で、ブログ再発進直後いきなり物議を醸しそうなことを書きますが・・^^;

いま公開中の中国映画に『芳華-Youth-』というのがあります。

ダンスシーンが見事で俳優たちが素晴らしくて物語がしっかり語られていて、とても見ごたえのある良質の映画ですが・・。1960年代後半から70年代前半に生まれた世代の青春物語です。

年代でピンと来られる方は多いと思うのですが、生まれたら周囲は文革(文化大革命)という世代です。

ヒロインは毛沢東の肖像画を仰ぎ見て、文革の思想になんの疑いも持たず、青春時代を精一杯に走り抜けます。

そんな時代に生まれて気の毒だったよね、とか、国に騙されてたよね、とか、中国もあとで随分時代が変わって大変だったよね、とか言えるのは、後々の時代の我々だからこそであって、その時代に生まれて周りが全てその雰囲気だった彼ら彼女らに、その時代そのもの(またその時代の政治状況)を批判する力は求めようとしてもなかなか難しいでしょう。

翻っていまの日本です。

このゴールデンウィーク。令和、令和、と若者たちが騒いで、お祭り騒ぎ一辺倒だったことに、わたしはものすごく違和感を感じました。

元号が変わることってそんなにめでたいことですか?

元号をそのまま受け入れるってことは、天皇制をそのまんま受容することですよね?

あんたら、それわかって騒いでるの?って。

しかもマスコミは、上皇だったり天皇だったり皇族だったりをすべて敬語で報道します。

天皇制や元号がそもそもどういうものなのか、また必要なのか、の議論はほとんどありません。

それからしばらく経って周囲と話すうち、わたしと同じようにこの令和騒ぎとかマスコミの報道に違和感を感じる人、はっきり異議を唱える人がいっぱいいることがわかって、少しはホッとしたのですが・・。

少なくともわたしの周りでは、そういう人たちはある年齢以上の人ばっかりで、若い人たちにはホンの少ししかいなかったことに、なんだか失望を通り越して絶望感すら感じました。

子どもたちは尚更です。

この雰囲気の中にいると、令和の改元はめでたいこと、上皇や天皇は偉い人、そういう風に感じて全く疑いを抱かないのではないでしょうか。

でも、いまのこの日本は、文革当時の中華人民共和国とは違うはずです。

少なくとも、いまの象徴天皇制がどのような経緯でこのかたちになって、いまも続いているのか?元号は本当に必要なのか?といったことについて、きちんと教える大人が必要だし、考えさせることが必要だと思います。(考えた末の結論がどうなるにせよ)

で、子どもはともかく。若者たちよ、どうあっても不甲斐ない!

お祭り騒ぎしていた若者たちのなかで、ちゃんと象徴天皇制について考えて、その上でいまの天皇制を支持して、元号の必要性についてもちゃんと考えた上でそれが良いと考えて、で、めでたいめでたいと騒いでた人がどのくらいいたのでしょうか?

2011年からこっち、何にもしていなかったわけではもちろんありませんが、なにとなくブログの更新が億劫になっていました。

いま2019年。あらためておもうことを綴っていきたいと思います。

日々目にする惨状に言葉もありません。
被災された方々には心よりお見舞いを申し上げます。

この1週間、なにか私にできることはないかと考え続けてきました。
被災された方々には、不自由な生活が長期間続くと思われます。
まだそのような状態ではないかもしれませんが、例えば、お子さま(小学校低学年から受験生まで)に、学習支援などして差し上げることができるかもしれません。

ただ私自身もこちらで継続的な仕事があって1週間のうち続けて空けられるのが2~3日という状態で、距離的なことも考えると、現地入りしてのボランティア活動などは、非現実的かもしれません。
でも、関西地方に避難して来ていらっしゃる方々、あるいは、短期でも長期でもこちらにお子さまを預けてもいいと思われるご家族があれば、受験勉強や学習のお手伝いなどできるかもしれません。(宿泊やホームステイのお世話もできます)。
あるいは、同業のみなさま(塾・予備校関係者、家庭教師の方々など)のなかに志を同じくする方がいらっしゃれば、ボランティアチームを組織して代わるがわる現地に伺うこともできるかもしれません。
どんなかたちであれ、もし私にできることがあれば、お力になりたいです。

