古文の授業にて。

題材は擬古物語。男君と姫君との恋愛話のなかで

本文「(姫君が)うちしめり給ひて」

とあるところ。

教師(わたし)「『うち』というのは「なんとなく」とか「ちょっと」とか「すっかり」とか意味ないことはないけど、まぁことばの調子を整えるだけの、あんまり意味のない接頭語です。無視してくれて構いません。意味のあるとこは『しめる』の部分ね。姫君、どんな状態?」

生徒さん「・・・ええと、何か(窓でも)『閉める』んですか?」

わたし「ち〜が〜う〜! ・・しめるは『湿る』です。(いまの季節みたいに)梅雨だとあらゆるものが湿気を帯びるでしょ? その『湿る』。ニンゲンが『湿る』ってどういう状態?」

生徒さん(男子高校生)

・・・(散々考えた末に)

「・・汗かいてるんですか?」

・・・

姫君、ジョギングでもしてたのか・・?

・・・

(〇〇くん、ネタにしてごめんネ)

わかっている人が既にわかっていることを未だわかっていない人にわかってもらえるように説明するのって、むずかしい。

「何聞いてたん?」(いま説明したばかりでしょ!?)と一瞬相手を責めそうになり、聞いてなかったわけではなく、その部分が相手にピンと来てなかったことに思い当たる。

やれそれ・・

脱力。

もういちど丁寧に説明し直して「わかった?」と聞くと「わかった」と言う。

「コレとコレのちがい、説明してみて」と言うとわたしのおこなった説明を繰り返す。

でもホントにわかったかどうか疑問だ。しばらくおいてまた応用問題やらせてみよう。

やっぱりわかっていない確率が高いだろうなぁ・・

しかし・・

未だわかっていない人が何か新しいことをわかるためには、わかるだけの動機付けが必要なのだが・・。

説明したときに「なるほど〜」とか「面白い」とか「へ〜(いいこと聞いたな)」とか思ってもらえると、確実にわかってもらえる。(わかってもらえた内容が正しく伝わっているかはまた別の問題だけど)。

要は、これまで知らなかったなにごとかをわかることが、その人の人生になんらかの利点をもたらすならば、それがわかるための動機付けになるわけだけど。

これまで知らなかったそのことをなんでわからなければならないのかがわからないとき・・そりゃぁ「ピンと来ない」わなぁ・・。

これまでそのことを知らずに生きてきてなんの支障もなかったし、それがわかったからといってなにかが変わると思えない。

なんど教えてもAという概念とBという概念をごっちゃにする子がいて、そのたびごとにAとBとの違いを説明するのだが、これまでAとBとをごっちゃにして生きていてその子の人生になんの支障もなかったしこれからも格別差異があるとは思えない。・・のだろうなぁ・・。

仕事に必要とか受験に必要とか、こういう論説文を正確に理解するためには、この問題を解くためには、これを理解することがかならず必要だから、という動機付けは、本当の意味では動機付けにならない。

それを「わかった」ことで、何かその子のあたまのなかで(ひいてはその子の人生のなかで)「あ、見つけた!」(何か新しい異なることが起こった!)みたいな「なにか」があれば、それが事後的に動機付けになるんですけどね。

先にも書きましたね。物語を読み解くときの注意。

文章に書かれていない部分に想像力を働かせること。

わかりやすい例で言えば、登場人物の心情。セリフではこういう言葉を言ってるけど、実は心の中ではこう思ってるかもしれない。表向きはこう振舞っていても、心の中は別かもしれない。

読む人が豊かな感情を経験したことがあり、また物語の感情表現に慣れていればいるほど、そのときの登場人物の感情をありありと追体験することができます。

でも、実はもっと基本的な部分で、これが読めてないと物語を読んだことにならないでしょ、というのがあって、それは「すじ」です。つまり物語のストーリーそのものね。

このあいだのエントリーでは、まさか大人になって物語のあらすじが読み取れないなんてことありえないでしょ、とか思った人がいたかもしれません。

実は、あるんです。

文章には書かれていない「隠れたすじ」があります。

一番わかりやすい例で言えば、このあいだも書いたように、「死んだ」とは書かずに主人公が死んだことを暗示するような表現の数々ね。

それぐらいわかるわい!と思った大人の方々、実は、気をつけないと、これらの暗示的な表現、物語の隠れたすじを読み取る力って、近年じわじわ減ってきているのかもしれません。

