私はめったに雑誌を買わない。

それは、現在発行されている雑誌を見てもあまり面白いと思えるものがない、
ということもあるけれど
雑誌を買ってもパラパラとめくって終わり、ということが多すぎて
それが嫌になったから、というのが主な理由である。

かつてはTV Brosを毎回買っていたのだけれど
あまり面白くなくなって、読むのをやめてしまった。

数年前、ふとスーパーで見かけたので見てみると、
内容が刷新され、少しサイズも大きくなり、厚みも増して、
且つ内容もふつうのTV雑誌に近いものになってしまって、
全く読む気がしなくなってしまった。

Brosの面白さは、あまり世間的に知られていない芸人やコラムニスト、
電気グルーヴたちがやりたい放題やっているような、

アナーキーなエネルギーによるところが大きかったのでは、と思うのだけれど

ピ〇ール〇がああなってしまった今となっては、それらは望むべくもない。

時代は変わる。



前置きはこのへんにしておいて、本題に入る。

 

最近、昔買った雑誌を引っ張り出して見ていたら、
買った当時は全く気付かなかったことで、
今の私にはとても重要なものがそこにあることを発見し、

愕然とする機会が立て続けに起こった、という話。

極めて私的な話なので、ほぼ備忘録になるとは思われるけれども。

 

 

例えば冒頭の写真は、92年の雑誌「IS 人形愛特集」。
高山宏先生と鶴岡真弓先生が寄稿しておられる。

こちらは、87年の國文學で、由良君美が「海外文学事情」を連載、

ハロルド・ブルームを紹介している。






しかしいちばんびっくりしたのはこれ。


 


91年のBRUTUS、「なにしろ映画好きなもので。。」と銘打ったこの号で、
中井英夫がブニュエルを紹介している。



で、どうして上の雑誌が出てきたことにびっくりしたか。

ひとことでいえば、要するにユングの言うシンクロニシティ、という話なのかもしれないが、
それだけで簡単に片づけたくない思いもある。

私は昨年末あたりから、とつぜんユングに興味がわきはじめ、
いろいろと読み返したり本を買い足したりしている。

学生の頃に少し勉強して以来、常に頭の片隅にユングがいたのだけれど

なかなか手を出せずにいた。

それが、やっと、勉強しなおす気になったのである。

 

直近ではコリン・ウィルソンの『ユング 地下の大王』を読了したところなのだけれども
こういったユング関連の書籍を読み始めてから、私のふだんの生活の中で

恐ろしいほどの、シンクロ現象が起き始めたのである。


まず、「IS 特集:人形愛」から言うと、
個人的には、高山先生・鶴岡先生とも、2019年にたいへんお世話になった先生方なのだけれども
この雑誌を購入した当時はお二方のことはまったく存じ上げなかったし
ここでこれらの記事を読んだ記憶もなかった。

高山先生のことは数年前から存じ上げてはいたが
鶴岡先生のことを知ったのは2018年の末頃のことだった。
2019年はお2人の講義を拝聴することができて、本当に良かった。
特に鶴岡先生の講義は、2019年最大の衝撃だったといっても過言ではない。

なので、このお二方が同時に寄稿していた雑誌を既に私が持っていて、
しかもこのタイミングでまた私の前に出てきた、ということに、非常に驚いたのである。


ちなみに表紙はナスターシャ・キンスキー。
何故、当時世界的に有名だった大女優がこんなマイナーな雑誌の表紙を飾るのか、
そっちの方も謎過ぎて気になったが、
どうやらヘルムート・ニュートンが83年に撮影したものを借りてる模様。

http://blog.livedoor.jp/mogsheep/archives/2322058.html



続いて由良君美について。

最近、なぜか急に、ダニエル・シュミットの映画に興味がわいた。
いろいろ調べて、かろうじて動画サイトで少し見ることができたが、これが非常に素晴らしく
画面に溢れるヨーロッパ文明の爛熟/退廃感に、これだ!という思いがした。

 

