さあ、この次の話、みなさま待ち焦がれているだろうなぁ・・

と、わかっちゃいるけど、わたしにはロクな答えはないのです。

意識低い子に意識持たせるにはどうしたらいいの? ですよね。


だれでもわかることかもしれませんが、学力(もともとの能力)と意識を掛け合わせると…

元の能力が高く・意識高い子→もちろん放っといても伸びます。こういうお子さんたちからはわたし自身学ぶことも多いです。

元の能力が低めで・意識高い子→これがいちばん嬉しいパターンで、ぐんぐん伸びます。何が伸びるのを邪魔していたかをいちいち取り除いてやり、うまい方向へ導くだけで、面白いように伸びます。伸びしろが大きいというやつね。

元の能力が高く・意識低い子→わりとこのタイプ好きです。そのええ加減さに付き合ってあげます。伸びるとか、伸びないとか、関係ない世界を生きていくような感じもします。そのうち自分なりに必要に応じて意識を作り、その子の道を見出します。こういうタイプのお子さんにもわたしが学ぶことは多いです。

元の能力が低めで・意識低い子→こういうお子さんにかぎって保護者の方々が必死にお尻叩いてたりするので、余計事態がこんがらがります。いちばん残念なパターンは、お子さんが自分を「あたしは(僕は)あかん奴だから」と早くから見限ってしまって、家庭教師に対しても学校でも、とりあえず表面を繕うだけで、なんとか嫌な時間をやり過ごそうとしているだけ・・。かわいそうですよね。大切なその子の人生の時間を「嫌な時間」で消費しないといけないなんて・・。

みなさん、そんなこととっくにご存知だと思うけど、「勉強しなさい」とうるさく言い続けるほどに勉強しない子になります。

じゃあ、どうすればいいの?

続きは次回。

(いや、決してto be continued で引っ張ろうとしてるわけではないのですよ。わたしにもまだこの先どう書けばいいか、見えてないんです。)

承前
生徒さんに文章読ませながら問う主な問いは、「この段落の中で重要なところはどこだと思う?」「この文章全体で一番大切なことばは何だと思う?」です。要は、キーセンテンス、キーワードを見つける作業です。
これも、読解力の乏しい子は笑っちゃうほど外しますねぇ・・。一文一文は読めてるつもりでも、それが連なった文脈が読めていないから、なんとなく自分の目に入った文章を適当に選んでしまう。あるいは、自分にとって異質に思えたことばだけが印象に残ってしまう。まあ、でも、初めはそんなもんだと思います。
そのうちコツだけ掴んで、わかってなくても(わかってないくせに)キーワード、キーセンテンスが選び出せる段階が来ますけど、それはそれで大切な段階だと思います。そのうちにちゃんとわかったうえで、正しく選び出せるようになります。(もちろんわたしが何も教えなくても最初の最初っからそれがちゃんとできる生徒さんもいます。)
以上、こうして生徒にボケをかまさせ、わたしがいちいちツッコむ、まるで漫才みたいな読解練習の様子がお分かりいただけたかと思うのですが(とはいえ、いつもいつもボケとツッコミが固定しているわけではありません。こう見えてわたしも結構な天然ボケなんで、生徒さんからツッコまれることが、頻繁にあります(笑))、もちろんいろんなボケをかましてくれる生徒さんの無知や無理解をあげつらって笑い話にして馬鹿にするためにそうしているのでは決してなく、ちゃんとヒントを与えて考えさせ、できれば(試行錯誤の末にであれ)自力で正解に見つけさせ、ヒントを与えに与えてもダメなら教えてあげて、正しい(というか適切な)読解に辿り着きます。
わたしのそういう指導の仕方を後ろで見ていたあるお母さんが、「そうやって先生と一緒に読むときはちゃんとわかるみたいだけど、いざテストとなると一人で読まないといけないから・・」と心配そうにおっしゃっていました。
そのご心配、もっともです。ものすごくもっともです。というのは、それから先は、生徒さんの自覚が大きく関わってくるからです。そんなふうにあれこれやりとりしながら深く読むことを学び、自分がこれまでいかに読み違えをしていたか、いかに表面的にしか読んでいなかったか、あるいはことばを知らなかったか、ちゃんと自覚を持てて「よし、これではいけない」と奮起したり、文を読むことの面白さ、新たな発見に興奮して「なるほど、文を読むって楽しい!自分でもやってみよう」と思ったり、自分の力で頑張ってみようと思えた生徒さんは、必ず伸びます。いろいろ解説を聞いても「はぁ〜そうなんですね」と受け身一辺倒で、そこに何の感情も見出せず、翌日になったら授業の記憶すら残らない生徒さんは・・正直言って難しいです。

