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お手伝いさんたちのブログ

中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

体罰孝(4)学校と家庭(安心して任せられる学校とは) (1/12)




体罰やイジメで自殺したり、引きこもりになったりする生徒や学生がでるたびに、「学校は何をやっているのだ!」というバッシングが始まり、教育委員会が頭を下げるという光景が続いている.



一方、学校現場では、教室で生徒や学生に接しているだけだから、友達関係などには十分に気をつけられないという先生も多く、また最近では「個人情報保護」という観点から、生徒や学生の家庭や個人的なことを聞くこともできない。



もともと、児童生徒、学生を全人格的に指導するということになると、家庭環境、友達関係、趣味など広範囲に知る必要があるが、今では「親の職業」はもとより「兄弟がいるか」も聞くことができない。そうなると「何か悩んでいる様子はあるけれど、相談する人がいるのかな」と思ってもそれを知ることすらできない。



ここで私は「学校を防御する」という意図はもっていない。「悲惨な子どもが二度と再びでないように」ということを考えると、「事実を良く知る」ことが大切であり、「異論を認めて考える」ことも必要と思っているからだ. 今の報道や有識者のコメントは方向が違うように感じられる.



まず、学校とは何をするところか? 教育基本法では「社会人として人格高潔な人を育てる」となっているが、社会は学校に「勉強やスポーツができるようにして欲しい」と期待している.もともと何を目的にして教育しているのかがハッキリしない。



ゆとりの教育が批判されたのだから、今の日本社会は「学校で勉強させてください」ということだ。それなら、授業中に私語をしていて講義を聴かない生徒は保護者に手紙をつけて返すことになる。「あなたのお子さんは、勉強する気が無いようなので、勉強する気にさせてから学校に出してください」という手紙だ.



日本の法律によると、児童生徒は「保護者」がいて、保護者がその子どもに気を配ることになっている。40人学級でも先生一人に子ども40人、それに中学校からは学科単位で先生が替わる。



これに対して親はせいぜい2人か3人で、毎日、子どもの様子を見ることができる。だから、当たり前のことだけれど、親も「子どもの成長や幸福」に強い関心を持ち、もしそれが脅かされるようなことがあれば身を挺して子どもを守り、もし子どもがやるべき事をやらなければ、叱ってでもさせなければならない。



社会もそうだ。かつてよく言われたが、日本の電車の中で子どもが大騒ぎしていても他人は知らない顔をしているが、先進国では公衆道徳を守らない子どもに対して、他人でも厳しく叱る。社会が共通して教育をしなければならないという意識がある。



「社会が子どもを育てる」と言って民主党は「子育て資金」(ウソだった)を提案したが、お金の前に、まずは精神的なこと、教育的なことに関する社会的合意が必要なことは言うまでも無い.



やはり子どもの教育は、第一に家庭、第二に学校、そして第三に社会で、すべての大人が「未来の日本のために」と考えて、バッシングを止めることだろう. 子どもはまだ成長途中だから、その教育はとても難しい. その困難を学校だけに任せても成功はしないだろう.



先回「フランス流」を説明したけれど、文科省の指導や、教育委員会、ましてや自治体の関与をさて、先生の待遇を上げて先生自体によく考えてもらうことが大切だ.日本の小学校から高等学校までの先生は、その学問的力、人格、思考力からいって社会より高いと私は思う.その人に子どもの教育を考えていただいた方が子どものためになると私は思う.



このシリーズで、学校教育法第11条の体罰規定と文科省の役人の指導について言及しないのは、私が考える教育と違うからである。



そのためには一にも二にも、先生の待遇を高め、子どもに先生を尊敬させ、具体的な教育方法(体罰の無い教育はあるのかなど)について、十分な検討をする時間を先生がとれるようにしなければならない。結局、私たちの希望は子どもの成長だから.



日本人は子どもの幸福を考えているのだろうか? と良く思うことがある。福島では大人は1年2ミリ、子どもは1年20ミリ. 原発廃棄物は大人が処理せず、子どもの時代にパンクする. エコポイントを欲しがり会社がダメになる。赤字を出して税金をもらいツケを子どもにつける. 外国に工場を作り日本の子どもの就職先がない・・・・そして教育も同じように私には見える.


