承前
では、考えながら読むとはどういうことでしょう?
試しに、なにも考えないようにしてお手元の何か長文を読んでみてください。できるだけ棒読みにしてみる。内容が理解できましたか?
できないでしょう。私たちは普段、意識せずとも「考えながら」(頭の働きを全開にしながら)文章を読んでいるのです。
ところが、この「考えながら」読む習慣が身についてない子がいます。(言葉を言葉通りの意味だけで捉えるといったコミュニケーションの仕方をする人はいらっしゃいますが、それはまたそれで別の話になります。)
たとえばですが・・
日本語で書かれた一文があったとする。単語を知ってて文法を知っていたら文章のそのままの意味はすぐわかります。でも、果たしてそれだけか?
たとえ平易な言葉、単純な構文で書かれていたとしても、筆者の意図するところは違うかもしれない。文章通りの意味ではなく、婉曲や皮肉や比喩や反語や依頼などなど背後にいろんな意味を隠しているかもしれない。そういう文に出会ったときには、そこで立ち止まって考えないといけないのです。
というか、考えてしまうのが普通です。「花が咲いている。」という単純な文を見てさえ、「どんな花かな?」などの関心が生まれるのが普通です。
冒頭の文にいきなり読者を戸惑わせるトリッキーな(英語で失礼。適切な日本語が思い浮かばん)文章を持ってくる筆者はよくいて、これは読者への先制パンチですから、まずその闘いに応じる態勢をつくらないといけません。
その一文は、読者にその文以前の文脈を読めと要求しているのです。その文の書かれたときの社会状況だったり世間に流布している言説だったり、常識だったり知識だったり教養だったり、あるときは筆者自身への知識や共感をあらかじめ前提にしていたりします。
そして次の文へ。そこで文脈が生まれます。次の文へ、また次の文へと、文のつながりができ、流れができます。文と文とがどのようにつながり、どのように流れていっているのか、接続語や指示語はそれをわかりやすくしますが、そんなものなくても、そのつながりを見つけ、流れに乗らないといけません。文脈を追って、筆者がどこにどう落ち着きたいのか、めざす頂上、あるいは麓はどこなのかが見えてきます。高みを強調するためにわざと低いところへ降りてみたり、反復やエスカレートでリズムを取ったりメロディを奏でたり。それは筆者の言いたいことをより印象深く伝えます。その中に、筆者の意図の中心をあらわす言葉があれば、それがキーワードです。(・・ってこの文章も随分比喩で語ってますねええ・・)
段落ごとに立ち止まって結局その段落では何が言いたかったのか、ゆっくりその段落の中の文章を吟味してみる。文脈の流れを味わってみる。通じにくいところ(わかりにくいところ)はいろんな可能性を考えて考えて考え直してみる。そうすれば筆者の意図するところが見えてきます。
そして長い文では段落と段落のつながりの中でさらに大きな文脈が生まれ、結語へと大きなうねりをつくります。
ふだん読み飛ばした文章にどれだけ豊かな意味が隠されているか、まずそれに気づいて欲しいのです。
とはいえ、マニュアルや実用書のように誤解を生んでは困るような本だと、そんな読み方はできませんね。そういう文章は文字通り、言葉や文章を文字通りの意味に理解してその指示に従わないといけませんが・・。
ちょっとバタバタしていて投稿が途絶えてました。すみません。
とはいえ、今年はなぜか去年に比べて暇ぎみ。週2〜3日はジムに通える今のペースがいちばん余裕あっていいかなとも思うけど(ほっといてもハイシーズンにはこれが週1になってしまうし)、あと週2〜3コマぐらいは入っててくれててもいいかな? もしご依頼がありましたらどうぞ。(関西方面で興味ある向きはわたしのプロフィールページをご覧ください。)
さて、こないだからのお話の続き。なんでわたしが受験学年のみの差し迫った指導はしたくないか、です。答えはズバリ、読解力をじっくり養っていきたいから。一朝一夕では無理。できれば1年以上、2年3年かけたいんです。
