真・仮面ライダー/序章 愛と魂の文学 | Slipperの部屋

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『仮面ライダー』等の特撮ヒーローを愛好しております。気ままに書きますので不定期更新で失礼。

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 どうも、当ブログ管理人のスリッパです。

 前々から「この記事を載せたい」とは思っていたのですが、前のブログと共にデータが消失したそれを想うと、なかなか踏み出せずにいて。

 気付けば30周年のお祝いのタイミングを逃し、名前が良く似た作品は来年に公開を待たれるというタイミングで。

 しかし、Twitter等でお話をさせていただいているうちに、やはり書くことができるうちにやらねばならないのではと思った次第。

 

 正直、長文駄文の羅列になりますので、「なーに言ってんだコイツ?」と思われることでしょうが。

 それでも私が好きなこの作品を語りたい。

 

 

 これは30年前に現れた、真の〈仮面ライダー〉の物語。

 

※当記事はネタバレ等を含みますので、ご視聴後の閲覧を推奨いたします。また、一部不快感を覚える文言があるかと思いますが、予めご了承ください。

 

 

『真・仮面ライダー/序章』

原作:石ノ森章太郎

脚本:宮下隼一、小野寺丈

監督:辻理

 

 

~ストーリー~

 

 謎の組織「財団」が進めるプロジェクト。

 それは人間を改造兵士「サイボーグ・ソルジャー」へと変え、生体兵器として商品化する研究であった。

 その研究所「ISS」の被験者となっていた風祭真は、科学を狂信する研究者によってバッタの遺伝子を融合され、改造兵士へと変貌。

 恋人と父の命を奪い、自身を異形の姿に変えた財団を壊滅させるべく、真の戦いが始まった!

 

(東映公式HPより抜粋↓)

 

 

~スリッパの備忘録~

 

1:なぜ序章だけなのか

 

 まず最初に言わねばならないのは、上のストーリー紹介に対して。

 

 私はその《真の戦い》を見せて欲しかったんだよ!?

 

 そう、上に記した作品紹介文章は、この『序章』の先を感じさせる内容であるものの、残念ながら『真・仮面ライダー』に公式的な続編の映像作品はありません。

 

 ただし、誤解がないよう先に言っておきたいのは、それがこの作品が面白みもないものだから、ではないんです。

 むしろ逆です。Vシネマというビデオの単発作品として出したにも拘わらず、翌年に「じゃあ、映画を作っちゃいましょうよ!」と話が弾むほどに売れたというのです。

 

 どういうことか、経緯を確認していきましょう。

 

 1971年に初めて世間に現れた異形のヒーロー『仮面ライダー』。その生誕20周年を記念した作品制作として1992年にリリースされたのが、この『真・仮面ライダー/序章』です。

 しかし、単なる記念作品に非ず。もしそうしたかったのなら、懐かしの1号ライダーが登場して~、という方がしっくりくるところでしょう。

 

 けれど製作スタッフ、原作者の石ノ森章太郎先生を迎えた「原点回帰」を意識しつつ、これまでテレビシリーズでは決してできなかったリアルなものへ果敢に挑戦。出来上がったのは、お決まりの「変身!」を一切として口にすることなく、けれど「これが本当にやりたかった『仮面ライダー』なんだ!」と感じるストーリーでした。

 

 しかもタイトルには大きく『序章』の文字。エンディングまで観た人には「この続き、楽しみすぎる!」と思った方も多いのではないでしょうか。

 

 続編がないことを知ったうえで観ていたはずの、高校時代の私でさえ「これは続編をきっちりやるつもりの終わり方だよな……あれ?」となったくらいで。

 実際、当時を振り返るムック本などでも「怪物としての本能と戦いながら、仮面で醜い姿を隠してヒーローになる」というような、石ノ森章太郎先生が1971年当時に描いた萬画作品に近い続編の話があったとかなかったとか。

 

 

 

 そしてもう一つ、売れた理由を考えましょう。20周年、というのがキーワードではないでしょうか。

 

