昨日の続き。
この話は、
かなりコアな話なので、ぜひ読んで欲しい。
昨日の話を踏まえていえることは、
ようするに、
「研究」は研究、
「行い」は行い、
で、別々にやらなければいけない、
ということだ。
「研究」は「行い」自体には直接影響しないし、
「行い」はあくまで行いでしかない、
また、
行っているからといって、うまくいくかどうかとは関係ない、
ということ。
つまり、
行いは、行うことではじめて行うことができ、
また行うことでしか、行っていくことができない、
ということ。
たとえば、英会話を例とすると、
英会話は、
「英語で会話する」という行いをしなければ、
「英語で会話する」ということは行われず、
また
「英語で会話すること」でしか、
「英語で会話すること」は維持されないし、できるようにもならない。
ということ。
多くの人は、
英会話をするために「勉強」をするわけだが、
それはそれで、別に「英会話」という「行い」はしておかなければならない。
下手でも、
思うことがどうにも話せなくても、
同じことばっかりいっていても、
「英会話」という行いをとりあえずしないと、
「英会話」は行われないし、
上達することはありえない、
ということだ。
「じゃあ、勉強はいらないのか?」
という話になってしまうけど、
これがすぐに「行い」と「研究・勉強」を直接結びつける、
という間違いになってしまう。
「研究や勉強」は、
私たちが成長したり、
よりうまくやっていくためには、
ゼッタイ必要だ。
私たちは、
「研究や勉強をすること」
つまり、
脳でなにかを認識することではじめて、
「方向性」を見いだす。
「行い」は、
そこではじめてある方向へ走り出す、
といえる。
ある意味では、
「行い」は車のエンジンを回すこと、
「研究や勉強」はハンドルを切っていくこと、
に似ているかもしれない。
そう、つまり、
それぞれはあくまで「独立」している、ってこと。
ハンドルでエンジンを回すことはできないし、
エンジンを回しているからといって、うまいところに走っていくわけでもない。
エンジンを止めてしまえば、車は動かないし、
エンジンは動かしていないと、エンジンは動かなくなっていく。
エンジンはエンジンで動かしていないととにかく回していけない、
お金持ちになりたいなら、
とにかくお金を持つことを何でもいいから行っていないといけない。
ハンドルは、
その車をうまく誘導してくれる。
研究を進めれば進めるほど、
「新たな道」を発見し、
そこを向かってみることができるのだ。
最後に話は戻って、
「実践的な研究」というのがありえないのは、
「行い」は「行い」でしかないものに、
「研究」が邪魔をするからだ。
「行い」は「行い」、
「研究」は「研究」、
として、
別々に扱い、
そして、別々にそれをする時間を設けなければいけなかった。
こう言おう、
「何かをしたいのなら、とにかくまずその『何か』を、デタラメでもいいからしていなさい。」
「何者かになりたいなら、まずその『何者か』にとりあえずなってしまいなさい。」と。
そして、
「それとは別に勉強の時間を設けることで、うまく導いていきなさい。」と。
意味は分からなくても、
大したことは何もできなくても、
さっぱりうまくできなくても、
「行う」ことは「行う」ことでしか、行うようにはなれないのですから。
この話は、
かなりコアな話なので、ぜひ読んで欲しい。
昨日の話を踏まえていえることは、
ようするに、
「研究」は研究、
「行い」は行い、
で、別々にやらなければいけない、
ということだ。
「研究」は「行い」自体には直接影響しないし、
「行い」はあくまで行いでしかない、
また、
行っているからといって、うまくいくかどうかとは関係ない、
ということ。
つまり、
行いは、行うことではじめて行うことができ、
また行うことでしか、行っていくことができない、
ということ。
たとえば、英会話を例とすると、
英会話は、
「英語で会話する」という行いをしなければ、
「英語で会話する」ということは行われず、
また
「英語で会話すること」でしか、
「英語で会話すること」は維持されないし、できるようにもならない。
ということ。
多くの人は、
英会話をするために「勉強」をするわけだが、
それはそれで、別に「英会話」という「行い」はしておかなければならない。
下手でも、
思うことがどうにも話せなくても、
同じことばっかりいっていても、
「英会話」という行いをとりあえずしないと、
「英会話」は行われないし、
上達することはありえない、
ということだ。
「じゃあ、勉強はいらないのか?」
という話になってしまうけど、
これがすぐに「行い」と「研究・勉強」を直接結びつける、
という間違いになってしまう。
「研究や勉強」は、
私たちが成長したり、
よりうまくやっていくためには、
ゼッタイ必要だ。
私たちは、
「研究や勉強をすること」
つまり、
脳でなにかを認識することではじめて、
「方向性」を見いだす。
「行い」は、
そこではじめてある方向へ走り出す、
といえる。
ある意味では、
「行い」は車のエンジンを回すこと、
「研究や勉強」はハンドルを切っていくこと、
に似ているかもしれない。
そう、つまり、
それぞれはあくまで「独立」している、ってこと。
ハンドルでエンジンを回すことはできないし、
エンジンを回しているからといって、うまいところに走っていくわけでもない。
エンジンを止めてしまえば、車は動かないし、
エンジンは動かしていないと、エンジンは動かなくなっていく。
エンジンはエンジンで動かしていないととにかく回していけない、
お金持ちになりたいなら、