最近のお子さんたち、もちろん例外も多いのですが、そもそも本や新聞・雑誌などの文章を読む習慣がない。読んでもLINEとかテレビのテロップとか短い文章にしか慣れていません。かつて「この頃の子どもは本を読まずにマンガばかり」と嘆かれたものですが、この頃はマンガすら読まないお子さんもいるみたいですね。本を読まない子は、そもそもそのご家庭が本読まない家庭であることも多く(親御さんたち、自分が本読まず語彙少なく子どもにだけ本読め語彙増やせってお尻叩いたってダメですよ!)、こんな環境こんな習慣の中で育ったお子さんが読解力壊滅状態になっても不思議ではないと思います。それなのに受験となるといきなり、やたら難しい文章が出題される。するとどうなるか? そもそも文章読むことを諦め、なにやったって合格点さえ取れればいいやになってしまいます。で、世間によくある受験のための国語テクニックの数々に飛びつくわけ。わたし、ああいうの、軒並み大嫌いです。
例をあげると本文をやたら傍線や記号で汚す読み方のテクニック。わたし自身も、読むときにキーワードやキーセンテンス、設問の解答部分などに傍線引いたりマルで囲んだりはしますが、そもそもそういうことができるのも、ある程度読解力がついてからの話。読む力がつく前に機械的にすべての接続詞に記号つけるとか、すべての「である」に記号つけるとか、ああいうことをして読解の助けになるのか、わたしは疑問だと思います。(だから、前回「基本的にどんな生徒さんも断らない」と書きましたけど、最初のカウンセリングのときにそういう受験技術を求めていらっしゃる方は、わたしの指導方針をお話ししたうえでお断りするようにしています。)
わたしの指導方針は、一にも二にも「本物の国語力」をつけること。国語力ってなに?「読む力」「書く力」です。(あと「聞く力」「話す力」もありますが)。そして、なんにもない状態から書けるわけないんであって、何よりも「読む力」がそのベースです。あらゆる良質の文章をしっかり読みこなすことが、ゆるぎのない国語力を養います。もちろん読むといってもボーッと読んでちゃダメです。棒読みしてたらダメです。考えながら読まないといけません。なにを考えるのか?どのように考えるのか?以下また明日以降に・・。
昨日の続き。今度は「選ばない」話ね。
そりゃー頭が良くて意識が高くて努力家でどんどん喰らいついてくる子ってのはこっちもやってて楽しいし刺激になるし必ず実績を出してくれるから文句のつけようがないんですが、だからと言ってそういう子ばっかり集めたいとは思わない。(で、そういう申し分ないお子さんは毎年いつも何人かいらっしゃいますが、だからと言ってみんなおんなじというわけでは決してなく、それぞれに個性があって面白いのですが。)・
理由を聞かれればそれがわたしのモットーなんです(理由のない)としか言いようがないけど、わたしはいろんなタイプのお子さんを相手にするのが好きなんです。そういうプロの訓練を受けたわけではないけれど、なんらかの障害(って嫌な言葉ですねえ・・どこかふつうとよばれるお子さまたちと違うところ?)をもったお子さまがたも受け持ったことありますし、人と人との関係の基本中の基本をおさえることで、ちゃんと通じあえることがわかりました。学力についてはほんまにさまざまでそれぞれに応じてご指導します。国語の場合(もちろんそれぞれの科目で)どこが強くてどこが弱いという傾向もあるし本人の得手不得手も好き嫌いもあるしね。
いちばん困るのは学力の程度にかかわらず意識低い系(笑)というか幼いときから「勉強とは親にうるさく言われていやいややる嫌なこと」という意識が染みついているお子さんで、なんとかズルをして怠ける方法はないかばかりに頭をつかっていらっしゃいます(まあ「近道を探す」という動機はある意味うまくつかえば使える動機ではありますが)。そういうお子さんには時間をかけて「勉強っておもしろいことなんだよ」「文章を読んだり新しいことを知ったりするのはワクワクする素敵な体験なんだよ」ということを知っていただきます。そういうお子さんの目がキラリと光って「楽しい!」「うれしい!」と声に出さずとも笑顔が弾ける瞬間がたまらなくいいですねぇ・・。
って傲慢なタイトルですねぇ・・。
もちろんわたしには生徒さんを選り好みする余裕もなければその気もありません。
もともと頭が良くて意識が高くて努力家でこちらにぐんぐん食らいついてくるタイプの生徒さん、ばっかり集めることができれば、それは教える方もめちゃくちゃ楽しいし合格実績が出るのも当たり前ではないですか。そういう生徒さんばかりを選んで集められること自体が教師の実力であると言われれば一言もありませんが。