 1971年頃に、就学児前後(十代前半までくらいでしょうか?)の年齢の人間が、20年という時間をかけてなるもの。

 それは「大人」と呼ばれるものでしょう。

 そのうちのかなりの人数が、独り立ちしていたり、アルバイトである程度の収益を得ていたり、学生として自由にできる時間があったりと考えられます。

 そういう人たちが「ああ、昔好きだったなぁ」と思える作品名を冠していながら、しかし見た目からのインパクトが絶大なこの作品は、やはり興味を惹かれるには充分だったのではないでしょうか。

 

 結果としてビデオは売れた。

 では売れたらどうなるか。もっと大きな舞台で、と欲が出るのが人間の性というもので。

「映画館で全国公開!!」

 おそらく意気揚々とそんな言葉をスタッフたちが語る中、相当に困った難題にも直面したはず。

 

「それは、初見の客でも楽しめるのか?」

 

 これが続編の制作が止まった最大の理由と言って良いと私は思っています。

 

 ひとつ前提をお伝えいたしますと、こと『仮面ライダー』シリーズの劇場公開作品のスタンダードは、「テレビで観ていたから、映画も見に来たよ!」という場合がほとんど。

 単発のビデオ作品でしか展開されていない『真』を、全国47都道府県のうち、どれほどの人が知ったうえで映画館まで来てくれるのか。

 それも、前作をきちんと予習したうえで。

 

 ちなみに昨今でもVシネマの系譜を継ぐ『Vシネクスト』と銘打たれた作品たちが存在します。

 が、その多くが「テレビシリーズがあって、その後日談をやる」というもの。

 最近では『仮面ライダーオーズ/OOO』という平成ライダー屈指の人気作が満を持して、「10周年記念です!」と、このVシネクストを発表。結果としてはその結末に賛否両論が巻き起こり、悲しいかな、ファンの中には脚本家のツイートに罵詈雑言を吐き捨てたという話も。

 とりわけ「上映時間が短い!」というのが、作品で伝えたかったことを客側が読み取り切れないまま終了してしまう……満足度を得られないまま終わってしまうという要因なのかもしれません。

 

(一応、断っておきますが、私はこのVシネクスト作品を肯定する側です。誹謗中傷ダメ絶対! でも、そうしたくなるほど悲しかった気持ちもわかるよ……ぅぅ……)

 

 

 また、1990年代に話を戻しましょう。

 この『真』リリースの翌年(1993年)に劇場公開された『仮面ライダーZO』という作品。

 こちらも高い評価を得てはいますが、スーパー戦隊とメタルヒーローとの合同映画としてわずか50分弱しか上映時間はなかったのも事実として記憶しておいてほしい事柄です。

(もちろん、その短さであれだけ高いクオリティのものを出せたという点が非常に評価されてもいますし、そもそも私は『ネオライダー』と呼ばれる作品群の中で一番に好きだと自負もあります)

 

(↑当ブログで書いた『ZO』のレビュー記事です。参考までに↑)

 

 

 でもこの『ZO』とて《単発作品》であったからこそ。

 

 前の物語のあらすじを入れながら、主人公の苦悩や葛藤を描き出し、そのうえで「何も知らずに来たちびっ子」を満足させるだけのアクションシーンが入らねばならない。

 仮に50分の尺があったとしても、それらを全て網羅したうえで「次回作に乞うご期待!」と言って終わるのであれば、それなりに満足感のあるエンディングも必要でしょう。なにしろ相手は「何も知らずにふらりと立ち寄っただけ」かもしれない相手で、狙いとしては「次の映画も観たいなぁ!」と言わせなければいけない。

 

 嫌な言い方ですが、ビデオが「コアなファン」である大人の間でどれほど売れても、「何も知らない親御さん」とは関係が薄い。

 

 しかも当時、テレビシリーズの『仮面ライダー』は1989年に終了した『RX』以降は、ビデオ作品の『真』のみ。つまり劇場に足を運びたいと口にするメインターゲットのお子さんは「かめんらいだーってなに?」から始まる可能性さえある。

 

 1989年から1993年までの四年間の空白は、割と馬鹿にできません。

 今でこそ平成ライダーから令和ライダーへと綺麗にバトンタッチが行われているから「ああ、毎年よくやってんね」と話題に出るシリーズではありますが、当時は一度でも止まれば「次はいつになるか」を考えることなどなかったとも聞きます。

