の
「魂が美しい」ということなのかもしれない。
とりあえず、小説の技法について
カラマーゾフの兄弟〈上〉 (新潮文庫)/ドストエフスキー

寒いとは単に「暖かくない」ということではない
事実、暖かい寒さという感覚が存在するのであり、
暖かさのうちのある感覚は寒さによってのみ感じられるのだ
問題になるのは温度の高さではなく質だ
例えばこたつの暖かさ、暖炉の暖かさ、
暖かい部屋のくもった窓の外に見える柔らかな雪景色の醸し出す暖かさ、
これらの暖かさは
身体が一方に感じている寒さなくして感じることができない

もし寒さが「暖かさの欠如」として定義されるなら、
その欠如自体には絶対的な価値がある
こたつの暖かさは寒さを必要としているからだ
大げさにいうなら、こたつを暖かくしているのは、
実は電熱線ではなく、寒さの方なのだ
人間という存在もまた同じではなかろうか
人は一人では生きられない
しかしその弱さこそが人を強くし、
人を人としているのだ
寂しさを感じない人間ほど、
寂しい人間はいない
私は神という存在が嫌いだ
それは神が完全であるからであり、
その完全さこそが人を醜く見せるからだ
神の完全さは
実は他ならぬ人の不完全さから生み出されているのだということを
神自身は知らない
神には欠如が欠如しているからだ
事実、暖かい寒さという感覚が存在するのであり、
暖かさのうちのある感覚は寒さによってのみ感じられるのだ
問題になるのは温度の高さではなく質だ
例えばこたつの暖かさ、暖炉の暖かさ、
暖かい部屋のくもった窓の外に見える柔らかな雪景色の醸し出す暖かさ、
これらの暖かさは
身体が一方に感じている寒さなくして感じることができない

もし寒さが「暖かさの欠如」として定義されるなら、
その欠如自体には絶対的な価値がある
こたつの暖かさは寒さを必要としているからだ
大げさにいうなら、こたつを暖かくしているのは、
実は電熱線ではなく、寒さの方なのだ
人間という存在もまた同じではなかろうか
人は一人では生きられない
しかしその弱さこそが人を強くし、
人を人としているのだ
寂しさを感じない人間ほど、
寂しい人間はいない
私は神という存在が嫌いだ
それは神が完全であるからであり、
その完全さこそが人を醜く見せるからだ
神の完全さは
実は他ならぬ人の不完全さから生み出されているのだということを
神自身は知らない
神には欠如が欠如しているからだ