ある予備校のセンター模試(過去問)で、これをものすごくうまく突いた問題があり、最近それをある生徒さんと一緒にやっていて、またその子が見事に引っかかってくれたため、思い出しました。

センター国語・問2の小説問題。題材はある児童文学作家(明治生まれ昭和まで活躍された高名な作家)の書いたひと昔前の児童小説。

実はこの作品、よくよく考えてみると、ものすごく巧みに作ってあります。

児童文学だから難しい言葉はひとつも使ってありません。子どもでもある程度の年齢になれば読めるし、読み聞かせならばもっと小さい年齢で読んでもらって、ちゃんとわかります。

ただしこれ、小さい子どもが理解する「すじ」と、大人が分かる「すじ」とでは異なるのです。

子どもが読むと、表面上のすじしか理解しない。主人公の(たぶん読者と同じ年頃の)少年が台詞で言ってることを、そのまんま受け取って、そのまんま信じるだけです。(もちろん主人公の少年は、自分が口にしているまんまのことしか信じていません。) ところが大人の読者がこれを読むと、その少年の言葉の裏に隠された事情があり、隠れた「すじ」があるのが「ははーん」とわかるのです。(いろんな解釈ができるでしょ?という反論があるかもしれませんが、作者がそう読んで欲しいことは、別の部分の表現ではっきりわかるようになってます。)

たぶん、同じ物語を繰り返し読んでいると、子どもがある年齢にまで達したときに「あっ、これってこういう意味だったんだ!」と分かる瞬間が来ます。(おそらく小学校4年生ぐらい?サンタクロースを信じなくなる年頃に?いやもっと高学年にならないとわからないかな?小6から中1ぐらいになれば確実に分かると思う。)

賢い大人なら、この作品を一緒に読んでいて、子どもが表面上しかわからなかったとしても、(サンタクロースを敢えて否定したりしないように)、「ホントはこうなのよ」なんて説明したりしないでしょう。その子がその物語を繰り返し読んで、本当のことに気づくようになるまで、その精神的な成長を待つと思います。

つまり作者は「大人の読者なら読んでわかる」ことを前提に書いてあるのです。

ところが!

これが高校生になってもわからない子がいるのです。

今時の高校生、かなり優秀なお子さんのなかにもね。

説明すれば当然のようにわかります。「ああ、そういうことだったんですね」って。

だけどだけどだけど・・説明せなわからんかぁ!!!とわたしは叫びたくなります。

それに・・センター模試なんだから選択肢がそこにあるでしょ? その選択肢みても気づかんかぁ!!!

なんでなんでしょう?

物語を読むことに慣れていないから?

想像をめぐらせながら読むことに慣れていないから?

かなりの危機感を覚えますね・・。

古文を高校生に教えるときに微妙に困るのが、エロいシーンが平気で出てくること。
参考書とかの現代語訳には「共寝」とかさらっと訳してあるけど、細かく読むと、この文とこの文とのあいだに、主人公お二人がいたしていらっしゃる(二重敬語ですね(笑))のであるとか、この描写はこういう意味があるのであるとか、詳しく解説するとまあ何と言っていいのか・・そこまで詳しく解説しない方がいいのか・・?(笑)。
女の子は、経験ありそな子でもなさそな子でもわりとノンシャランと受け取ってくれるからいいのだが(はっきり「ある子」が思いがけなく鋭いツッコミをしてきて教師と生徒で二人オトナの会話してうなずきあったりしたこともあった)、男の子でやたら反応がある子(賭けてもいいが未経験)にはちと困る(笑)。
そんな場面をホントに読んだことなかったのか、学校ではどう教えてたのか知らないが、初めて「共寝」の場面を一緒に読んだときに、「ええっ!そんな場面出てきて(高校生に読ませて)いいんですか!?」とマジで驚いた子がいた。
「いいんです。センター国語の古文にもやたらめったら出てくるよ」と言うと、さらに驚いている。
・・んんん。
これを利用して「先生の授業では恋愛話や性愛の話が赤裸々に聞ける」ことを売り物にしている某予備校の女性の古文の先生もいらっしゃるそうですが・・(例のマドンナ先生ではありません。念のため)、わたしはそこまでようしませんわぁ〜。自分が恥ずかしくなってしまって・・そもそも語れるほどに経験もあんまりないし〜〜(爆)。
ほかの古文の先生方、ことに学校の先生方は、どのように教えてらっしゃるんですかぁ???