たとばヴィスコンティなどにもそれは感じられるけれども、悪い意味で豪奢だったり貴族的だったりしすぎる。
ダニエル・シュミットの描く質感の方が私好み。

高級レストランと小粋なカフェの違いのようなもの。

ラ・パロマに主演している女優の顔を見てはっとした。
これは、少し前から気になっていた由良君美の著作、「セルロイドロマンティシズム」
の表紙を飾っている女優であることに気付いたからである。

そして、上の國文學を開いたのはその数日後だった。
この國文學を買った当時は、由良のことは全く知らなかったし、記憶にも残っていなかった。

 

ちなみに、この号の執筆陣は錚々たるメンバーで、

 

澁澤本人のインタビュー(インタビュアーは池内紀先生)、

種村季弘、筒井康隆、中野美代子、堀内誠一、植島啓司、金井美恵子、山尾悠子、

そしてのちに実際にお会いすることになるがこのときは全く知らなかった巖谷先生、

などが名を連ねている。

 

 

 

続いてBRUTUSについて。


たとえばダニエル・シュミット、タルコフスキー、ベルイマンあたりのどれかは
だいたいいつも東京のどこかで上映されている、
みたいな状況であれば、東京の文化レベルも、まあまあだなと言ってもいいかと思うのだが
実際にはなかなかそうでもないのは非常に憂うべき状況である、

などと考えたりしている中、
もしかしたら、家の中に彼の作品について何か書かれたものがあるかも、
そういえば昔のBRUTUSの映画特集があったな、
と思って引っ張り出してきたもの。

とはいえ中井が取り上げていたのはダニエル・シュミットでもタルコフスキーでもなく
ブニュエルだったが(私もブニュエル作品は好きだけれど)、

それはいいとして、私はたしか、この時点では中井を知らなかったと思う。

だから、ここに中井英夫が載っていたことを全くおぼえていなかったのも無理はない。

そもそも中井が写真付きで雑誌に出ているのは見た記憶がない。

 

まあ、中井英夫は私の中でとても重要な存在とはいえ
今の私の状況には、あまり関係ないかも。
或いは、もうすぐ何かが起きるという予告かも。



というわけで
今後も自宅の雑誌を引っ張り出してみるときは注意してみる必要を感じる。
わざわざ面白い雑誌を古本屋に探しに行かなくても、
我が家に宝が大量に眠っている気がしてきた。

やはりユングのいうシンクロニシティ、かもしれないけど
それは単なる偶然の重なり、では済まされないなにかがある、と思う。

つまり、そのとき全く気付かなかったものをこうやって今発見するというこの事実に、
なんだか自分の人生が既に予告されていたような気がする。

それに私は感動する。

それは、運命のようなものを見たような気がするからだろうか。


これと同じような話で
私は2015年、イタリアに行った際に、
タルコフスキーの「ノスタルジア」のロケ地となった
サンガルガーノの修道院の廃墟を見てきた。

この映画を見たのはたしか高校2年か3年のときで、
そのときは、そのあまりの美しさに、ものすごい衝撃を受けた。
そのロケ地を見ることができたということは、私にとってはあまりにも感慨深いことだった。

「ノスタルジア」を見た当時は、もちろんそのロケ地がどこかなんて知るはずもなく、
海外に行ったことすらなかった。
いつかここに行ってみたい、という発想さえなかった。

それが、のちにその場所を訪れてしまうのだから、
本当に自分にとって大事なものは、人生のある場面ですでに予告されていて
そして必ずいつかどこかでつながっていくもの、
それが人生であるという思いを強くする。

人生で起きていることに、無意味なものはないのかもしれない。

 

 

すっかり長くなってしまったが、

まあ、誰かに読まれることを想定したものではなく

あくまでも備忘録のようなものだから、良しとしておく。

 

 

 

 

巖谷國士先生講演:スワンベリ展の追記分。

 


 

匿名性というのは、シュールレアリスム理解においては

意外と重要なキーワードなのではないか、という気がする。

 

 

どういうことか。


例えばランボーは言っている。

On me pense, と。

 

これはつまり、

詩人は才能があるから優れた詩が書けるのではなく、

何らかの別の存在が詩人の口を通して

語っているだけである、と私は理解している。


つまり、アーティストというのは、

自分の力や才能で作品を生み出しているのではなく、

何らかの別の存在(あえて「神」などという言葉は使わないが)からのメッセージを、

自分という肉体或いは存在を媒体として表現しているにすぎない、という考え方。

 