承前

その前に

語彙力の怪しい子も多いですから(というか、受験国語って無駄に難しい文章読ませたりするので)、この言葉わからないだろうなぁ・・と思うところで、いちいち言葉の意味も問います。このごろの子どもって、びっくりするような言葉(ある年齢以上の大人だと普通に知ってるような言葉)を知らなかったりします。(このことはまたいずれ書きます。特にやまとことばの消滅が著しいですねえ・・。)

ホントは「いちいち辞書引きなさい」ですけど、みなさんも経験あるでしょ? 英語(に限らず外国語)の勉強なんかであまりに辞書引く頻度が多いと、読む気をなくしてしまう。それでわたしは、その子の知らない言葉が出てきたら、大体その場で教えてしまいます。(必要だと思われるときは辞書引かせます。わたしが言わなくても意識の高い子はその場で自分で辞書引いて確かめますね。)

不思議ですけど、読解力に難のある子に限って、文章を読み飛ばして、なおかつわからない言葉に引っかからないことが多いですね。段落ひとつ読み終えて「わかった?」「うん、わかった」「んーと、じゃあね、この言葉どういう意味?」「・・ええと・・」「この言葉を知らないの?わかってるけど説明できないの?」で、やっぱり全然わかってなかったりします。

言葉の意味に敏感になってほしいですね。特に中高生になってくると(あるいは大人でも)、その言葉の意味を知らないのに、似たような言葉や漢字から憶測して全然違う意味に取っていたりすることがよくあります。

それだと文意が通らないんですけど、それに気づかない。まず「おかしい」と思ってほしいですね。

承前

物語の場合

ある小学生との対話

「ほら、ここ、この人はどんな気持ち?」

「うれしい」

「なんでうれしいの? どんなふうにうれしいの?」

「・・・んーと、わかんない」

・・・

「ここは、どんな気持ち?」

「えーとね、いやな感じ」

「うん、いやな感じだよね。うれしくはないよね。でも『いやな感じ』以外になにか言葉ないかな?」

「・・・わかんない」

いちばん稚い(年齢の問題ではなく)子どもの場合、「ほんまにおまえらは快・不快しか弁別しないのかい」と内心ツッコみたくなることもあります(笑)。

心情をどう表現するかは、もちろんその子ども自身が実生活の中でどれだけ豊かな感情生活をしているかが大前提で、それは国語教師の仕事ではありませんのでどうしようもないところもありますが、ある、これまで体験したことのない感情に出会ったとき(実生活の中であれ文章の中であれ)、それをどう名付けるか、どのように表現するかは、まずは大人が教えてあげないといけないとおもいます。

あ、でも物語の場合は、小学生向けの教材であっても、高校生向けの小説であっても、そもそも「筋」が読めていない生徒さんも多いです。そのときも

「ここ、どうなった?」

「この人に何事が起こった?」

などと確認します。

以下、続きます。

で、実際の指導はどうするか、ですよね。

わたしは、基本「本文」を読ませることから始めます。

設問を先に読ませる先生もいるようですが、生徒がそうしたがっても、わたしはそうはさせません。

なぜって?当たり前です。わたしの指導のなかで「本文」は「設問を解くために」読むのではないからです。

「点を取るため」「設問を解くため」本文を読むのなら、そりゃあ設問を先に読んどく手もあるでしょうけど、まずはそんなことはさせません。

本文をまず読解していただく。

で、読ませておいて、いちいちツッコミます。

「ここでこの筆者はなにを言いたいの?」「この文章、どういう意味?」「この段落、まとめてみてくれる?」「ここでこの子、どういう気持ち?」・・・etc.

いや、最初はおもしろいですよ。いまどきの子ども(もちろん十把一絡げにそうではなく、そうではない子どもたちも多いですが)、なーんも考えずに読んでる子がどれほど多いことか(笑)。

「読んで」というと、すらすら読んでくれますが、なんも考えずに読み飛ばしている。

ある高校生との対話。

「これ、この文、どういう意味?」

「え〜っと・・言葉通りの意味ではないですか?」

「もちろん言葉通りの意味ではあるけれど、あなたなりに説明するとどうなる?」

「・・・わからないです。」

「この文、常識的に考えるとめちゃ変なこと書いてると思わない?」

「そうですか?」

「そう思わなかった?」

「・・いや特に・・思わないといけないんですか?」

「いけないんです! 筆者はここでわざと変なこと言って読者を挑発しようとしてるんですよ!」

「・・・」

「ここで『エッ?』と思わないと、このあとに書いてあることが、筆者の意図どおり理解できないでしょ?」

「・・・そんなもんなんですか?」

「そんなもんなんです。じゃ、あなたは、このあとに書いてある筆者の意図を、どう捉えたの?」

「・・えーと、言葉通りだと思うのですが・・」

「もちろん言葉通りにはちがいないんだけど、あなたの言葉で説明するとどうなる?」

「・・・わからないです。」

(笑)・・・・なんだか漫才みたいですね。

考えながら読んでると、難しい文に出会って「ここの文はどういう意味かな?」と考えるときに、いちいち書いてあることを自分の言葉に直して自分の頭に納得させてますから、「自分の言葉で説明して」と言われて何の言葉も出てこないなんてこと、ありえないですよね。