でも、わたしは基本的に生徒さんの出来不出来などの基準でお引き受けするか否かを選ぶことはありません。空き時間がある限り依頼されれば必ずお引き受けします。なにかとくべつなご事情がある場合でもできる限り対応します。
・・まあ、でも、そういう話はまた別の機会にしましょう。
今回書きたかったのは、前回の記事で「値引きはよくない」と宣言したからです。
いえ、わたしも値引きするときはしているんです。けど、それはそうすることによって別の基準でこちらから生徒さんを選びたいからなんです。ということが言いたかったのです。
わたしのやってる塾の料金体系ですが、まず小中学生と高校生と大学生以上でそれぞれ基本料金を設定しています。その上で、受験学年のみ(中学入試なら小6、高校入試なら中3、大学入試なら高3/高卒)のご指導は割増料金をいただきます。但し下の学年から引き続きご指導する場合は受験学年になっても料金据え置きです。そういう割引です。だから割引ではなくむしろ割増ですね。
意図はあからさまでしょ? できれば、受験学年のみのご指導でなく下の学年から続けて長くご指導したいんです。
もちろん受験学年になってから慌てて飛び込んでくる保護者さんたちは多いし、そういう方々を一律に嫌がるわけではありません。1年に満たない期間ときには数か月であってもみっちりご指導してちゃんと第一志望合格を達成してくださった例もいっぱいあります。でもそれは(主に「意識」の面で)生徒さんがしっかりしていてすごく頑張ってくれたからであって、生徒さんの実力です。だけど、家庭教師の指導に関してわたしの指導方針と保護者さん生徒さんのニーズとが食い違った場合、受験学年のみの指導では食い違ったままで終わってしまってわたしも生徒さんも残念なまま終わることが少なくないのです。
で、なんで受験学年のみではなく下の学年から継続してじっくりゆっくりやりたいか、ですよね。
それは国語という科目の特性にも関わってきます。
また次回に書きますね。
家庭教師の派遣会社には一切所属していない(そもそも「派遣」という仕事の形態が嫌いなためでもあるし、いくつか登録した経験はあるのだが担当者とちゃんと人と人との関係ができた一社を除いてあとはいろいろ不満だらけだったせいでもある)が、家庭教師を紹介するサイト(顧客と家庭教師をつなぐだけのサイト)にはいくつか登録している。
そこで、ほかの先生方の宣伝文句を見ていてときどき気になるのは、「お得な価格」を売りにしている人がいらっしゃること。そんな方々には大声で言いたい。
「安さを売りにしてはあかんぞ〜!」
「値段を下げてはいかんぞ〜!」
そんなことをしたら、自分の首を絞めるのは言うまでもなく、家庭教師業界全ての首を絞めていることになるのに・・。
とはいえ、このごろ(特に学生さんのアルバイトの)家庭教師料の値崩れが激しいと聞きますが・・。
そういえば、数年前でしたか、ブラックな働き方をさせる某個別学習塾が問題になったこともありましたね。
個別塾も「安さ」を売りにしているところはダメです。
これは、そこでアルバイトしようとしている人にも、そこに子どもを託そうとしている人にも、大声で言いたい。
あんな値段でちゃんとした質が確保できるわけがない・・と思うようなところがいくらもあって、それには何らかの理由が必ずあります。(聞いたところによればほかの名目でお金を巻き上げる詐欺まがいのところもあるそうです。)
家庭教師さんで自分を安く売ってる人たちは、まあそういう人たちにも止むに止まれぬ事情というものがあるんでしょうけど、ダンピングすることではなく、付加価値をつけることで勝負してもらいたいものです。
どういう業界でも、どういう商品でも「質競争」でなく「価格競争」になってしまったとたん、ガタガタガタ・・と音を立てて質の低下合戦が起こり、その業界そのものの底が抜けてしまいます。
同業者の方々、「価格」ではなく「質」で競争しましょう。
そして、子どもの保護者さんたちも、価格を下げず「質」で勝負しようとしている家庭教師に目を向けていただきたい。家庭教師をつけるならつけるだけの、覚悟をしていただきたい。そう思います。
前回の記事、部下の美人の奥さん取っちゃった王様って誰でしょう?