(平成25年1月12日)





--------ここから音声内容--------





体罰考っていうのを少しやろうと思いましてですね、続くかなと思いましたが、4回目までいきました。えー、体罰やいじめで自殺をしたり、引きこもりになったりする生徒とか、児童、学生が発生するたびに、テレビを中心として学校は何をやってるんだ!というバッシングが始まりまして、そのうち教育委員会が頭を下げるという。そういう光景が、ここの所ずっと続いておりますね。





ところが学校現場ではそれに対して、それほど納得してるわけじゃないんですね。教室で生徒や学生に接している先生はですね、友達関係なんかは充分に気をつけられないわけなんですよ。えーと、今度の事件の様に、まあスポーツクラブを一生懸命やってる先生は、個人個人の事をよく知っておられますけどね。そういう人が、まあ、バッシングを受けるという。逆の現象になってるんですね。





えー、また最近では個人情報保護というのがありましてですね、非常に難しいんですね。私なんかは本当に困ってるんですよ。学生っていうのはやっぱり子どもですからね。私なんかは(大学の)学生なんで簡単なんですけどね。中学校・高等学校の先生は本当に大変なんですが、えー、やっぱり学生が心配になる事があるんですよ。(個人情報保護の関係で)親の職業聞けないですしね。昼間は親何してるの?なんて聞けませんし、それから悩んでる様子を見ても、兄弟がいるのか、友達とどういう関係かとかやっぱりこれも聞いちゃダメなんですよね。要するに学校は今、勉強だけさせてる以外に手の出しようが無いんですよね。起られちゃうんですよ、そんなこと聞くと。





で、どこまでが個人情報保護なのかも、わかんないんですよね。つまり、個人情報保護っていうのは社会人対社会人の事ですからね。だから、子どもに対してどうかってことは、幼稚園児の人に、「今日お母さんいつ迎えにくるの?」、「個人情報保護ですから。」なんて言われたらですね。保育園なんかやってられないかもしれないですね。だからそこらへんもものすごく「曖昧な日本」なんですよね。曖昧な日本には曖昧な日本のいいところがあるんですけどね、ちょっと極端かなと思いますね。





もちろん、児童・生徒・学生を全人格的に指導するならですね、やっぱり、家庭環境・友達関係・趣味など広範囲に知る必要があるんですよ。これはもう仕方が無い事ですね。人間ですから。そういうものを切り離して、個人的な悩みを指導するなんてことは出来ないんですよ。で、こういう風に言いますとですね、必ずバッシングを受けるんですよ、また。「武田は学校にいるから、学校を保護するのか?」、一回放送で言われた事があるんですよ。「そんな事言うのは、武田先生が指導をさぼっているからじゃないか?」いや、そんなことないんですよ、そんなケチな話しじゃないんですけどね。





子ども達を守るのが僕らの最終目的であって、その為には事実を知るっていう事と、で、「そこまで先生は出来ないんだけど」って言ってる先生の声にも耳を傾けないとですね、ダメなんです。その点ではですね、今の報道は学校側だけをバッシングしたり、生徒を甘やかせればいいんだと、子どもは判断力があるんだ、やんちゃもしないんだと。子どもじゃないんだっていうコメントを言う評論家も多いんですけど、ちょっと納得できませんね。





えーと、教育基本法は違うんですけども、ゆとりの教育が批判されてるなら、今の社会は学校で勉強させてくださいと言ってるんですよ。それならですね、授業中に私語をしてて、講義を聴かない学生とか生徒はですね、保護者に手紙をつけて帰してですね、「あなたのお子さんは勉強する気が無いんですから、勉強する気になってから学校に出してください」という手紙をつけて出すのが道理ですね。





私語をですね、先生が注意したり、襟をつまんで出そうとするから問題が起きるんであって、そういう生徒を学校に来させる親が問題っちゃ問題なんですね。まあ、義務教育の時はどうするかって言う問題ももうひとつあるんですけれども、それも議論しなくちゃいけませんね。なんたって、子どもの保護者っていうのは親ですからね、普通は。まあ、保護者が親じゃない時もありますが。





だから、保護者がですね、保護者として気を配ってくれないとですね、学校で40人ですよね、小学校とか中学校とか。それに対して(先生は)一人ですから。親は2・3人の子どもですからね。大学になんかになりますともっと多いですからね。まあ、学生の私生活にまで入っていくっていうことは普通しないんですね。学生も嫌がりますし。