であるとすれば、優れた芸術家であるということは

優れた媒体/媒介=MEDIVMである、ということになる。

これは決してオカルティズムの話ではない。

 

アティチュードの問題であろう。

 
 

ここで、巖谷先生が紹介したシュールレアリスム雑誌の

タイトルがなぜ「MEDIVM」なのかがわかろうというもの。
つまりシュルレアリストたちは、自らが媒体でしかないことを認識していたのではないか。


匿名性 - 作家性の不要性 - MEDIVM
 

 

 

 

ブルトンの行った自動書記実験もそうである。

そこには自分の意志や理性は消えている。

では何が彼を書かせるのか、という話である。

 

 

 

澁澤が、スワンベリの名前をスワンベルクと表記し、

その発音の違いを指摘されるとそれを書き直し、

かと思えばまたいつのまにかスワンベルクに戻っていた、

いいかげんなもんだ、などというエピソードも、

結局、無意識的にせよ匿名性というものを

理解していた故ではないかという気もしてくる。

 

 

 

表層だけを見ていてはいけない。

その背後にあるものを見なくては。

 

それはつまり、歴史であり古層であり、

太古からの積み上げである。

 

そしてなにより、媒体を通して語る何か、である。

 

 

 

 

 

今回の巖谷先生のお話は、

スワンベリという一人の画家から

ヨーロッパの民衆生活の歴史を紐解くような

マジカルなお話の展開で、

本当にたくさんの美しいイメージと、

気づきがありすぎだったけれど、

それとは別に、いつも以上に胸を打たれるものがあった。

 

それは、先生が「郷愁」と言ったとき、

そのことばに一瞬醸し出された悲しみのようなものを

感じたからかもしれない。

 

いずれにしても、

今回のお話のキーワードは「郷愁」

そして「匿名性」だったように思われる。

 

 

匿名性とはすなわち、

作品がある特定のアーティストによって作られたことに意味がないこと。

つまり、芸術のための芸術ではなく、

名もない職人によって作られた装飾ということであり、

それは民衆の暮らしの中に溶け込んでいるものである。

 

だから、スワンベリという特殊な、

異様な作品をつくる画家に

匿名性を感じるという先生のことばは、全く意外だった。

 

 

スワンベリにビザンチン的なものを

感じるというのは、確かにある。

 

そしてそのイメージの深層にあるものとして

ブルトンが語ったイメージ、

つまり「ヴァイキングの女」であり、

ヴァイキングの帆船が、水の上で炎に包まれる、

水と火の祭儀のイメージは、あまりにも美しいものであった。

 

 

 

ギリシャ~ブルガリア~ハンガリーにおける

生活の中に溶け込んでいる装飾がある、

という先生のことばにはハッとさせられた。

 

鶴岡真弓先生のいう装飾というキーワードが出てきたからである。

 

 

 

 

スワンベリの祖先である

スカンジナビア出身のヴァイキングだったり

ノルマン人といった民族が、

西は英国や仏領ノルマンディ、東はウクライナ、

南はシチリアへと展開していく中で、

長い歴史を経て、いろんな土地を征服していく中で、

様々な土着の文化・習慣を収集していく。

 

そんな中でビザンチン的な美意識も吸収していく。

 

そのようなノルマン人の歴史が古層となり、

民衆の中に浸透し、様々な美しい装飾の文化を生んでいく中で、

それが巡りめぐって、スウェーデンに戻り、

スワンベリという形で花開いたということは

今まで考えもつかなかったことであり、

なかなか興味深い。

 

 

ここに、鶴岡先生の言う古層が見えてくるようである。

 

 

民衆の手工芸・装飾という極めて匿名的なアート。

 

それはルネサンス以降の近代的な美術とは全く異なる、

むしろ対極に位置するもの。

 

近代の芸術における芸術家主義というか、

その作品を誰が作ったかということが

重んじられる傾向に果たしてどれだけ意味があるのだろうか。

 