とにかくお金を持つことを何でもいいから行っていないといけない。
ハンドルは、
その車をうまく誘導してくれる。
研究を進めれば進めるほど、
「新たな道」を発見し、
そこを向かってみることができるのだ。
最後に話は戻って、
「実践的な研究」というのがありえないのは、
「行い」は「行い」でしかないものに、
「研究」が邪魔をするからだ。
「行い」は「行い」、
「研究」は「研究」、
として、
別々に扱い、
そして、別々にそれをする時間を設けなければいけなかった。
こう言おう、
「何かをしたいのなら、とにかくまずその『何か』を、デタラメでもいいからしていなさい。」
「何者かになりたいなら、まずその『何者か』にとりあえずなってしまいなさい。」と。
そして、
「それとは別に勉強の時間を設けることで、うまく導いていきなさい。」と。
意味は分からなくても、
大したことは何もできなくても、
さっぱりうまくできなくても、
「行う」ことは「行う」ことでしか、行うようにはなれないのですから。
今日の記事は、あまりよく伝わらないかもしれないと思っている。
というのは、
非常に概念的であり、
またかつ、
概念で理解しようとすると、間違ってしまうからだ。
この話は、
話の内容自体はシンプルなのだけども、
「人間が物事を認識する」という能力の限界、
または、
そもそも私たちが「現実」だと認識することの非現実さ、
にもとづいているため、
頭でははっきりとは理解できない。
かわりに「指針」としては理解できるので、
とりあえず、
「そうだから、そうなのだ」
と頭にいれておいて、
「だから、どうしなければいけない。」
として、利用してもらえればいいと思う。
そもそもこの話のはじまりは、
僕自身が、
「実は実践的な研究など存在できなかった。」
ということが分かったことにあった。
ある意味では、
「研究者」という僕自身のアイデンティティの、
ベースを疑ってみた、
ということとも言える。
つまり、
「なぜいくら研究をしても、うまくいかないのか?」
という、
たくさんいろいろなことを学ぶ人ほど思う疑問を、
解決する糸口となる、
と考えてもらいたい。
本題に入るが、
ようするに、
「研究は行い(おこない)とは本質的に異なるものであって、
研究は研究、行いは行いで、別にしなければいけない。」
ということだ。
これに近いことでよくある誤解は、
「理論は実践には使えない」
とか
「いくら自転車の乗り方を勉強しても、自転車に乗れるようにはならない」
とか、ということだが、
これはちょっと微妙に違う、
ということをあらかじめ頭においておいて欲しい。
僕が発見したのは、
「研究(または勉強)」と「行い」は、
そもそも別の世界、と呼んでいいほど、
別のものだ、
ということだった。
僕が今まで誤解していたのは、
「研究は実践(行い)をうまくするために役に立つ」
または、
「勉強なんて実践には役に立たない」
というようにだった。
そもそも、
「研究」と「行い」は、
別の世界の話。
この2つのことを、
くっつけて話すためには、
もっと繊細さが必要だった、
ということなんだ。
なにを言っているのか分からなくなってきたでしょ?
そう、これは頭では直接は理解できない、
とても難しい話なのです。
明日は、
だから、どうやねん!
という疑問にお答えしますので、
楽しみにしていてください。
というのは、
非常に概念的であり、
またかつ、
概念で理解しようとすると、間違ってしまうからだ。
この話は、
話の内容自体はシンプルなのだけども、
「人間が物事を認識する」という能力の限界、
または、
そもそも私たちが「現実」だと認識することの非現実さ、
にもとづいているため、
頭でははっきりとは理解できない。
かわりに「指針」としては理解できるので、
とりあえず、
「そうだから、そうなのだ」
と頭にいれておいて、
「だから、どうしなければいけない。」
として、利用してもらえればいいと思う。
そもそもこの話のはじまりは、
僕自身が、
「実は実践的な研究など存在できなかった。」
ということが分かったことにあった。
ある意味では、
「研究者」という僕自身のアイデンティティの、
ベースを疑ってみた、
ということとも言える。
つまり、
「なぜいくら研究をしても、うまくいかないのか?」
という、
たくさんいろいろなことを学ぶ人ほど思う疑問を、
解決する糸口となる、
と考えてもらいたい。
本題に入るが、
ようするに、
「研究は行い(おこない)とは本質的に異なるものであって、
研究は研究、行いは行いで、別にしなければいけない。」
ということだ。
これに近いことでよくある誤解は、
「理論は実践には使えない」
とか
「いくら自転車の乗り方を勉強しても、自転車に乗れるようにはならない」
とか、ということだが、
これはちょっと微妙に違う、
ということをあらかじめ頭においておいて欲しい。
僕が発見したのは、
「研究(または勉強)」と「行い」は、
そもそも別の世界、と呼んでいいほど、
別のものだ、
ということだった。
僕が今まで誤解していたのは、
「研究は実践(行い)をうまくするために役に立つ」
または、
「勉強なんて実践には役に立たない」
というようにだった。
そもそも、
「研究」と「行い」は、
別の世界の話。
この2つのことを、
くっつけて話すためには、
もっと繊細さが必要だった、
ということなんだ。
なにを言っているのか分からなくなってきたでしょ?
そう、これは頭では直接は理解できない、
とても難しい話なのです。
明日は、
だから、どうやねん!
という疑問にお答えしますので、
楽しみにしていてください。