(実際、その平成ライダーの黎明期では、「来年はないかもね」が普通だったとも。むしろ白倉プロデューサーは「毎年に当たり前に仮面ライダーがテレビに映るようにしよう」と奮起してその激動の時代を戦ったとも……)

 

 

(こういうインタビュー本って長いから嫌煙されるのはわかるんだけれど、一度きちんと読んでみると意外と面白かったりしますぜ……いや、私自身も「時間があるし、いい機会だから」と手に取ってびっくりしたので……)

 

 脱線、もとい宣伝失礼。

 

 

 映画館で上映されるヒーロー作品として、なるべく多くの顧客のニーズに応えたい。

 それに対して、この『真』という作品の《二巻目》をいきなり劇場公開するリスク。

 私がプロデューサーなら言います。「だったら単発映画にして、リスク管理しましょうか」と。

 売れなかった場合、その負債を負うのは誰か。会社です。

 バッシングされた場合、その責任を問われるのは誰か。会社とプロデューサーです。

 

 また、他に理由があったとすれば、おそらくグロテスク描写をどこまでやるか、という議論もあったのではないかと邪推いたします。

 1990年代ですから、ある程度は許されるとは思います。恋人を亡くしたことでエロティックなシーンは挿入する必要がないとしても、どうしてもクリーチャーとしての主人公の姿は恐ろしく、敵もそれと源流を同じくする怪人である以上は怖くない見た目にはなりますまい。

(それこそ、現代で『真』を語る際に「脊髄ぶっこ抜きだろ?」と口にされる方も多いでしょう。それだけ衝撃的なインパクトの強いシーンでしたから……)

 

 それを「何も知らずに来た子たちに見せる」というのも、また高いリスク。

 前作を知っていて来るのならいざ知らず、何が何だか理解できないまま鬼畜なバトル描写が続くというのは、大人であっても苦しいと感じて嫌な気持ちになる人がいるかもしれない。

 つまるところ、1993年というタイミングは、それだけの博打をするにはまだ土壌が出来ていなかった……。

 

 

 改めて今回の疑問に戻りましょう。

 この『真・仮面ライダー』という作品は。

 

――なぜ序章だけなのか。

 

 その答えは……

 

「予想以上の反響によって、粛々とビデオ作品としての展開を続けられなくなり、続編を制作するタイミングを失ったまま時間が過ぎてしまった」

 

……ということになりましょう。

 

 ああ、惜しい……。

 怪物となった自分の姿を嫌い、ヒーローとしての仮面に哀しみを隠して戦う。

 石ノ森章太郎先生が萬画で描いた『仮面ライダー』に、風祭真というヒーローは、本当はなれたはずだったのに……。

 

(古いマンガなんて、と思っていたら意外にも発見することは少なくない。スリッパはそう思い、上の商品リンクを貼っておきます)

 

 だからこそ。

 庵野秀明監督が公開準備を進めているという『シン・仮面ライダー』の制作発表にて、一人の記者がこう訊いたのではないかしら。

 

「戦う敵は……?」

 

 財団、と答えて欲しかったのかもしれない。

 そんなことを勝手に思い、一人で涙を流す私=スリッパなのでした。

(いや、記者さんが何を思ってそう質問したかは、まったく私の妄想ですから、あしからず)

 

 

2:の文学

 

 先程はメタなことを延々と語ってしまい、大変に失礼いたしました。

 

 でもね、この序章だけでも「すげぇ……」と思わず口から言葉が漏れ出すところがたくさんあります。

 

 

 たとえば、鬼才=雨宮慶太氏の作り上げる《バッタ怪人》としてのデザインへ至る……まさにキャッチコピーの一つだったという『変身への挑戦』。

 

 雨宮氏と言えば、深夜の特撮ヒーロー番組として高い人気を誇る『牙狼-GARO-』シリーズの生みの親でもあります。

 

 雨宮氏の持ち味は何と言っても「独創的なクリーチャーデザイン」。

 それを遺憾なく発揮した結果が、この『真』の変身過程だったり、後年の『ZO』でも怪人たちのデザインであったり。

(ぶっちゃけ『ZO』の怪人たちは相当に怖くて小学校時代の私はガタガタ震えました)

