「許します」「受け入れます」シリーズの最新呪文「委ねる」です。
そうか————ここで気づきます。大嶋流の最近のこのシリーズはただ手を放すのではなく、「無意識にあずける・ゆだねる」への道だったのか。バンジージャンプではなく、溺れそうになってもがくのをやめると、勝手に水の浮力が……
学校や社会で、人のやっていることの空しさやアラが見えてしまったりして(万能感のジャッジとは違う)なじめないときに
☆
まずは「仕事が嫌~!」とか「学校が嫌~!」となっていたら、自分には他の人がわからないものがわかっていて、見えないものが見えてしまう能力があることを認めちゃいます。
そして「この能力を無意識に委ねる」と唱えてしまう。
お!これはいいかも!
学校や職場が嫌~!思っていたのと違う~!となった時に「この能力を無意識に委ねる」と唱えた時に「あー!アハアハ~!」となる。
無意識さんがこの私の能力を使って、面白いことをしてくれる予感がする。
自分では何もしなくていい喜びよ!
「この能力を無意識に委ねる」と唱えていくと、身軽になっていきます。(「緊張しちゃう人たち」3.12)
ここで「無意識さん」への無条件の信頼が出てきます。これは「宇宙」でも「ソース」でも、あるいは神でもよいのですが、とにかく「信頼・一体感」があるからこそ「ゆだね、あずけられる」。「無意識さんがこの私の能力を使って、面白いことをしてくれる」(大嶋先生やはり筋金入りのクリスチャン……)
お師匠さんのスクリプトに救われ、「心よ」と対話を重ね、無意識さんとどんどん同化していった道のりが見てとれます。
☆わたしがひとつ気になるのは、「この能力を無意識に委ねる」は、何かオーダーしているのか、意図を出しているのかどうか、という点なのですが、
①宇宙はわたしのすべて知っているので、言わず語らずとも良きにはからってくれる、という「ツーカーの感じ」(以心伝心の執事)
②「何もしなくていい喜び」というのは、「良き状態・楽な凪の状態」というゴールを体感したことがあるので、それに向かってひとりでに流れてゆくよね、という「自然感・当然感」(その流れにそって舟が進む感じ)
この両方かどちらかだと思います。
いずれにせよ
「きっぱり決めてオーダーする」「書きつらねて要求する」という、引き寄せ第一段階を過ぎて、達人になった状態「おまかせ状態」(第二段階)なんだろうと推測します。
☆ここのところの自分の課題。
いまココ、で何を考えているのか、どんな気分でいるのか、どんなエネルギーなのか? と感じてみます。
「いい気分になりたい」と出てくる。
(コレとコレをやらねばならないが、気分的におっくう、とか、感動のない無気力状態)
ここで「いい気分になりたい」とエイブラハム流にオーダーしてみます。これは自分の舟の舵をそっちへ向けるというのか、アレクサ、○○しておくれ、と言うのか、すると————「いい気分」が送ってよこされるはず。
「気分も能力もオーダー」のはず。
自分で何かやっていい気分にまずなるのが先と、と前は思っていて、腰を上げて、それをしないのは怠惰だと思っていましたが、どうもそれすらがんばる「万能感」の一端だったようです。
自力救済ではなくて、「おっくうさを受け入れる」
するとその段階で、じわじわ「いい気分」(これでいいかも)がやってきま…した。
☆「ここにいたって、わしにはわかるのだ。本当の力といえるもので、持つに値するものは、たったひとつしかないことが。それは、何かを獲得する力ではなくて、受け入れる力だ。(『ゲド戦記』③「さいはての島へ」)
大魔法使いになったゲドが中年を過ぎてこう悟るくだりがあります。生や死やこの世のことわりについて。
この言葉は、昔からあまり気持ちよくなかったのです。何か敗北宣言のような、疲れてしまったような、老荘思想をアメリカ人のル・グウィンがちょっとバイアスかけて解釈してるような。
でも、この言葉を、新たなエネルギー心理学で眺めてみると、
「受け入れる」とは負けて「屈服」するのではなく
それも自分のものと認める、包みこむことで、自分がかぎりなく大きくなる
という感じではないでしょうか。
自分がより大きなものになる(以前は自分とは別で、切れていると思っていた大いなるものに接続し一体となる)
☆大嶋流「無意識さん」は自分の無意識です。
神やソースよりもっと個人的に接続している感があります……
それは背中をそっと押してくれる暖かい手(ガイダンス・チャクラ)