なんだかつまらない絵だな、と誰もが思うような作品でも、

それがピカソだったりゴッホだったりということが

わかった途端に高値がついたり美術館に飾られたりする、

ということのバカバカしさ。

 

 

ここにも郷愁がある。

つまり、アートが匿名的なものだった時代、

或いは生活というものに対する郷愁である。

 

 

それを考えたとき、

様々な民族による征服と異文化交流の歴史と

名もない中世の職人が作り続ける装飾作品と、

民衆の生活とが、

タルコフスキー的な世界や

鶴岡先生の言うヨーロッパの古層のイメージが

突然私の中で結びつき、

数千年の間繰り返されてきた

名もなき人たちの生活のイメージが

目の前に開いた思いがした。

 

 

それは本当に美しく、

ノスタルジックで、悲しくもあるが、

そのイメージは無限に広がっていった。

 

 

その広がりとはつまりヨーロッパという

土地という空間的広がりと、彼らの歴史という

時間的な広がりとの両方であろう。

 

 

 

 

もうひとつ思ったのは、

意外と「郷愁」と「装飾」は結びついているのでは、

ということ。

 

装飾というのは単なる飾りではなく、

何らかの祈りが込められている。

 

それは積もり積もって、

家の、そして民族の記憶へと

つながっていくものだろう。

 

だから、そこに郷愁が生まれるのだろう。

 

その意味で、装飾は「古層」へとつながっている。

 

だから、鶴岡先生は「装飾」を重視しているのではないか。

単純に美しいからではないだろう。

 

 

 

 

もうひとつ胸を打たれたのは、

エロスとは何か、ということについて

巖谷先生が話したときである。

 

エロスとは失われたものに

戻ろうとする欲動であるが、

しかしもとに戻ってしまえば、

そこには死しかない。

 

そして、失われたものについて

思いをはせることは郷愁である。

 

 

この話をしたときの巖谷先生は、

なぜか少し悲しそうに見えて、それが印象的だった。

 

 

先生も、自分の死を意識しているのか、

或いは身近な人の死を経験したのか。

 

 

 

とにかくスワンベリを通して

むしろヨーロッパの古層としての民衆の生活が

どんどん紐解かれて行って

それとともにそのイメージが湧き出してくるという

そのマジカルな話の展開をさせてしまうところが、

さすが巖谷先生である。

 

 

一人の画家を掘り下げることが、

まさかヨーロッパの古層を開くことにつながるとは、

想像もしていなかった。

 

 

 

 

巖谷先生のおっしゃる郷愁と、

鶴岡先生のヨーロッパの古層というのは

通じるものがある気がするので、

お二方でヨーロッパの古層をテーマに対談して頂けたら、

とても面白いお話が聞けるのではないかと思う。

 

 

是非、実現してほしい。

 

 

 

 

↓追記分公開しました↓

https://ameblo.jp/hgstrm2/entry-12560528268.html

 

 

桃井かおり・岩下志麻主演の映画、『疑惑』を見た。

とんでもない映画を見た。 見た後にまず思ったのは、それだった。

正直、見終わった後は、しばらく動けなかった。

 

ストーリーとしては大したことはない。
保険金殺人をめぐって裁判が行われ、果たしてこの容疑者は被害者を殺したのか、それとも無罪なのか、

それを問うだけである。

 

だから、いわゆるサスペンス映画としてこの映画を見てしまったら、この作品の本質を見誤ることになる。


では何がすごいのか。

まずはなんといっても、主演・桃井かおりの存在感だろう。

なんという、怪物的な女優だろうか。改めて、そう思った。

この怪物的な女優の演じる怪物的な女、
それでこの映画の半分くらいは決まっている。

あとは岩下志麻、柄本明の3人で8割方決まったようなものである。
とにかく、この3人の得体のしれない異物感がすさまじい。
はっきり言って、ここにおける桃井かおりは決して美しくはない。

岡本太郎的に言えば、いやったらしい。
こんな人間は、ふつうに考えれば、嫌われる。

しかし、そもそも、女優は必ずしも美しい必要もなければ、好かれる必要もないのだ。
どんな人間であれ、ひとりの人間を・おんなを演じること、それが女優である。
最近の日本映画を見て感じるのは、なんだかよくわからない違和感なのだが、
つまりそれは、こぎれいな美男美女ばかりを出してよしとしてしまっていることではないか、と思う。