で、親御さんの場合、自分が親ですし、2・3人の子どもを見るわけですから、接触頻度も高いですしね、やっぱり子どもの成長とか幸福は親が第一の関心を持っていただいてですね、ちょっとおかしいなと思ったら、学校に文句を言うとかじゃなくて、学校と共に考えるということじゃないと、ダメだと思うんですよね。





で、社会もやっぱりそうなんですよ。まあ、電車の中でよく暴れてる子どもが居ましてね、それをよく私なんか注意すると、親がですね、こっちに文句言ったりするんです。これはまあ、日本的でもあるんで当然かもしれませんが、まあ、先進国であんまりそういう事ないですね。社会が子どもを教育するという面も持っているということですね。





それはあの、民主党がですね、社会が子どもを育てるって言って子育て資金、まあこれ嘘だったんですけど、お金を出すよ。ってお金を出す前にですね、まず社会が子どもを教育するのかどうかっていう議論を日本ではしておかなければいけないっていうことですよね。まだ社会的合意になっておりません。私が他人の子どもに注意をすると必ず親は嫌な顔をします。ていうことは、親が子どもを教育するんだって思ってるってことですね。で、その親がですね。教育をしてないんですよ。実は。





えー、やっぱりですね、子どもの教育は第一に家庭ですね。特に家庭では全人格的な事。そういうことを教育していただき、第二に学校ですね。学校も人格的な事をやる方が僕はいいと思いますが、今はやや社会は(学校に求めているのは)勉強とかスポーツですよね。そして第三に社会。それぞれ、家庭では人格教育とか、成長の為の考え方とかそういうことをやり、学校では、主には勉強とかスポーツをやり、今の現状ではね。それから社会では公衆道徳に反している子どもをちゃんと直すと。すべての大人がですね、未来の日本の為に個別のバッシングをやるんではなくて、やっぱり子ども達の為に考えると。





えー子どもの教育は非常に難しいんですね。ですから、この困難を学校だけにかぶせるっていう今のやり方では決して良くなりません。私はそう思います。

まあ、先回フランス流っていうのを説明しましたけれども、文部省の指導とか、教育委員会、ましてや自治体なんかが書いてんじゃなくて、むしろ先生の待遇を上げて、先生自身によく考えてもらう事ですね。





私は毎年、小学校から高等学校までの先生の再教育ってのを担当しておりまして、やってですね、レポートを書いていただきますと本当に驚くべきほどレベル高いんですよ。先生方のですね。教諭と呼ばれる方々ですね。非常に高いですね。学力もいいし、考え方もいいし、誠実ですね。だけども何が問題かっていうと、やっぱりあまりに痛めつけられてて、個人では抵抗できないんですよ。先生方そんなに強いわけじゃありません。校長先生の査定もあればですね、いろんな締め付けもありますからね。ですから、先生方一人一人が、社会全体の悪というか、教育の間違いに立ち向かうって言う事はちょっと難しいんですよ。だけど、レベルは非常に高いんです。





私は、日本人が今の小学校から高等学校までの先生を信じていいと思いますね。先生は立派ですよ。やっぱり、尊敬し立派だと。そりゃあ、100人に2・3人ちょっとどうかなと思う人はいますけどね、それはまあ仕方ない事で。その先生方がさらによくなるように、サポートするって事じゃないでしょうかね。私はむしろそう思います。





やっぱり、あの、昔に返るようで反論のある人も居るでしょうけれど、やっぱり自分の子どもが悪い事したら、親が学校に行ってすいませんでしたと。「よく私の方も教育しますので、先生の方もこういう点よくお願いします」とそんなような形がですね、やっぱり、望ましいんじゃないかと思うんですよね。





特に健康状態とか、心の問題は学校はちょっとね、全部はカバーできないんですよ。現実的に青い顔して、教室で倒れたら保健室でちょっと休ませておくってことぐらいはできますけどね、親のようにですね、今日の顔色見てなんかおかしいなと思ったら、なにかしてやるっていうような事はやっぱりですね、学校の先生に期待するのは無理なんですよ。