この漫才の続きはまた明日。

「読む力をつける」のこれがラストです。次はこの話だろうなぁと見当のついてた人もいるはず。

そう、「考えながら」読む要点の最後は、その文章の「表現」に注目しながら読むということです。

これって、ある意味「筆者と出会う」ことでもあるんですよね。最初にも書きましたっけ?「この人なんでわざわざこんな難しい表現使うんだろ?」「この比喩ってなんなの?わかんね〜」とか思うような文章。それって、筆者が読者を挑発してるんですよね。その挑発に乗って、筆者と格闘するのが、読書のおもしろさの一つでもあります。よく言われることですが、書かれた文章の本当の意味だったり価値だったりは、筆者が一義的に作ってしまってハイ終わり、あとは筆者の意図通り読みこなしなさい、というものではなく、本来筆者と読者との共同作業で創りあげていくものなんです。

受験国語ごときではそこまでいきませんけど、少なくとも筆者が工夫した表現の細部まで味わいながら読みたいですよね。あ、この表現素敵!とか、おんなじことを意味しててもこの書き方だからこそ印象深いとか、筆者独特の表現方法に気づき、味わってほしいのです。一度サーっと読んでしまっただけではなかなか気づかないところが、何度も何度も繰り返し読むうちにわかってきます。まるで宝物のように文章の片隅に何かキラリと光る表現を見つけたり、文の背後に隠された意図を捜し当てたり、巧緻な文の流れに身を任せて筆者の手練れに驚嘆したりしたときの、あの嬉しさ、悦びって、やっぱり文章を繰り返し読むことが好きな人じゃないとわからないのではないでしょうか。

またもちろん、筆者がそもそもこの文章を書いた意図は何なのか、読者に対して何を訴えかけたいのか、文章全体のテーマも考えながら読み進めないといけないですよね。ただこの「テーマ」は、受験国語だと(筆者が意図した通りの)たった一つか二つのように教えられますけど、これは本来読者が好き勝手に読み取るものだとわたしは思っています。ある文章を読んで何を受け取ったか、は、読者に委ねられているのではないでしょうか。必ずしも筆者が意図した通りとか、ましてや教室で教えられる通りとか、世間で考えられている通りのものをそのまま受け取らなくてはいけないってことはないんです。

 

自分の感じている気持ちから、他者の感じていることを想像する、理解する、共感する力って、ものすごく大切な人間の力だと言われています。動物にもある程度はあるそうですが。(犬とか猫とかペットを飼ってる人なら誰でも知ってますよね?でも実はペットの場合、飼い主が勝手に自分の気持ちを投射してるだけってことも多いそうですが・・)。
物語を繰り返し繰り返し読むことは、感情を学ぶという大切な体験になります。何度も何度も読んで筋なんてとっくに覚えてるのに何度でも読みたくなる物語があります。読むたびごとにいろんな感情を発見する。登場人物に好きな人、嫌いな人、自分を投影する人物、自分の身近な人や知っている人を投影する人物、が出てきて、そのときにその人物が感じている感情や思考をありありと実感する。
ごく幼いうちは単に快・不快、良い・悪い、だけですが、そこから派生していろんな感情・思考を学ぶ、複雑な感情、高度な思考を学ぶ。良質の物語を繰り返し読むことで、感情的にも思考的にもどんどん豊かになっていきます。
いわば、本の中でいろんな人間に出会って、その人間から学んでいるんですよね。
実は論説文だって、この筆者はいったい何を思って何を考えてこんなことを書くんだろう?と考えながら読むわけですから、やっぱり人間と出会っていることになるんです。
本を読むとは人間と出会うこと。ってたくさんの人が言ってましたよね。