先に「仰げば尊し」の歌詞の中の「今こそ別れめ」の「め」が推量・意志の助動詞「む」の已然形であることに気づかなかった話を書いたことがありましたが、一方「蛍の光」の歌詞の中の「いつしか年もすぎの戸を 開けてぞ今朝は別れ行く」の「すぎ」が「過ぎ」と「杉」の掛詞であることは、中高時代から誰にも教わらずにわかっていましたね。

 

ところで、ある女子高校生に和歌の修辞の一つとして「掛詞(かけことば)」を教えていたときのこと。

「掛詞ってわかる?」

「ああ、知ってる。オヤジギャグのことやろ?」

 

・・文字通り「ぎゃふん」でした。

彼女にとっては、優雅で巧みな和歌の掛詞の数々も、オヤジのダジャレと同じなのでありました。

ある小学生を教えていたときのこと。

物語文を読ませているときに「おじいさん」とあるのを「おじさん」と読む。「おじいさん」と訂正させる。ところが次に出てきたときにも「おじいさん」を「おじさん」と読む。

「おじいさんとおじさんとはちがうでしょ?」

気になってたずねると、なんと「おじいさん」と「おじさん」のちがいがわかっていなかった!

こうこうこうだよ、と説明すると、わかる。

で、あなたの「おじいさん」は誰? 「おじさん」は誰? と確認してようやくわかる。

この子の場合、「おばあさん」はいつも身近にいるので、(そしていつも「おかあさん」との間で母娘のやりとりをしているので)、日常的感覚として分かっているようだった。

けど、「おじさん」「おばさん」の概念は、説明するとわかるのだが、どうも日常的感覚として分かっていない。だって、血のつながっていない「おじさん」「おばさん」もいるもんね。

この小学生だけかと思ってたら、おんなじように「おじいさん」を「おじさん」と読み間違え、「おじ」「おば」の概念が分かっていなかった子がその後もぞろぞろ・・なんと上は高校生で出てきた。

高校生相手に「おじいさんとおじさん」の違いを説明しなければならないとは・・。

「おじ」と「おば」の概念も、一度説明して、二度目に「覚えてる?」と確認すると、えーと・・としばらく頭の中で反芻してから、ようやく答えが出てきた。考えなわからんか〜〜〜???

「いとこ」は知ってる。盆正月とかでたまに会って遊んだり、「いとこの〇〇ちゃんは優秀で△△大学に入った」などと比較されるせいだろう。だけど、「いとこ」の概念を尋ねると、怪しい。

核家族育ちで、それ以外の家族や親戚と触れ合う機会が少ないせいだろうか・・。

    *

ちなみに、これは関西だけかもしれないが、これまで血のつながりはなくても身近で親しい女性のことを「おばさん」「おばあさん」と呼んでいたところ、このごろは身近で親しい少し年上の女性のことは「おねえさん」、だいぶ年上の女性のことは「おかあさん」と呼ぶのが普通となっているらしい。