 

その他にも小林稔侍、鹿賀丈史、山田五十鈴、三木のり平、名古屋章など
決して美男美女ではないが、すばらしい役者が次々に登場して、素晴らしい演技を見せてくれる。

桃井演じる球磨子は美しくないだけでなく、徹頭徹尾、イヤな、ダメな悪い女である。
しかし、彼女はそんな自分が好きだし、この生き方を変えない、という。
さらには岩下志麻演じる女弁護士・佐原に向かって、
あたしあんた嫌い、あんたも自分のこと好きじゃないでしょう、とまで言う。

しかし佐原は毅然として、私は私の生き方で生きていく、なんかあったら言いなさい、あんたの弁護引き受けるわ、
そう言い切って、去っていく。

この迫力。
これは、女優・岩下志麻のキャラと演技力だけから出ているのではない。
たとえば佐原が愛娘のもとを去っていくシーン。
娘とはこれでほぼ永遠の別れとなるというのに、
娘を抱擁するでもなく、泣くでもなく、なにごともなかったように、毅然として速足で立ち去っていく。
(ダメ映画だったら、ここで号泣しながら娘を抱擁、その後走り去る、みたいな演出になる)

その背中の演技と演出のキレ。


そこに、母としての愛情、あまりにもうまくいかない自分の人生への憤り、そしてそれでも生きていくという覚悟、
それらすべてをこの背中で語らせているところに女優・岩下志麻の尋常でない凄みと、
名匠・野村芳太郎の演出手腕が凝縮されており、感服した。

そして、もう一人忘れてはいけない柄本明演じる秋谷記者。

彼も、非常に不気味な、いやったらしさを感じさせる。

しかし彼に不快感を感じるとすれば、それは柄本明いう役者が不快なのではない。
彼が背負っている世間が不快なのである。
柄本明の演技が凄いのは、その得体の知れない不快感を感じさせるところなのである。

そのキレは奇跡的ですらある。

 

つまり、それら全てを含めて、この世の中、どうしようもない、いやったらしい奴ばっかり、
うまくいかないことばっかり。
しかしそれでも、喜びもあれば生きがいもある、
だからとにかく、自分なりに生きていくしかない。

上の佐原の言う「私は私の生き方で生きていく」、「あんたの弁護引き受けるわ」というのは、

そういった人生や人間のどうしようもない部分を、すべて「引き受ける」、その上で私は生きていくのだ、

という決意表明である。

そこにおける人間の姿、強い覚悟が、感動を与えるのである。


シビれる。

そして、その直後のラスト。
ここにおける桃井の表情。
ほんの数秒だが、たばこを吸いながら、泣き笑いの表情を見せる。それだけである。

しかし、衝撃だった。なぜか。
球磨子は、上に「怪物的」と書いたが、別にとんでもない猟奇的な犯罪者だとか

我々には全く理解できないような変わり者とかいうことではなく、

むしろ我々と変わるところのない、普通の人間なのであって

つまり生きていれば泣きたいくらい悲しいこともあるけれど、涙がでるほど嬉しいこともある、

それが人間であり、人生なのである、
それを、上のラストシーンにおける数秒の表情で語っているからである。


結論めいたことを言ってしまえば、
それを、とてつもない凄みと迫力を以って、再認識させてくれたのが、この『疑惑』であり、
これを見て感動するということは、そういうことなのだ。
本当に素晴らしい、奇跡のような、本物の映画だと思う。

 

シビれる。

2回言うけど。



ちなみに私はこの映画を、中学生くらいの頃に一度見ている。
でも、とにかくこのラストに衝撃を受けたことしか覚えていなかった。


なんだ、この終わり方は??と、ものすごく混乱した記憶があるけれど、
今回もやはり、このラストがいちばん印象的だった。

 

 

 