もちろん正解はダビデ王です。英語だとDavid ね。
聖書は中学になってから聖書そのもので読んだけど、実はわたくし小さい頃から神話の物語が大好きでした。
子ども用に書き直された(つまりエロかったりグロかったり教育上よろしくなさそうなところ=面白いところは残らず省かれた)ヴァージョンでしたけど、ギリシャ神話、北欧神話、エジプト神話、ギルガメシュ叙事詩、アラビアンナイト、もちろん日本の神話もね! ハッピーエンドよりも悲しい結末の方が好きな変な子だったので、ギリシャ神話だとアルゴノートのお話、北欧神話だとラグナロックが大好きでしたねぇ・・。
そういう物語を繰り返し読むことが人間の心の形成に働く力って、河合隼雄先生とかいろんな学者さんが指摘してますけど、本当だと思います。別にそれは本でなくてもマンガでも映画でもいいと思いますが。
しかし、アメコミのキャラクターのひとつでもちろん映画にもいっぱい登場する「ソー」ってあれ、なんとかならないか? もともと北欧神話のThorでしょう? 日本語にThの発音ないからそうなってしまうのかもしれないけど、「ソー」だと(ホラー系の)Sawと同じ発音になってしまうではないか。せめて北欧風に「トール」とか言えんか? Lokiはロキでいいのですが。
ン十年前になりますが当時ヨーロッパ方面に留学していた友人が、「ここでは(この国では)ベンというと末っ子の名前なのよね」。それを聞いてわたしはすぐ「ああ、そうよね」と合点いきましたが、友人はなにが「そうよね」なのかわからなかったようす。
正解は、ベニヤミンはヤコブの12番目の子どもで末っ子、という聖書のお話でした。
いまどきは本場キリスト教圏の人たちもそういう由来で「ベンジャミン」とか「ベン」とかを末っ子の名前につけることはないのかもしれませんが・・。
そういえば『卒業』The Graduate(1967)という古〜い映画のクライマックスで、ヒロインが「ベーーン!」と叫ぶのですが、この主人公の名前もやっぱり「ベン」でなければならなかったような気がします。
ま、でも今だとBen Whishawは弟くんキャラかもしれないが、Ben Affleckはむしろお兄ちゃんキャラだし・・(すいません、マニアックで。)
*
ミッション系の学校で得したとのちに思ったことのひとつは、こういうキリスト教圏の物語に強くなることですね。毎朝の礼拝で退屈な(失礼!)先生のお話に耳を傾ける代わりに、旧約聖書から始めて聖書を読破したわたしも変な生徒だったのかもしれませんが・・。
でも、聖書、特に旧約聖書って面白いんですぜ!エロい話とか鬼畜な話とかがいっぱい出てくるしね。
部下の妻が美人だったもんで略奪してしまった王様のお話とか・・(はい、誰のことでしょう?)
また、「ジョン」という名前がイコール「ヨハネ」だと学んだのも、礼拝の間の退屈しのぎでした。
英語版の聖書見てると「ヨハネによる福音書」がJohnになってるんですもーん。英語のJohnはヨハネなのか、だとしたら・・と調べてみて、おなじ名前がフランス語だとJean(ジャン)、スペイン語だとJuan(フアン)、ドイツ語だとJohannes(ヨハネス)またはJohann(ヨハン)とかHans(ハンス)とかだったりすることがわかるのです。この伝で、あらゆるヨーロッパ系の名前には各国語版があるのがわかるしね。
欧米文化のなかではみんな意識せずに慣習とか教養とかで知っていることを、もちろん普通に育ってきた日本人は知らない。そういうのを、ミッションスクールのなかではさりげなく学べたりします。
のちのち欧米系の本を読むときや絵画を見るとき、あるいは普通に人々とお話するときなどに、ものすごく役に立ちます。
歌の話の続き。
中学高校とキリスト教系ミッションスクールに通ったもので、6年間毎朝礼拝があって讃美歌を歌った。
のちのち同窓生としゃべったこと。讃美歌って古文の感覚を身につけるのに役立ったよね。
いまどきは口語賛美歌も多いらしいが、昔は由木康さんなどが訳した格調高い文語体の歌詞ばかり。最初は意味も分からず歌っていたが、好きな歌ができ、まる覚えして何度もなんども歌ううち、次第に意味もアタマの中に入ってくる。助動詞の意味とか活用とか接続とか文法的知識なくても、なんとなく意味するところがわかってきて、それが古文を読むときの感覚に繋がったと思う。
聖書はもう口語訳だったけど、文語訳聖書の詩篇なども暗誦するなどしていたような・・。
主はわが牧者なり。われともしきことあらじ。・・とかね。
信仰については、わたしはそもそも宗教嫌いで全く受け付けなかったが、そういう、なんだか素敵そうなところだけ「ええとこどり」していたような気がする。
ミッション系私学に通ったメリットのひとつだったと思うが、たとえば仏教系の私学に通う子たちなら、また別の、日本語や漢語に関してはもっとメリットがあるのではないかと想像する。
でも、普通の人々でもたとえばクリスマスの時なんかにクリスマスの歌を歌うでしょ。
(おもいっきり季節外れですが・・)
もろびとこぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり 主は来ませり
主は 主は来ませり
おお、古文でみんなが間違える「にし」があるではないか!「り」があるではないか!(昔の)「ます」があるではないか!