私なんか大学でもそういう事あるんですよ、この子大丈夫かな?って思う事あるんですね。その子がどういう下宿に住んでて、どういうものを食べて、親との関係がどうだかわかりませんからね。判断の材料に乏しいんですよ。だからまあ、ぜんぶ寄宿舎になって、アメリカはけっこう寄宿舎が多いんですけどね。全寮制で寮長が見るというのであれば、ある程度は見れるんですね。





だから私はこのシリーズで何回か繰り返す事に結局なっちゃったんですけど、先生の待遇を高めて、子どもに先生を尊敬させて、これは親が言わなきゃいけませんからね、親の態度に拠りますから。それから具体的な教育方法についてはですね、例えば「体罰の無い教育はあり得るのか」なんていう、基本的な事はですね、先生に時間があって充分に検討しないとですね、ダメですね。





この前ある小学校で、先生方に対する講演をしたんですけれども、それはもう立派でしたよ。聞く態度から、もちろん当たり前ですけど先生ですから、ご質問から、そのあとの自由な話し合いから本当に立派でしたね。だから、あの、小学校、中学校、高等学校までの先生は立派なんですよ。非常に立派なんですね。





それに対する私たちの確信がいりますね。もちろん日本中には何万という先生がおられますから、中には特殊な例があります。特殊な例を少なくする為には、良い先生を持ち上げるっていうことですね。マスコミに時々出て、もてはやされているいる先生がおられますが、本当に立派な教育をしている先生をマスコミが取り上げた事ありますかね。非常に褒めて立派な生徒、もしくは本当にグレてダメだった生徒を何とか立ち直らせた。そういう人をマスコミが偉いと。よくやってくれたということがあるんですかね。私の言う芋づる方式。やっぱり立派な先生を褒める。待遇するということが全体としてはいいんではないかと思うんですね。





こういうことを話していると言いたくなっちゃうんですけど、福島では(作業員)大人1ミリの被曝だけど、子どもは20ミリの被曝。原発の廃棄物はもう130万本になってるのに、大人は危険だからって処理しないで、子どもに任せようとしている。ま、エコポイントなんかを出してですね、それを、欲しがるお金を欲しがると。そして会社もダメになる。えー、国家は赤字を出してですね、税金をもらいたいからみんなに払い、つけは子どもにつける。工場は外国に造って、日本の子ども達の就職先が無い。教育も先生方はバッシングして、親は知らない顔をする。





なにかですね、私は、共通点がある様に思いますね。自分は正しいんだって言うことは簡単ですけれども、ほんとうにそうなのかと、私たちは親として子ども達への責任を果たしているのかと。もったいないって言ってどんどんどんどん、日本の国の力が下がってきましてね、今から38年後、今年生まれた人が38歳になる時には、中国との力の差は10倍になって、日本は(中国と比べて)10分の1の国になって、沖縄を守れるのか、九州は守れるのかわからないような状態で今進んでおります。





これは教育でもやっぱりそうなんですね、教育は非常に大切ですので、やっぱり教育をする小学校から中学校・高等学校までの先生の待遇をあげて、立派な先生を表彰したり、給料を上げて、時間をゆったり使って、教育の事も検討してもらう事にして、そして私たちの子ども達がいい教育を受ける様にすると。こういう前向きの行動を、思考・態度を我々は取るべきではないかと私は思います。


(文字起こし by まさんちゅ)

体罰孝(3) 体罰とはなにか?・・誰が「体罰」を決めるのか? (1/12)




先回、一言で体罰といってもその内容は様々であることに触れました. 多くの人は以下に列挙した体罰の内、体罰と感じるのはどの辺でしょうか? なお、学校教育法第11条の体罰規定には体罰の具体的なことは記載されていません。文科省の指導がありますが、教員の検討がない役人側の一方的なものなので、このシリーズでは取り上げないことにしています。