パリ2日目。

まず、MONOPRIXで買い物。
これがめちゃくちゃ楽しい。

やっぱりフランスのスーパーは、商品のパッケージデザインがおしゃれだし、
野菜や果物も大きくて色あざやかだったりするので、
見てるだけですごく楽しいし、あれも欲しい、これも欲しいとなってしまう。
Bio(オーガニック)製品も多い。

ただ、セキュリティが厳重なのにはちょっとびっくり。
店の入り口で、かばんの中身チェックあるし。
中で写真撮ってたら怒られたし。


続いて、ヴァンドーム広場へ行ってみた。

ここには、世界に名だたる宝石商が軒を並べており
ジュエリー大好きな妻と、行かないわけにはいかない場所だった。





写真では伝わりにくいが、スーパー上流階級&お金持ちオーラが充溢しており、
それぞれの店からは、庶民の立ち入りを拒絶するような、

いい意味での威圧感がでまくっている。

まあ、外から眺められればOK、かなー、、 と素通りしようとすると、
妻が、何故入らない?オーラを強烈に発しておるため
ためらいつつも、とりあえず、我々の大好きな、BOUCHERON本店に入ってみた。






80年代ディスコの黒服的な男性が入り口にたっていたため

なんらかのチェックでもあるかと思いきや、お咎めなしで入店できた。

店内に一歩足をふみいれると、圧巻、の一言である。

空間のゴージャスさ、エレガンス、気品。
ずらりと並ぶ、見たことのないような、ラグジュアリーなジュエリー。
本物の上質感。

ざっと見ただけで、ジュエリーたちの輝きにくらくらしてきたので、
早々に出た方がいいかな、と思っていた矢先、
やっぱり、店員さんに話しかけられ、そうもいかなかった。

彼女は、一品一品、丁寧に説明してくれた。
ここはMUSEUMのようなものです、と言っていたが、まさにその通りで、
とても「お店」にいるとは思えない、実に贅沢な空間である。
並んでいるのは商品という感覚はなく、そこにあるものはすべて、
一級の芸術品であった。

妻は、彼女にすすめられるままに、
ピーコックのイヤリングやら巨大なダイヤの指輪やら、
見たこともないようなものたちを、次々に試着しまくっていた。
妙にはらはらしたが、妻が凄くテンションあがってるし、店員さんも親切なので
うれしかった。

非常に楽しく贅沢で、スペシャル時間をすごさせて頂いた。
店員さんには本当に感謝したい。


ちなみに、帰国後に調べたところ。。

この日試着したアクセの総額は、恐らく、
3000万は下らないと思われる。

さすがに、ちょっと焦った。



さて、あとは、美術館三昧というか
オルセー、クリュニー、オランジュリー、プティ・パレなどを見学して
明日は、今回のしめでギュスターヴ・モロー美術館に行くつもりだった。

が、実際行ってみると、オルセーは激混みで、ものすごい行列。
即、あきらめた。

しかも、オランジュリーは休館。
あと、失念したが、もうひとつメジャーな美術館が休館だった。
だから、客がオルセーに集中したのだろう。

さてどこに行こうかと、ルーブルからコンコルドの間をのんびり散歩しながら考えた。





私も妻もこの公園が大好き。
なんともいえない良い波動にあふれていて
とても幸せな気持ちになる。
ただ、ここを歩いているだけでいい。

シャンゼリゼには、まだクリスマスマーケットがたっていた。
全体的に、価格設定がアルザスより高め。
なんとなく、雰囲気もいまいちというか。。 アルザスの方が私たちは好きだった。





結局、そこから左に入って、プティ・パレに。
偶然にも、オスカー・ワイルド展が開催されていた。







見たかったが、すごい行列だったのでやめた。

常設展は無料だった。
とはいえかなりのコレクション。
ブーグローの作品があるのは知らなかったので、驚いたし

すごく得した気分。



 

 

これが見れただけでも、行ってよかったと思う。
(ちなみに、上に映っている人物は、我々ではない)

なかなかの充実ぶりに、満足度も高かった。


そして、あっというまに日は暮れていく。。






ホテル近くのカフェで夕食。

美味しかったけど、Haricot Vert が多すぎ。

 

付け合わせの量がメインを超えているではないか、

というのはフランスではよく見るパターンだけど。

 

<続く>