「踏襲」を「ふしゅう」と読んだり、「未曾有」を「みぞゆう」と読んだり、「頻繁」を「はんざつ」と読んだりするような人を首相にいただくなんて、嫌だなあ…。頭の悪さまるだし。

とはいえ、漢字熟語の読み方や書き方を間違って覚えているのは、私でもよくあることです。
間違った読み方が普及してしまった結果、そっちでも許されることになった読みも多いしね。

たとえば「消耗」は「しょうもう」と読んでもいいことになっているけど、本来は「しょうこう」です。

大西巨人の『神聖喜劇』に、主人公が知性に優れていることを示すために、このての「読み間違いが一般化している漢字熟語」がずらずらと出てきたところがありました。
これはこれで嫌みったらしい。

 子どもたちを見てると常々思うことなんだけど、いまの教育体制(社会体制も?)のなかでは、早熟型の子が得をし、晩成型の子は損をするなあ…。
 入学試験やあらゆる学力試験など、ある時点で同じ年齢の横割りの層で競われるため、成長の早い子は高い点が取れるし、比較的遅い子は低い点にとどまってしまう。「遅い」のが「劣っている」ということは絶対なくて、遅くても能力(潜在的能力も含めて)の高い子はいるはずなのに、「劣っている子」扱いされてしまう。
 その時点だけでの評価にとどまればまだしも、優等生は優等生教育へ組み込まれてどんどん英才教育され、劣等生はいつまでも劣等生扱いというようなこわばった体制のなかでは、なかなか最初に組み込まれたカテゴリーから抜け出せない。
 本人も、最初に点が悪かった子は単に遅いだけかもしれないのに「自分は頭が悪い」と思い込んでしまい、周囲も自分もせっかくの能力を塞いでしまいがちだ。逆に最初は早いだけで同級生から抜きん出た子も、「自分はできるんだ」と自分に自信を持ち、周囲からも「優等生」扱いされてそれにふさわしい動機と環境を与えられると、本当にどんどん伸びていくことになる。早熟な子はどこまでも得をするというわけだ。(2月、3月生まれの子どもは、同学年のなかでも一番年齢的に若くなるため、いつまでも損をするというのも、実際にある。)
 成長の早い、遅いだけではない。文章を読む時間、問題を考える時間、頭の回転が早くぱっと素早く答えを出せる子と、じっくりゆっくり考えて答えに辿り着く子と。ある程度は知的能力そのものの違いもあるだろうけど、遅くても知的能力が高い子もいるはずなのに、今の体制では損をすることになる。
 「早いことはいいことだ」。こういう価値観って、いつから蔓延しだしたのだろう?
ずいぶん間があいてしまって申し訳ありません。
夏休みの勉強のことなど書いておこうかなと思いつつ、夏休みは私にとっても稼ぎ時であるため、なかなか落ち着いて書く暇がないまま、その夏休みも過ぎようとしています。
本をじっくり読むチャンスなんだけど、子どもたちはどれくらい本を読んだかな?
 
子どものときに良い読み方は、「繰り返し読み」と「浮気読み」であると思ってます。
気に入った本は、何度でも何度でもなめるように読み返す。実はこのあいだに大切なことばの能力を学んでいます。
知識や教養を広めるために読む本は、あれこれ浮気しながらたくさん読む。別に一冊一冊最初から最後まできちんと読み通す必要はないのです。一冊終えないと次の本に進めないみたいに言うひと(そう指導するひと)もいますが、私は次から次へと浮気しちゃっていいと思ってます。
そのなかで、気に入った本ができれば、その本は「繰り返し読み」で何度も何度もなめるように読む…。
 
浅く広く読むのと、深く狭く読むのと、両方の方向が必要です。
これは、子どもの読書に限ったことではありませんが。
よくある誤解だが、入試に出る作文、論文に「うまい文章」「文章のうまさ」は必要ない。