1)自分が実験した時にこぼした薬品を本人に綺麗にさせる(顧問弁護士は体罰と認定した)、


2)給食当番が忘れものをしたので、配膳室まで取りに行かせる、


3)生徒に黒板に書かせた文字を生徒に消させる(先生が消すのでは無く)、


4)重要な忘れ物をした生徒に家まで取りに行かせる、


5)授業に遅れた学生を10分間だけ立たせておく、


6)授業中に頻繁に携帯電話をかけに立つ学生の背中を押して出て行かせる、


7)授業中に4人ぐらいで大声で私語をし注意しても止めないので、襟首をもって廊下に出す、


8)がんばれよ!と言って肩を叩く、


9)隣の生徒の答案を盗み見ている生徒の頭を持って見ないようにさせる、


10)ダラダラ練習している生徒に気合いを入れるためにグラウンドを3周させる、


11)キャプテンとしての自覚を持たせようと平手で数回、頬を叩く、


12)4月から7月までまったく大学に来ない学生を、先生が卒論を合格できないと心配して夏休みに大学に出させる(これは先生が訴えられた例がある)



それぞれの人が違う考えを持っています.つまり、かつて教育は必ず体罰を伴うものでしたが、いつの日からか良くわからないし、「体罰がいけない」と言い出したのは日教組かも知れませんが、現在では「体罰はダメ」という事になっています.



それでは、教育現場で具体的に起こる問題について、かつては体罰で解決していたものの代わりは何かという議論は進んでいません.



1)口でいくら注意しても大声で私語をするグループがいて、授業が続けられないときにどうするか?


2)実験の後片付けをしない生徒を放置しておくと、ブロークン・ウィンドウズ現象で実験ができなくなるけれど、それをどうするか?


3)チームプレーのスポーツで、ダラダラ練習する生徒がいて、多くの生徒が不満を持っている時に生徒を強制的に止めさせるか?


4)生徒や学生が苦痛に感じるほど、繰り返し口で説得する時に、どこまでが「口の暴力」か?



この社会に「警察」などの「力による強制力」が必要なように、教育現場にも「力」でなければ解決がしないものがあります。そのことを良く議論しないで、単に「体罰はダメ」と言っていると、本当の体罰(負傷するまで殴るなど)を止めることはできないと思います.

「無理を通せば道理引っ込む」と言うことでしょう。私は「フランス流」、つまり、「どの体罰はいけない」と具体的に社会が決めるのでは無く、体罰の意味、教育の意味、先生の待遇、先生に考えてもらうということを通じて、学校の中から改善していくことの方が大切と思います.


(平成25年1月12日)





--------ここから音声内容--------





ブログを書きましてですね、音声をつけようと思うといつも朝になっちゃうんですね。なんで朝なのかよくわからないんですけどまあ、昼間は非常に忙しいし、夜はその日の事で手一杯って感じですしね、結局余裕が出るのは朝だという、朝いろいろ考える事もあるので、ついブログを書きたくなり、それで書きますとどうしても話したくなると。




ところがですね、声が朝はいつも枯れとりましてね。一日中枯れてるわけじゃないんですが、昼頃になりますとのどが温まるといいますか、声帯があったまりまして、スムーズになるんですけど、どうもいつも、聞き苦しい声で申し訳ありません。





えー体罰考三回目ですね。体罰とは何か。先回少し触れましたけれども、例を下に示します。私の経験とかそういうのを下に示しますので、どの程度が体罰なのかということをちょっとお考えいただきたいとおもいますが、まずはこの前書いた事ですね。





自分が実験したあとに出たゴミを本人に綺麗にさせる。これはまあ私がさせてたことですね、自分でやった実験の後始末は自分でしなさいとこういう風に指導してたんですが、顧問弁護士はこれは体罰であると。大学が掃除のおばさんを雇って、学生が実験でこぼしたものは、掃除のおばさんに綺麗にさせなさい。学生の(学校との)契約の中には自分がこぼした薬品を綺麗にするってことは無いと。学生は大学に勉強する為に来てるんだと。掃除する為じゃないと。こういう風に言われた事がある。ということですね。

これについてはどうでしょうか。多くの方がおそらく、自分でこぼした薬品は自分で綺麗にするべきだと思うんじゃないでしょうかね。





例えば、給食当番がスプーンならスプーンで、何か忘れたとします。それを配膳室までとりにいかせる。

これは体罰か。と。配膳室の人が教室に持ってくるというのがいいのか。




それから、黒板に生徒に書かせる事があるんですよね。答えを書かせたり。それを消さないで帰るという生徒がいるわけですが、先生がそれを消すのか。生徒にちゃんと消しなさいというのか。これも体罰なんですね。