 しかし、その妥協のない作り込みは、間違いなく世界観のリアリティを確固たるものにしていたのは間違いありません。

 あの《生》という漢字がぴったりハマる感じは、まさしく鬼才の手腕。

 当時の石ノ森章太郎先生も、その《生》に拘りがあったと、ムック本での辻理監督へのインタビューで記されていました。

 考えてみれば『BLACK』なんかも怪人たちの描写に生々しい部分がたくさんあります。

 

 

 

 また、物語の土台である世界観も見どころの宝庫。

 兵器産業を行う死の商人=財団や、それに対抗して非情な任務でも行うCIAの諜報員といったハードな暗躍とガンアクション。

 これだけのものが展開されるのは、流石にテレビシリーズやその延長線であったそれまでの作品にはできなかったことでしょう。

 単純に怪人たちが起こす事件をどうこうするのではなく、怪人という「商品」を売る側と取り締まる側の組織対決も、やっぱり怖いところ。

 実際にテロや紛争が起こる場合でも、武器や資金というのは必要になるもので。

 それが甚大な被害をもたらす前に止めるのも、自国の利益を優先しつつ行動する大国の諜報機関らしさが出ていて。

 その目的の為になら「まだ理性がある」と思えた相手でも、容赦なく攻撃対象にできる冷徹さ。まさにハード……!

 

 個人的には、初見時に注目度が高かったポイントは科学者の思想でしょうか。

 行き過ぎた科学崇拝から「神への挑戦」を謳って改造兵士の開発に取り組む研究者の狂気。

 その発する論は、昆虫が持つ共感覚……《テレパシー》に近しいものでしょうか。

 言語や通信機器をいくら発達させようとも、未だに完全な相互理解ができない不完全な生き物が人間です。

 それに対して、バッタは互いに感覚を共有しており、「味方が受けた強い衝撃」から群れの全個体、その一体一体が《群れを守る兵士》になるのだと話しており。

 どこまでが本当でどこからがフィクションか、という話はありましょうが。それでも、そういった「生命体の神秘」という分野において、かなり興味深い話ではないかな、とも。

 実際、人間がいなくなった場合にどの生物が地球の頂点になるか、なんて話になれば……昆虫というのは馬鹿にできない力を持っているところで。

 圧倒的な繁殖力や、それが群れとなった場合の力は想像を絶するレベルで。

 おそらくゴキブリあたりが最強じゃないか、なんて話も……?

 

 しかも、その遺伝子改造を「医療技術の研究」として行ってしまうのもリアルに怖いところ。

 難病を患った場合、その完治を目指しての旅路は大変なものだと聞きます。

 けれど、その根本の問題である「人間自身を病気に罹らない体にできないだろうか」という論は、話としては理解できるのではないでしょうか?

 どんなにお金がある人でも、病には勝てません。しかし、病に負けない肉体を持てたなら話は違う。

 倫理観はともかくとしても、細胞レベルで強くなった肉体があれば、病気に苦しめられて亡くなる人はぐっと減るのではないか。

 それを研究するという、このもっともらしい名目があるだけで、かなり怖い。

 

 それこそ主人公の風祭真は、研究の被験者として生活しているうちに、知らないまま改造を施されてしまったと。

 つまり、私たちが「お医者さんを信じてます」と、その設備に入った途端に、どちらも知らない間に怪物にされているかもしれないってことでしょう。

 気付いた時には遅すぎる……もう二度と元の肉体には戻らず、下手をすれば「商品」として売り飛ばされ、したくもない殺戮と戦闘を強要されるかもしれないなんて……。

 

 現在、ウクライナという国が、隣国ロシアからの攻撃を受け続けている現状を聞いていると、笑い事では済まないと実感させられるところで。

 戦車や戦闘機によって街が爆破されるというだけでも痛ましいのに、民間人まで巻き添えにしているという話も聞こえてくる。

 現地で実際に見聞きしているわけではないから、何が本当でどれが嘘なのか、そのすべてはわかりません。

 ただ……戦争はいつでも起こる。起こそうとする人間が、その意志が作動してしまったら、こんな、いとも簡単に起こってしまうもの。

 

 もし改造兵士というものにされて、そんな戦地に送り込まれたなら。

 そこで名前も知らない相手の兵士を殺し、視界に入ったというだけで戦争など反対していた民間人まで殺害する側にされたなら……。

 想像するだけで反吐が出るこんな争いを、この「財団」というのはビジネスとしてやろうとしていた。

 