関西だけ? いや、わたしの住んでる大阪の下町の商売人の家庭が多い環境だけのことかもしれないが・・。

床の間を「ゆかのあいだ」と読むのは、既に古典的なギャグになっておりましょうか? 約10年前に実際に小4だった生徒で遭遇しまして、長らくネタにしていました。今やいまどきの子どもは床の間を知らないことを前提に話します。
例外的に知ってる子は「おばあちゃんの家にある!」とか「旅行したときに旅館にあった」とかですかね。
おなじく「蚊帳」も知らないことを前提にしゃべります。こちら知ってる子は、「キャンプに行ったときにあった!」とかですかね。
「たらちねの母がつりたる青蚊帳をすがしといねつたるみたれども」の長塚節の一首は「蚊帳をつる」仕事の身体感覚なくしては理解が難しいのですけど、これをどう教えるのか?
それとも、教えなくてもいいのか?
わたし自身は決して「日本人は日本文化をしっかり守るべき」とか思ってませんので、蚊帳も、床の間も、ない家に育った子どもがいたって、別にどうってことないんじゃないとは思うのですが・・。

ちなみに「七夕(たなばた」は代表的な熟字訓ですので、中学入試する小学生なら誰でも知ってる読みです。
今回の話は「いまの子たちってとんでもないこと知らないよね」の話のひとつ。七夕の物語を知らなかった男子高校生の話。
牽牛(けんぎゅう)・織女(しょくじょ)、織姫(おりひめ)と彦星(ひこぼし)、琴座のヴェガと鷲座のアルタイル、どのことばも彼の語彙にはヒットしなかった。
えっ「じゃあ、七夕知らないの?」
「たなばた・・知ってます。・・あの竹で飾り作って願いを書いた短冊吊るすやつでしょ?」
そこまでは知ってる。
では「その七夕の日って何が起こる日だか知ってる?」
・・いろいろ答えてみるがすべて外れ。
織姫と彦星の恋物語を彼は知らなかった!
男子だから恋バナには興味がないのか?
 いや、そういう話でもないような・・。

本日のエントリーは眉に唾つけて読んでください(笑)。

私の自分語りですので多分にナルシシズム入ってまして脚色もされてます。

 

私のこと書きます。もはや大昔となった高校時代の話です。

私自身は、「意識が低く」「能力高め」(すんません我ながらそうだったとしか言いようがありません。宿題などサボりまくりでそれなりの点数取れてたので・・)の高校生でした。

通ってた中高一貫女子校はまったく受験校ではなく、能力高めの女子を集めて良妻賢母教育するタイプの学校でしたので(流石に今の時代はそうでもなくなっているようですが)、ホントにまったく受験対策の授業はなく、受験校別のコース分けみたいのもなく、私なんてどうみても頭は文系なのに面白そうというだけで無駄に数IIIとってたりしてました。

当時の母校は、大方の生徒が上の女子大学に進み意識ある少数の生徒が外の大学を受けるという進学状況でした。

私は中高6年間女ばっかりというのにいい加減うんざりしていて、またお嬢さん学校の中に私のような庶民階級の出が混じってるという居心地の悪さもあって、なんだか上にそのまま進むのは嫌だなと思いつつ、だけど頑張って勉強して外の大学受けるという気にもならないし・・という感じでした。(ちなみに親はノータッチでした。)

高校後半の私が何に夢中だったかというと、当時の流行に従っていわゆるアングラ(ああ懐かしや!)音楽だったり芝居だったり舞踏だったりが大好きで、ウィークデーは小綺麗な格好してお嬢さん学校に通うものの、土日ともなると、汚く長く伸ばした髪を振り乱しわざわざ小汚い格好して大阪ミナミや京都のサブカルチャースポットみたいなところに一人で出入りしていました。その高校生当時から身についた私の習性として、いちばん好きなもの、音楽であれ演劇であれ舞踏であれ、には「ふらっと」「ひとりで」出かけて行って「最前列で」観るというのがしみついております。

当時私のよく通ってたのは京都で、実はその時代にはもうサブカルチャーの中心地としては少し(というかだいぶ)ピークを過ぎた頃ではあったのですが、当時の私にとってはもうワクワクするような街でした。