「こぞる」とか「まつる」とか「ひさし」とか古文単語もあるではないか!
良い子はいちどこの歌詞を品詞分解して正確な意味を掴んでくださいね。
昔の歌ネタもうひとつ。
「仰げば尊し」を卒業式で歌う学校もいまや少なくなってしまったと聞きますが・・
あの歌詞の中で「いまこそわかれめ〜・・いざさらば」とあるでしょ。
わたし、長い間「わかれめ」は「別れ目」もしくは「分かれ目」だと思い込んでました。
で、あるときふと気づいたの。
(誰に教えてもらったわけでもなく、自分で気づいたのが偉いでしょ?😄)
「今こそ別れめ」は、「こそ」があるから係り結びになってて「め」は意志(この場合は「勧誘」)の助動詞「む」の已然形「め」。つまり、「今こそ別れよう(ではないか)」という意味の歌詞だったのですね!
みなさん、それ知ってました?
でも、それって、なんで先生たち教えてくれなかったんでしょうね?
「いまこそわかれめ」と聞いて「いまこそ別れよう」の意 味がピンとくる世代の傲慢か?(て、そういう世代っていつまで?)
このごろ(というかだいぶ前から)音楽の時間に歌わせなくなったらしいので、ちょっと困ることが多い。
というのは、古文の基本的な語感とか、助動詞の意味合いとか、こういう昔の唱歌(でなくても昔の歌)から学ぶことって結構あるのです。
例えば、よく笑い話にされる「うさぎおいしかの山」
「うさぎ」が「おいしい」と思い込んでる人が多いとのことですが、もちろん正解は「追いし」です。
「追う」の連用形に過去の助動詞「き」の連体形「し」がくっついたもので、現代語に直すと「追った」の意味。
というような説明なくても、「追いし」は「追った」の意味であると、ふつうの子どもたちは歌を何度も歌ううちに学んだものです。
もひとつ、初夏の歌で「夏は来ぬ」。
むか〜し昔は「絹石鹸」というブランドを持ってたメーカーが、夏のお中元の季節になるとこの歌に乗せて「夏は絹」というコマーシャルせんど流してたので、その効果もあって頭に入ったものですが・・
「夏は来ぬ」という字面を「夏はきぬ」と読むのと「夏はこぬ」と読むのとでは意味がちがうでしょ?と言うだけで、子供たちみんな、ははーんと納得いったものです。が、いまどきの子どもたちは「来ぬ(こぬ)」の方は「来ない」の意味だとわかっても、「来ぬ(きぬ)」が「来た」の意味だとはわからない子が半数近くいるようで・・。(もちろん完了の助動詞「ぬ」と、打ち消しの助動詞「ず」の連体形「ぬ」の違いです。)
で、「うさぎ追いしかの山〜」の歌の方は知ってる子多いけど、「卯の花の匂う垣根にほととぎす早も来鳴きて忍び音もらす夏は来ぬ」と(音程取るのがめちゃ難しいこの歌を)歌ってあげても、「知らない」という子が多くて、がっかりします。
ついでに言えば、卯の花がどんな花だか知らない子、おからを煎り付けていろんな具と炊き合わせたおかずを卯の花と呼ぶことを知らない子、も多いですね。