それから、これは時々問題になるんですが。重要な忘れ物をした生徒に、家までとりにいかせる。これはいろいろ議論があるんですね。明らかな体罰ですが、まあ、ほんとうにそういうのが癖になってる子どもがいましてね。先生としてどうしようかと。これで社会人として成立するのかと。こういう心配になりますね。しかし取りに帰らせると、交通事故に遭う事があります。しかし、考えてみればですね、毎日毎日、登校して下校するんですからね、まあ、そこまで責任を持つのかどうかって問題があるわけです。これは個人によって違うんですね。





私なんか、かなり前ですけれども、最近までやっていたこと。授業に遅れた学生を十分間だけ立たせておくんですよ。あんまり立たせると体罰になるかなあと、しかしですね、学生はですね立たせたら、二度と遅れないんですね。ところが口で遅れるなといくら言ってもですね、いい加減なんですよね。まあ、人間って不思議ですね。





それから、授業中にけっこう煩雑に携帯電話をかける学生が居るんですけど、そういう学生に出てけって言っても、そういう学生は出て行かないんですよ。言ってもですね。また電話かかって来て、またそこでかけてるんですよね。で、どうしたらいいかって思って、学生の背中を押してですね、お前出てけと、ドアを開けて背中を押して出すと。これはまあ、明らかな体罰ですよね。こういうとき、どうなのかなと思いながらも、私なんかやるんですけれどもね。





それと、同じような事で、授業中に四人ぐらいで大声で私語をしてるのがいるんですよ。グループでですね。まあやんちゃなグループなんですよ。まあ別にそんなに、子どもですからね、学生でもそんなに悪気はないんですけど、いたずら半分で大きな声でわざとやるんですよ。まあ、反抗期ってのはそういうのもありますからね。大人じゃありませんので、たわいなく騒いでるんですよ。ジュースなんか持って来てですね、足なんか投げ出して、しゃべってるのが居るんですよ。





教室他はしーんとして、僕は講義してると、やっぱりやりにくいんですよ、他の学生も聞こえなかったりね。時々ビデオなんか見ますと、そのビデオの音が聞こえないことがあるんですね。私なんか技術関係ですから、非常に重要な、音の必要なものなんかもやるんですけども、ダメなんですね。そうするとそれは、出て行かないので、襟首をもって出すっていうことになるんですよ。襟首を持って出すってことになると、これはまた明らかな、まあ、顧問弁護士に言えば「講義を受ける権利を喪失する」し、体罰に厳しい人から言えば、「完全に体罰だ」と。





まあ、授業をそこで止めてしまうっていう手もあるんですけどね、そうすると受けに来た学生に問題が生じちゃうんですよ。こういうのはあとでちょっと書きますけども、例えば世の中で起ったら、駅員とか、警察っていうそうい人が、まあ警備員とか来てですね、ある程度実力行使をする人がいるんですよね。例えば、電車の中で大声で騒いでると通報があったら駅員が両脇を抱えて、とにかく車両の外に出てくださいと、やるわけですね。





これが、学校ではいないんですよ。まあ、先生なんですよね。でも先生はこれ、体罰になっちゃうんですよね。で、もう少し微妙なやつになりますと、「頑張れよと言って肩を叩く。」結構あるんですよ、頑張れよなと言って、肩を叩くこれダメと。頭を叩くのはもちろんダメと。





それから、試験中に隣のですね、生徒の答案をチロチロ見てるんで、ダメだよと言って頭を固定してですね、自分の答案から横を見ない様にさせるということもあるんですね。こういった、一般的な講義中での体罰っていうのもありまして、それ以外に。だらだらと練習してる生徒にグラウンド三周させるっていうのも、正座させるっていうのもあるんですよね。





それから、今度の(事件)とちょっと関係あるんですが、キャプテンとしての自覚を持たせようとして、平手打ちで数回頬を叩くと、今回の件ですね。まあ、数回かどうかはわからないですけどね。




それからこういう事件もありましてですね。四月からまあ、(大学)四年になったら、卒業研究をしなきゃならない。それで卒論をだして卒業する。ところが、四月に研究室に配属になっても全然大学に来ない学生って結構居るんですよ。まあ、3割ぐらいはいるかもしれませんね。あの、この日本に。