 かつて『仮面ライダーV3』で主役の風見志郎を演じ、その後も様々なヒーロー番組でご活躍された宮内洋さんという役者さんはこう仰いました。

 

「ヒーロー番組は教育番組である、という気持ちで携わっています」

 

 では観る人に何を教え、どんな思いを育みたいのか。

 私の勝手な深読みではありますが、それはきっと「悲惨な戦争・無情な悪意の連鎖、それらを違うと思える心」を教育する。

 そういう意味合いもあったのではないかなと。

 

(スタントマンなんて要らないぜ、と不敵に笑うヒーロー=宮内洋さんの伝説の始まりなども、よければ是非)

 

 また宣伝で失礼。

 

 

 何より最大の魅力は、そんな恐ろしい人間たちの描き出す運命に翻弄されながら、それでも愛した者への想いを胸に戦う英雄の姿。

 

 原作者である石ノ森章太郎先生が、この『仮面ライダー』という作品群の主人公たちに持たせた特色は……孤独。

 そして、それを感じるからこそ育まれる気高い《魂》こそが、現代にまで生き残る仮面ライダーの本質的な魅力なのではないかなと。

 

 自分がどうなるのか全くわからない不安。それは時に、どんなに優秀な人間の足でも、簡単に止めてしまえるものです。

 それを押しやって彼が立ち上がったのは、偏に《愛》だけでなく、この《魂》が風祭真の中にも息づいていたからではないかなと。

 

 改造された自分の身がどうなっているのかわからず、自分と同じ姿になった鬼塚の死もあって恐怖と孤独に苛まれた風祭真。

 それでも、ずっと傍に寄り添い、愛してくれた大切な人との時間が彼を癒してくれて。

 同時に、その人との間に授かった新しい命が助けを求めるテレパシーに感応できた。

 ロジックで言えば、改造を施した鬼塚の言うところの「バッタたちの特性」に当たるのでしょう。

 でも、その声を無視することだって、あの時の風祭真にはできたはず。

 

 バイクにも乗らずに駆け出し、何台もの車上を勇猛に跳び越えていったのは、彼の人間性……つまりは《魂》が叫んでいたからだったのではないかと。

 

 ゆえに、そんな彼を愛した女性が、凶弾に倒れる様は本当に悲しく。

 けれど猛々しい咆哮と共に敵を討つ姿は、やはり文学的だとも思えて。

 そんな彼が激動の戦いを生き残って、神秘的に姿を現した自分たちの子(ライダーベビー)に微笑むラストは、やはりどこか希望に満ちている……。

 

 この『真・仮面ライダー/序章』という未完の名作。

 単なるエロ・グロ描写満載のオリジナルビデオ作品、というわけではなく。

 むしろ、どこまでも誠実にリアリティに拘り、そこでこそ描ける人間の理想……その愛と魂の文学を紡ごうとした、永遠に語られるべき名作なのではないかなと。

(エンディング主題歌の『FOREVER』とか、あのしっとりした感じも最高よ……ツラいのに優しい気持ちが胸に広がっていくもの……泣くわ……)

 

 

 もちろん、子どもを設けたとわかる描写としての裸体シーンはありますし、衝撃的なまでの《生》っぽさ全開のグロテスク描写と捉えられる部分もあります。

 それはもう否定しようもない。Vシネマの第一作である『女バトルコップ』を観れば、こうなるべくしてなったとよくわかる。

 

(東映特撮ファンクラブ、略してTTFCで私も初めて観た時は衝撃でした……)

 

 

 ただ、それでも。

 

 この『真・仮面ライダー』と銘打たれた意味を踏まえたうえで、今一度しっかりと観てみると世界が少し違って見えるかもしれない。そういう作品でもあると私は思います。

 

 正直、こんな散乱した駄文で申し訳ないなと思いつつ、ここで筆を置きたいと思います。

 いやほんと、ごめんなさいね……感情爆発して読みづらかったでしょう……💦

 

 けれどね、『真・仮面ライダー』についての悲しい意見を聞けば、やはり胸が痛むというもので。

 そんな私の迸る感情をただぶつけただけの、こんな記事ではありますが……。

 

 こんなところまで読んでいただき、本当にありがとうございました。