このあいだあんな日記
を書いて、私の統合
とか言っていましたが、その繊細な私が、全く些細なことでひどく狼狽して、傷ついたのがわかった時、「こいつうぜえ」と早速思ってしまいました![]()
強い私は「そんなことないよ!気のせいだよ!もしそうだからって、たいしたことないよ!」というものの、繊細な私の悲しみがおさまらない。そんな繊細な私を見つめながら、「細かいことでぐだぐだ言ってうざい…。」とますますイラつく強い私。そうすると、お腹の中で、繊細な私がまた水晶の塊になろうとしているのが感じられました。
そこで、あ、まずい、、、そうだ、傾聴傾聴、、、と思い、悲しい私が言っていることを、声に2回出してみました。
そうしたら、落ち着いて、水晶化はおさまりましたが、「まだこいつ信用ならない」と思われている感じがします![]()
だから外に理解者を探しに行くんだろうなあ…。
そして、これってそのまま長女とのコミュニケーションに反映されています。
この頃、現地校の宿題以外は、なにかやりなさい、と長女に言わない実験をしています。
そうしたら、土曜日は、一日中ベットから出ないでオーディオブックを聞いていました。
寝床に入ってもまだ聞きたいというので、「今日はおしまい」と言ったら、ものすごくごねる。
うざいので「おしまいはおしまい!」といって取り合わず無視していたら、
「私のことが嫌いなんでしょ!なんで私のこと殺さないの!そうしたら大好きなKちゃんとだけ暮らせるからいいでしょ!」という手紙を書いてきました…![]()
その時の私の気持ちは、悲しいというかうざいというか…。こんなに手塩にかけて、愛情を雨あられのように注いで、私の時間をほぼ使って育ててきたのに、この態度…。自分の傷ついた気持ちに入り込んで、自己憐憫・・・・。
そんなことで傷つかれて、それをこれ見よがしにパフォーマンスされても…。と思っちゃいました。
で、その時は「うぜえ」で終わったのですが、今、自分とのコミュニケーションを考えてみたら、そっくりそのままですね![]()
長女の、または「繊細な私」の気持ちをまずはニュートラルに傾聴する。気分を変えることも促さない。たいてい、聞いてもらったことでおさまる気がします。
長女と私のコミュニケーションは、私の内側の、「強い私」と「繊細な私」のコミュニケーションそのもの。
そう考えると、長女がすごく「女の子らしい」子であることは、なにかより深い意味があるのかもしれません。
私がすごく感銘を受けた本に、
「心の対話25のルール」という伊藤守さんの本があります。
20章「人とのコミュニケーションは、自分の内側とのコミュニケーションに比例します」の一節を引用します。
「自分の感情、考え、記憶、欲求、役割、それらと距離を作り、コミュニケーションを交わしたいという意図を持ち、たとえ、どんな感情であっても、どんな考え方をしていたとしても、多少苦痛をともなう記憶であっても、親しみをもって、コミュニケーションを交わしなさい。
そこで、無理に何かを感じようとしたり、何も感じられない自分を責めたり、ありもしない感情や要求をねつ造したりしてはいけません。
そうではなくて、ちょうど鏡の中の自分を見るように、自分の心が伝えてくるものを、ただ聞いてみるのです。それがいい感じであれ、そうでない感じであれ、そのままを受け入れるのです。
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自分の中の感情とは、そのほとんどが、微妙な体の変化であり、響きであり、ビジョンです。それらを、最初から終わりまで、見て、聞いて、触れて、そして味合うのです。どれらも否定したり、避けたりしないで、そのままで受け止めるのです。
自分の内側の声とコミュニケーションが取れているとき、あなたは、人とのコミュニケーションもまた、とれていることでしょう。」