そんなある日、なんかのイベントだったかの帰りにずっと歩いて帰ってきて偶然(だったのか定かではないけど)京都大学の時計台の見える正門前にふと出たのです。そのときの光景と、そのときの私の気持ち、ありありと覚えてます。そのとき私は、「あ、京大行こ」と決めたのです。

大学そのものに憧れたのではなく、ましてや偏差値とかで決めたのではなく、自分の好きなものにいっぱい出逢える街に住むことができるのなら、この大学に行くなら文句ないやろ、と知恵が働いたわけです。

しかし、それからの受験勉強ですからもちろん間に合うはずもなく、結局一浪して京大に入りました。

で、これをいま言うとびっくりされるのですが、よその大学は一校も受験しておりません。(願書は出しましたが結局入学試験受けていません。)初志貫徹といえば聞こえはいいのですが、要は、京大に入って合法的に(?)京都で遊ぶということしか頭になかったわけですね・・。

お耳汚しでした。こういう「意識」の見つけかたもあるんじゃないかということで。でも、ま、少なくとも偏差値で選ぶよりはマシだと思いますよ。

 

 

 

この次どう書こうか考えあぐねておりました。
一つだけ確実に言えることは、子どもって親の価値観や無意識の願望・恐れを敏感に感じ取ってそれを受け継ぐってことと、それでも子どもは決して親が望んだ通りに進むことはない、それぞれの子どもの道を見つけ、それが必ずしも親が望んだものであるとは限らないってことです。
話が大きくなり過ぎましたね。例えば「勉強しなさい、勉強しないとロクな大人になれないよ」と口うるさく脅して、なんで勉強嫌いの子どもができるか? そういう大人本人が「勉強とは嫌だけどしなければいけないもので、自分は(あるいは自分の配偶者は)勉強しなかったからロクな大人になれなかったのだ」と思い込んでいて、その価値観が子どもに敏感に伝わるからなんですね。「本読みなさい」と口うるさく言っても、その大人に(そのご家庭に)本読む習慣がなくテレビばっかり見てたんでは、子どもだけが本好きになるわけがありません。
ちなみに、わたしの親の口癖は「本読むな」「勉強するな」でしたが、それを聞いて育ったわたしは「本好き」「勉強嫌い」になりました(笑)。なんでか? いま思えば、母の「本なんか読むな。女が本読んだってロクなものにはならない」のなかには、自分自身が「もっと本読みたかった」の願望が含まれていて、それをわたしは感じ取っていたのではないか、とか。「勉強するな」のほうには「頑張ってたくさん勉強していい成績取るのは当然だけど、努力するというのはカッコ悪い、ホントに頭が良ければ努力しなくったって良い成績が取れる」というプレッシャーがあり、みごとにそれに乗せられて、あんまり努力しない子に育ちました。だから、ある程度努力の必要な勉強(たとえば外国語学習とか)には、今でも苦しんでいます。
「勉強」って本来、嫌々しなければならない義務仕事でもなんでもなく、たとえば算数の問題を解くことはパズルみたいで面白いし、漢字をどんどん覚えるのも面白いし、新しい言葉を覚えるのも面白いし、知識が増えるのは自分の世界が広がる素敵なことだし、いろんなものを見聞きしいろんな体験をしていろんな新しい感情を学ぶことも素晴らしいことじゃないかと思います。その面白さ、その素敵さを、幼い時から教えてあげて欲しいと思います。
ただ、そこに点数をつけて序列化し、なかなか上に上がれない子どもを「できない子」と人格から決めつけてしまうのが、諸悪の根源なんですよね、きっと。で、大学受験までの遠い道のりを受験産業が調べあげて、序列の上位に来るための勉強を小中高それぞれの段階に応じてパッケージ化して提供しているという、現在の事態が「勉強」を歪めてしまっているのだと思います。

そもそも「大学受験」がゴールになるのもおかしいよね。いい大学に入れればそれで全て良しなのか。そうではないと思うのですが・・。