今回の巖谷先生のお話は、

スワンベリという一人の画家から

ヨーロッパの民衆生活の歴史を紐解くような

マジカルなお話の展開で、

本当にたくさんの美しいイメージと、

気づきがありすぎだったけれど、

それとは別に、いつも以上に胸を打たれるものがあった。

 

それは、先生が「郷愁」と言ったとき、

そのことばに一瞬醸し出された悲しみのようなものを

感じたからかもしれない。

 

いずれにしても、

今回のお話のキーワードは「郷愁」

そして「匿名性」だったように思われる。

 

 

匿名性とはすなわち、

作品がある特定のアーティストによって作られたことに意味がないこと。

つまり、芸術のための芸術ではなく、

名もない職人によって作られた装飾ということであり、

それは民衆の暮らしの中に溶け込んでいるものである。

 

だから、スワンベリという特殊な、

異様な作品をつくる画家に

匿名性を感じるという先生のことばは、全く意外だった。

 

 

スワンベリにビザンチン的なものを

感じるというのは、確かにある。

 

そしてそのイメージの深層にあるものとして

ブルトンが語ったイメージ、

つまり「ヴァイキングの女」であり、

ヴァイキングの帆船が、水の上で炎に包まれる、

水と火の祭儀のイメージは、あまりにも美しいものであった。

 

 

 

ギリシャ~ブルガリア~ハンガリーにおける

生活の中に溶け込んでいる装飾がある、

という先生のことばにはハッとさせられた。

 

鶴岡真弓先生のいう装飾というキーワードが出てきたからである。

 

 

 

 

スワンベリの祖先である

スカンジナビア出身のヴァイキングだったり

ノルマン人といった民族が、

西は英国や仏領ノルマンディ、東はウクライナ、

南はシチリアへと展開していく中で、

長い歴史を経て、いろんな土地を征服していく中で、

様々な土着の文化・習慣を収集していく。

 

そんな中でビザンチン的な美意識も吸収していく。

 

そのようなノルマン人の歴史が古層となり、

民衆の中に浸透し、様々な美しい装飾の文化を生んでいく中で、

それが巡りめぐって、スウェーデンに戻り、

スワンベリという形で花開いたということは

今まで考えもつかなかったことであり、

なかなか興味深い。

 

 

ここに、鶴岡先生の言う古層が見えてくるようである。

 

 

民衆の手工芸・装飾という極めて匿名的なアート。

 

それはルネサンス以降の近代的な美術とは全く異なる、

むしろ対極に位置するもの。

 

近代の芸術における芸術家主義というか、

その作品を誰が作ったかということが

重んじられる傾向に果たしてどれだけ意味があるのだろうか。

 

なんだかつまらない絵だな、と誰もが思うような作品でも、

それがピカソだったりゴッホだったりということが

わかった途端に高値がついたり美術館に飾られたりする、

ということのバカバカしさ。

 

 

ここにも郷愁がある。

つまり、アートが匿名的なものだった時代、

或いは生活というものに対する郷愁である。

 

 

それを考えたとき、

様々な民族による征服と異文化交流の歴史と

名もない中世の職人が作り続ける装飾作品と、

民衆の生活とが、

タルコフスキー的な世界や

鶴岡先生の言うヨーロッパの古層のイメージが

突然私の中で結びつき、

数千年の間繰り返されてきた

名もなき人たちの生活のイメージが

目の前に開いた思いがした。

 

 

それは本当に美しく、

ノスタルジックで、悲しくもあるが、

そのイメージは無限に広がっていった。

 

 

その広がりとはつまりヨーロッパという

土地という空間的広がりと、彼らの歴史という

時間的な広がりとの両方であろう。

 

 

 

 

もうひとつ思ったのは、

意外と「郷愁」と「装飾」は結びついているのでは、

ということ。

 

装飾というのは単なる飾りではなく、

何らかの祈りが込められている。

 

それは積もり積もって、

家の、そして民族の記憶へと

つながっていくものだろう。

 

だから、そこに郷愁が生まれるのだろう。

 

その意味で、装飾は「古層」へとつながっている。

 

だから、鶴岡先生は「装飾」を重視しているのではないか。

単純に美しいからではないだろう。

 

 

 

 

もうひとつ胸を打たれたのは、

エロスとは何か、ということについて

巖谷先生が話したときである。

 

エロスとは失われたものに

戻ろうとする欲動であるが、

しかしもとに戻ってしまえば、

そこには死しかない。

 

そして、失われたものについて

思いをはせることは郷愁である。

 

 

この話をしたときの巖谷先生は、

なぜか少し悲しそうに見えて、それが印象的だった。

 

 

先生も、自分の死を意識しているのか、

或いは身近な人の死を経験したのか。

 

 

 

とにかくスワンベリを通して

むしろヨーロッパの古層としての民衆の生活が

どんどん紐解かれて行って

それとともにそのイメージが湧き出してくるという

そのマジカルな話の展開をさせてしまうところが、

さすが巖谷先生である。

 

 

一人の画家を掘り下げることが、

まさかヨーロッパの古層を開くことにつながるとは、

想像もしていなかった。

 

 

 

 

巖谷先生のおっしゃる郷愁と、

鶴岡先生のヨーロッパの古層というのは

通じるものがある気がするので、

お二方でヨーロッパの古層をテーマに対談して頂けたら、

とても面白いお話が聞けるのではないかと思う。

 

 

是非、実現してほしい。

 

 

 

 

↓追記分公開しました↓

https://ameblo.jp/hgstrm2/entry-12560528268.html