國分先生の『目的への抵抗』を読みました。昨年秋、國分先生の『中動態の世界』を読んでみたらすごく面白かったのでこちらも読んでみたのですが、やはり論が明快でたいへん読みやすく、内容も面白かったです。高校生と大学生を対象にした講演が元ネタですので、そのうちどっかの入試問題にも採用されるんじゃないでしょうか。

 

この本にはいくつかのトピックがありました。

必要贅沢消費の違いについての考察が個人的にはいちばん面白かったです。他にも面白い考察があってよかったのですが。

 

ですが一点だけ不満があって、これだけはどうしても言いたい。

 

この本のテーマは「目的意識の危険性」(でいいと思います)。

その一例としてコロナ禍で移動の自由が大幅に制限されたことについての哲学的考察が展開されていました。僕はこの考察に不満だったのです。

高校生と大学生を対象とした講演なら絶対に言わなきゃいけなかったことを、何でスルーしちゃうんだよ。コロナ禍で真っ先に、そしてもっとも苛烈に移動の自由が制限されたのが子どもたちであったこと、ここに言及しないってのはどうなのよ?って思ったわけです。

 

あのとき真っ先に子どもたちに制限が掛けられ(2020年3月2日から全国一斉休校)、そのあとで行政は市民(つまり大人です)にむかって制限の必要性を何度も丁寧に訴えかけました。第1回目の緊急事態宣言の対象が全国となったのは2020年4月16日です。このタイムラグは看過できません。僕ら大人はあのとき子どもたちに対して抑圧者であり搾取者でした。でもそのことをほとんど誰も指摘しなかった。子どもたちへの極めて厳しい制限を所与の前提として僕ら大人はものを考えていました。

 

國分先生は、大人に対しては倫理的です。同書は行政による移動制限を批判しているというよりもむしろ、生存以外の価値を認めなかった社会の価値観を批判しています。だから同書の読者(その大半が大人でしょう)は、自分たちがあのとき何に加担していたのかリフレクトさせられます。

 

でもこの本の元ネタは高校生と大学生に向かっての講演です。國分先生は子どもたちに向かって、「あなたは移動の自由の制限を受けて苦しんだ側でありつつ、同時に、他者の移動を制限した側の人間でもあるんだよ」って言っていたことになります。

 

なんだよそれ。

ってなりません?

 

もちろん被害者意識を強く植えつけることは時として話をややこしくします。「イノセントな被害者」と「悪意に満ちた加害者」という対立構造を描き出すことは哲学の使命ではないでしょうし、そもそも知的ふるまいでさえない。冷静な議論や考察をするために、子どもたちに自分自身の中にもあった加害者性を意識させるという戦略だったのかもしれません。

 

でもそれにしても、なぁ。

ねぇ?

すごくいい本だと思うだけに、そこはどうしても引っかかってしまう。

へんなこだわりなのかもしれませんけど。