メールでのさまざまなサポートを通して、

やっぱり一つの文章では、

すくなくとも1対1のやり取りでない限りは、うまく教えられないな、と思った。


というのは、人にはそれぞれレベルがある。

レベルというのは、「その人全体で」、という意味ではなく、

あることをするために必要な様々な部分がどれくらい発達しているか、

ということだ。



たとえば、スピリチュアルなことだけやたらとくわしくても、

心理的なことはまったく発達していないことがあったり、

人間関係だけはうまいけど、

経済的なこととの関係はとても未熟だったり。



ある話をするときに、それぞれの人のこのレベルの差を包含して文章を書くことはかなり不可能に近い。

ある話も、順序を間違えれば、おかしなことになる。



きちんと伝えるためには、

なるべく長く、そして回数を多く会う必要がある。

それでもきちんと伝わるわけではないが、

文章よりはマシだな、と思う。



そうやって考えると、昔から日本では「師弟制度」が当たり前となっていて、

師はあまり言葉で弟子になにかを教えなかった。

まったく何も教えない、というのはちょっとやりすぎな感もあるけど(といってもこれはきっと一部の人だけ)

やっぱりこれは、非常に有効な教え方なんだろうな、と思う。



最近は、もっぱら「生き方を教えるセミナー」のことばかり考えている。

ブログもなあ、、、って思っているのだが、

ブログという公のメディアならではの伝え方ってあるんだろうな、とも思って、ちょっと考えを巡らしている。




さあ、明日は「最悪に悪い日」と言われる「皆既日食&新月」の日だ。

何が起こるのかな・・・
昨日の記事を書いた後で、『そういえば・・・』と思ったことがありました。



というのは、身近な人たちや自分のかつての行動パターンをみていて、

人って「もうダメだ!」と思うと、なぜか突然、わざわざ自分をさらに苦しめるような行為、つまり『自暴自棄』になるよね、

ってことだ。



人というのは、不思議な存在で、なにかを『増幅』したがる。

それは『良い』ことでも、『悪い』ことでも、だ。

しかも、どちらかといえば、その人が『悪い』と思っていることの方をより、である。



それは無意識、つまり自然の行動だ。

意識では「いやだ。」「やめたい。」と思っているのに、自然な自分はそれを増幅するのだ。



例を紹介すると、

これはプロセスワークが生まれたきっかけの一つでもあるのだが、

頭が痛いとき、多くの人は、(頭痛止めなどを飲まない場合)頭を叩いたり、する。

また、傷があると、そこをやたらと触ったりする。(これは動物も一緒だよね。)

気持ちが悪いと、「気持ちが悪い、気持ちが悪い」と考え、ますます気持ちが悪くなっていくのだ。



これは、「それをやってはいけない!」という客観的な視点ではっきりと知っていないと、やめられないものだ。

実際子供は、痒いとどんどんかきむしる。



かゆみや傷は目に見えて分かるから、それを『増幅』しないようにすることは、比較的学びやすい。

でも、それが『心』という『目に見えないもの』だったらどうだろう?



これが、陰陽道で伝わっている「滅びのサイクル(本来の古語での呼び方は知らない。)」、ということなのだろう。

人は、自分が不幸になると、わざわざ呼び水のように不幸になるようなことをする。



汚い言葉を使う、

姿勢を悪くする、

悪いことをあえてしてみる、

イライラするようなことをする、

などなど・・・



う~~~ん、不思議だ。



陰陽道では、このときに意識を良い方向にシフトさせるために「祭文」を唱える。

『悪しきものを祓いたまえて、常に正しきことを行わしめ給え』と・・・



これはようするに、自己催眠であり、自分の中の『正しい』状態へと戻る心理的なアンカーとなっているわけだ。

なるほど、これを一言唱えるだけで、無意識に入ってしまう

滅びのサイクル=自暴自棄のサイクル=自己破壊のサイクルから抜け出せるわけだ。



下の記事で、どうして子供はあきらめるのか?

という疑問を考えたが、

理解・行動能力が高いが、感情的な制御がままならない子供だからこそ、

一足飛びで自己破壊のゴールまで行ってしまうのかもしれない。



みなさん、上の祭文を覚えるなりして、いつも自分を客観的に見られる状態におけるように注意しましょう。

問題は、意外とそうしてみればささいなことにすぎないのかもしれない。。。

(NLPの問題解決アプローチなどでも、ポイントは結局ここだったりするしね。)



感情や気分に振り回されないこと。

それが、古くから日本で伝わってきた、人生や社会を幸せにする方法なのだ。
昔は僕もそうなりそうな時代もあったが、

僕の世代より少し上から、今の世代によく見られることとして、

「人生をあきらめる」ということがある。



そういう人たちには、

『あきらめる前に、自分は何かしたのか?』

と自分に聞いてみて欲しい。



この『人生をあきらめる』という病は、

なぜかとても若いときにかかる。

主に思春期のころだ。

そして、それが人生の終わりまでずうっと続くのだ。



今考えてみても、なぜ若いときには、

『人生ってくだらないな。』

『この世界はもうどうしようもない。』

とあきらめてしまうのかは、分からない。



何を参考にして、判断を下すのだろうか?



ひょっとしたらこの時期は、

大人からの分離とともに、

やはり大人というものへの『信頼』がどこかにあるのだろうか?

だから、『大人ができない、ということは自分もできない。』と考えるのだろうか?



そういえば僕は、大人がいうことを信じない子供だった。

僕は、いつも自然を見つめていたから、

大人が『これはこうである。』といっていることが、

どうにも自然、つまり現実に起こっていることとは合致しない、ということに気づいていた。



だから、僕は、同世代がどんどん人生をあきらめていく中で、

人生をあきらめることができなかったのかもしれない。

『だって、そういう風になってないでしょ!』

「大人」から何かをいわれても、いつもそう思っていた。

だから、「大人」が言っていることが「正しくない」ということを証明するために学び、

そして、ついには、やっぱり「人々」が信じていることは全然間違いであった、ということを自分のなかで確信した。



でも、多くの人は、自分の「考え」を支えてくれる支柱がないから、

どこかで『大人がいっていることは正しいのかもしれない・・・』

と思い、ついにはあきらめてしまうのかもしれない。

僕が、自然という「揺るぎなきモノ」をみることになったのは本当にラッキーだったのかもしれない。



まあ、とはいえ、

やはり、思春期を抜け、いわゆる「大人」になったときには、

あらためて自分を見つめ直すことができる。



親から自立した、論理的な思考をもってすれば、

自分がいかになにもせずに人生や「夢」をあきらめてしまったのか分かるだろう。



さあ、ここでもう一度自分に問いかけてみて欲しい。

あなたは、なにかをあきらめてしまった前に、

一体何を実際にやっただろう?

どれくらいそれについて知り、どれくらいの期間をかけて、どれくらいのことをやったのだろうか?



それはひょっとしたら、できるものではないのだろうか?

自分はただ何もせずに、ビビってしまって、または面倒で、それをやめてしまっただけではないだろうか?



もしそうならば、ただちに「私には○○○なんてできない。」「私に○○な才能はない」という言い訳を捨て、

「私は、○○をしたくなかったので、することをやめました。」

と言い換えるようにしよう。



自分に正直になって、事実を受け入れるようにすれば、人生は好転する。

ぜひやってみて欲しい。