それはどうしてかって言うと学生の方はですね。卒論やらなくても卒業させてくれるっていうことがわかってるんですよ。これ文部省の指導がありますからね。何%しか落とせないって決まってますから。それを全部見越してですね、先輩なんかからそういう知識いきますからね、先生が心配して八月の夏休みに学校に出させた先生がいるんですよ。学生このままじゃ落ちちゃうと思って、したら、訴えられましたね。8月は他の事するのになんだってことで訴えられましたね。





まあ、こういった、いま1から12まで、まあ、その他にも無数にあるんですよ。小学校から、中学校、高等学校と無数にあるんですね。そのうちには生徒側に悪質なのもあるけど、やんちゃとか、いたずらっていうのも結構あるんですよ。子どもですからね。先生は、まあやんちゃならやんちゃ、いたずらならいたずらだと思ったら、そのままにさせてるのが普通なんですよね。これ、親でもそうですよね、兄弟喧嘩してるとか、まあ、親にちょっと反抗するとか、その程度が酷くなければ、そのままさせとく。あんまり酷かったらお前外に出てろ、とこうなる。というようなですね頃合いっていうのがあるわけですね。





で、難しいのはですね、今までの教育。いつまでかは知らないんですけど、体罰は普通だったんですよ。もちろんこれは明治時代、江戸時代なんて当たり前なんですけど。少なくとも戦争の前は当然で、戦後も私たちが教育を受けた時は体罰はいくらでもありました。体罰はいけないと誰が言ったのかよくわかりませんね。何故いけないと言ったのかわかりませんね。





で、体罰を伴わない教育っていうのは今まで存在しないんですよ。実は。えー、家庭の教育でも体罰伴いますね、お母さんでも体罰してますよ。そうしますとね、体罰がいけないと今言ってますよ、社会は、ものすごく言ってますよ。体罰なんてのはけしからん。そんなことは議論するまでもない。と言ってますけどね、今まで体罰の無い教育ないんですよ。日教組が言い出したんですかね。ちょっとわかりませんけど、今から30年くらい前でしょうね。突如として体罰はいけないとなったんですよ。それはそれで、進歩じゃないかと思うんですよ。私もそんなに体罰っていうのを推奨しません。





だけども、教育現場で具体的に起る問題について、かつては体罰で解決したものの代わりは何かなんですよ。なかなか難しいんですよ。さっき言いました様にですね、口でいくら注意しても、大声で私語するグループが居て、授業が続けられないときどうするのかと。これね誰も逃げちゃうんですよ。こう質問すると。「武田さん、まあそれはそれだよ」なんて言われてですね、いつまでもダメなんですよ。





それから実験の後片付けをしない生徒を放置しておきますとね、やっぱりブロークウインドウズ現象で、どんどん実験室が荒れて、もう実験できなくなっちゃうんですね。これをどうするのかと。





それからチームプレイを指導されてる先生も、だらだら練習する生徒がいたらですね、多くの生徒が、不満を持っているわけですよ、どうするのか。だからって、口で注意するっていうのがいいのかと。これ私の経験ではですね、後ろに一回立たせとけば、立ってろっていうだけで、もう遅れないんですけどね、遅刻しない様に学生を説得するっていいますとね、その生徒一人に10分とか20分とか使って説教をし、怒鳴り散らし、それを何回もやらないとですね、遅れるんですよね。そういうことがおこるわけで。まあ、口の暴力なんて言われますからね、どうしていいかわからないんですよ。





世の中にはさっき言った様に、警察とか、鉄道の係員とかですね、警備員とかといった、力による強制力が若干あるんですよね。教育現場にも力が無ければ解決できない問題があるんですね。で、なにが体罰なのかという事を、決めないで、なんか、まあ、マスコミの報道を見て「いかん」と。まあ、「負傷するまで殴る」ということはを止めるのは、これはまあ、いいかなと思いますね。





だけどどのくらい、体罰はすべていけないって言うんで、僕なんかも後ろに立たせるのもいつもドキドキしながら立たせてると。この子にとっては一回立たせれば、全部終わるんだと、それから立たせて僕だったらですね、君も彼女とのデートを約束して10分も遅れたら平謝りに謝るだろうと。君の本業は学生だぞと。本業を遅れるような事はあっちゃいけないとか、ですね。君はアルバイトをしていたら、アルバイトの時間に遅れることはないだろうと。アルバイトは君の本業じゃないよ、本業は学生だよと。だから授業は一番君にとって、大切なんだと必ず、立たせた学生には言います。だから、ちゃんとしなきゃいけないよ、とかですね。