どこが評価のポイントになるか(どこが見られているか?)はまた追々書いていきますが、少なくとも「文章のうまさ」は評価の対象に入っていません。
逆に言えば、文章の下手な子でもちゃんと「合格作文」「合格論文」は書けるということです。

さらに言えば、文章のうま過ぎる子は、自分の文章のうまさに足を掬われてしまうことすらあります。
つまり、小さいころから作文得意で、自分なりの作文術、自分なりの文章作法を身につけ、それを周囲の大人から「うまい!」とか「上手!」とかもてはやされたり、賞を取ったりしている子は、どんなテーマが出ても自分の得意な作文術の範囲で処理してしまおうとする。人間、一度うまくいった手は何度でも使ってしまいがちなんです。
それがはまってればいいんですが、はまっていなかった場合、評価が逆に下がってしまうことすらありますね。(内容の貧弱さを修辞でごまかしていると思われてしまうとか…)。
入試作文に「文章のうまさ」が逆に作用するケースです。

もちろん、試験の題材にぴたりとはまっていて、なおかつ作文としても非常に巧緻な、私から見て「舌を巻くほどうまい!」作文を書く子もいます。
こういうのってほとんど天性なので、そういう子には私から教えることなどあまりありませんね。

普通の子、文章の苦手な子は、訓練次第でなんとでもなります。
まずは努力しましょう。

もちろん闇雲に努力してもいけません。
また、作文練習のしかたなども追々書いていきますね。

板書が苦手。というより下手である。
書道は好きなので、字じたいは悪くないと思うのだが、全体としてきれいに書くことができない。
授業で板書するときは、生徒のほうを半分向きながら、しゃべりながら、半身のようなかたちになって書くせいか、書いてからあとで見ると、必ずゆがんでいるのである。まっすぐ縦に書くことができない。
チョット注意すればいいのになぁ・・・と思いつつ、いつもそのまんま。

上手な人だと、ホントに芸術的とさえ言えるような素晴らしい板書を書く先生がいるけどね。
一字一字もさることながら、全体のレイアウトが良い。
みとれてしまうような美しさ・・・。ああ私もこういうのが書けたらなあとよく思います。
学生時代にアルバイトで家庭教師をやっていたときは、それこそ全科目教えていました。
英語・国語から数学・理科・社会まで。受験勉強の記憶がまだあったから、数学も文系の難関国立大学レベルまで平気だった。
友達と塾をやるようになったときは、私が文系科目を受け持ったもので、理系はやっぱり理系の人に任せたほうがいいなと思いました。
雇われ講師の身になってからは、やっぱり教科に特化していくので、だんだん国語が専門科目になりました。
…と、自分で選んだわけではなく、環境から(周囲から?)選んでもらった結果、自分の専門科目が決まってきてます(笑)。
でも、今でも家庭教師などの場合は、英語、国語、社会系と文系科目を複数持つようなかたちになりますね。理系は理系の先生、私は文系という分担です。
社会系の科目って、どんどん時代に応じて新しいことが出てくるので、教えていても楽しいです。
こちらのキャリアも考えてみると25年を越えますねぇ…
本格的に「書く」お仕事を学んだのは、広告プロダクションに就職してからですが、雑誌の小さな記事や翻訳などは学生時代からしてました。
就職してからは、出版関係より広告宣伝関係の原稿がほとんど。だから、昔昔はけっこう良いギャラをもらっていましたよ。バブルがはじけてからは、その原稿料がまーったく上がらないのがつらいところですが。(むしろ相場は下がっているかも…)。
お勤めしていたのはそれほど長くなく、何年か後には独立してフリーランスの立場で仕事を始めました。
企業関係の冊子の仕事が多くて、当初はほんっとに忙しかったですね。でも、90年代の半ば以降かなぁ…世の中景気が悪くなってから、仕事の量がガタッと減りました…。
…って不景気なお話でした。どのライターさんも、同じような経験をしてきているかもしれません。