物語の場合、幼い頃から読み聞かせなどで「物語の力」がついていると、放っておいてもいろいろ想像しながら読むようになりますよね。まずは、展開を追い、「すじ」を追います。物語の登場人物になにが起こったのか、次になにが起こるのか? 早く知りたくて知りたくて、どんどんページをめくります。
本だけでなく、テレビドラマであれ、映画であれ、大昔からいくつかの物語の「型」があって、おおむねその通りに進みますから、見る方は(読む方は)だいたい次になにが起こるのかを想像し、その通りに進めばホッとし、それを裏切る展開だったり結末だったりすると驚き、おもしろい場合は思いっきり笑い、悲しい物語の場合は思いっきり泣き、泣くことでカタルシス(すーっとした感じ)を得ることができます。推理小説だったら犯人は誰だろう?と常に想像しながら読み進めますよね。
展開を追い、筋を追うだけの読み方は、基本的に誰でもできる読み方なのですが、気をつけないといけないのが、起こったできごとなどがハッキリその通りの言葉で示されず、暗示されていたり婉曲に描かれていたりする場合。これはドラマや映画にも多いですよね。幼いうちはそれらの表現がわかりませんから、大人がついていて「どうなったか」を説明してあげないといけないと思います。(もちろん勝手に習得する子もいます。)
「なんでこんなにわかりにくく書くんだ?」と呟きたくなるほど、こうした婉曲話法が多い作家もいますが、自分が物語を書く立場に立ってみるとわかると思います。たとえば主人公が死ぬシーン。「〇〇は死んだ」と直截的に表現するより、なにかそれを示す素敵な表現がないか考えませんか? 読む方は、作者が考えに考え抜いて工夫したその表現を、やっぱり考えて考えて理解しないといけないわけ。そして理解できたときに、なにかパズルを解いたような快感もあるわけです。
みなさんも経験ありませんか? 小さい頃こういう難しい表現に出会って、「あっ、これって、こういうことなんだ!」とわかったときの快感。(本でもドラマでも映画でも)。わたしはあります。その快感、面白さが、もっともっと読みたいという興味につながります。最初はある程度、大人の手引きが必要かと思います。

これまでのところは主に論説文を念頭に置きながら読み方のポイントをお話ししています。
論説文で特に難しいのは、抽象的な言葉が連ねてある文ですね。

筆者本人がそのあとにその抽象概念を具体的な事柄で説明していたり定義していたりする場合はともかく、その抽象概念でずっと突っ走る場合もあります。
こういった文章を読解していく場合、2つのやり方があります。

ひとつは数学の方程式とか論理学の式みたいに抽象概念は抽象概念そのまんまで読み進んでいくこと。もし筆者自身が具体的な説明などを一切しないで抽象概念で突っ走っている場合は、本来このやりかたの方がふさわしいと思います。(もちろんその抽象概念の内容もしくは定義は心得ておく必要がありますよ。)
しかしそれでわかりにくいようなら、自分なりにその抽象概念を何かに置き換えられないかを考えてましょう。いわば「解釈」を試みるわけですね。

筆者が言っている抽象概念を具体的なものやことに置き換えるとどうなるのか?例を挙げるとすればどういうことなのか? 筆者はこれを書きながらどういう現実を想定しているのか?

このやり方だと、下手すると筆者の意図から遠ざかってしまう危険性もあるのですが、そういう文章に慣れていない生徒さんにはそういう指導をします。
特に哲学や思想の文章って難しいですよね。私自身はそういう難しい文章が大好きで、うわぁ自分には歯が立たないと感じても何とか読もうとします。
脳の力を鍛える訓練になりますね。

承前

前回は比喩をつかって「文脈を追う」ことについてのお話をしました。その文脈を前へ前へと進ませる力になるのが、論理の力です。

論理は、長い文章を貫き、それが筆者の主張に説得力を与えます。

自分が文章を書いたり、人に何かを話したりするときにも心当たりがあるでしょう。何か一言言うだけで相手が説得されてくれたらラッキーですが、普通は自分の言いたいことに説得力をつけるために、いろいろ説明を加えたり、まずは相手の興味を引いて自分の話の領域に引き入れた上で、相手を説得します。話し合いやディベートの場合だと、相手に同意したり反論したりするうちに、自分の言いたいことを明快にし、相手を論破します。

文章の場合、いろいろやり方がありますよね。たとえば、因果関係で論をつないでいく場合(最初に結論を言っておいて「なぜなら」と理由を述べたり、一つの論から次の論へ次の論へと段階的に因果関係をつないだり)もあれば、例を挙げる場合(これも最初に結論言って「たとえば」と例をあげたり、最初に例を並べておいて結論を述べたり)もあります。最初に大まかな結論言っておいてそれを詳細に論じる場合もあれば、いろんな角度から論じ直す場合もあります。また仮想ディベートというか、予想される反論を挙げたうえでそれを論破するというやりかたもあります。これはすべて、自分が文章を書くときに使える手です。

読むときは、筆者がどの手をつかっているかを読み取り、その力に押されて文脈を辿るわけです。その力が確かに自分を説得するものか、それとも何らかの疑問を残すものなのか(筆者によってはわざと読者を煙に巻くような書き方をする人もいます)、そこでも「考えながら」読まないといけませんよね。