ある時には、親が大学を出す為に君に授業料出してるんだろと、そしたらそういう親の恩に報いてしっかりと勉強しなさい。と言ったりすることもありますね。しかし、それは口で言っただけでは何回言ってもダメなんですよ。これは、お子さんをもたれた親御さんだったらほとんど、よくわかると思いますね。だけど、(現場は)困っちゃってるんですよね。





私はフランス流をここで提案したい。これは、フランスには文部省一応ありますけども、日本のような高圧的というか、これをやりなさいっていう式ではないんですね。つまり、どの体罰がいけないとかっていう基準をきめるっていうようなやつじゃないんですよ。日本はすぐこういう基準を決めたがるんですけど、そうじゃなくてですね。





先生方に体罰の意味、教育の意味、先生の待遇を良くする事、先生と体罰と教育っていうものを考えてもらうというのを根気よくやるんですよ。つまり、学校の中から改善していくんですね。つまり、何か問題が起きたら外から規則を決めるんじゃなくて、そこに居る人たちに考えてもらうんですよ。もちろん日本のね、小学校から大学のね、大学はちょっとぽんこつの先生がいるんですけど、小学校から高等学校までの先生は、平均レベルは非常に高いんですよ。





僕はあの、教員の資格の教育なんかもやっておりましてね、いつも感じるんですけども、世の中の平均レベルと比べると、日本の小学校、中学校、高等学校の先生方のレベルは本当に高いんです。もちろん100人おられたら、100人のうち2・3人はちょっとなと思う人もおられるんですよ、それは。だけど、そこを注目するんじゃなくて、平均的な力っていうのを比べますと、比べ物にならないほど、よくお考えになり、知識もあり、人格も高いんですよ。





ですから、社会が学校に指示するんではなくて、学校の先生方の待遇をあげ、よく考えて頂いて、そして我々の子ども達のいい教育をしてもらうと。そっちに行った方がですね、今マスコミの状態を見てますとね、私はですよ、何か教育を知らない人たちが、せっかく一生懸命やってらっしゃる先生方の一部のいろんな間違いとかそういうものを取り上げ、全体的に子ども達の教育を悪くする方向に行ってるんではないかと。





ここであえて体罰の例を上げましたのはですね、そこが難しいとこだ。要するに、なぐって人が怪我したり、あるいは自殺に追い込まれるっていう特殊な例もあるんですけど、その特殊な例を減らさなければいけないんですが、しかしやはり基本的には私が言う芋づる方式。学校の中の先生方がですね、よく考えられ、また自由な発言が出来る。今、私だから思い切って言ってますけど、普通の先生でしたらね、体罰にはいい面もあるなんて絶対に言えませんよ、口が裂けても。言ったら、大変なバッシングに遭いますからね。だけども、自分の心の中にある疑問を言えないような社会なんです。





だからって言って体罰するって言ってるんじゃないですからねその先生は。こういう時には体罰を使わざるを得ないんだけども、どうですか?と言っただけで、罵倒されて、あるいは先生やめさせられちゃうわけですから。だから、そうじゃなくて、疑問も含めてですね、私たちは結局のところ、子ども達にいい教育をしたいっていうのが目的ですからね。だから、まあそこのところ少し、考えなきゃいけないなとこう思いまして、今日ブログを書きました。

 
(文字起こし by まさんちゅ)

体罰孝(2)心の教育と頭の教育 (1/11)




人間を教育するというのは、なんでも「不完全な人を、やや完全な方向に進ませる」ということですから、なかなか難しいものです。私も20年の教師生活を経て、その難しさを身にしみて感じています.



あるとき、私は指導に悩み、毎週、教会に通って牧師様のお話をお聞きし、時には聖書の勉強会に出ました。それは「自分の前を通りすぎる悩む学生」を助けることができないのです。その学生は私から見ると、ある考えにとらわれ、錯覚し、悩み、ズルズルと悪い方向に進んでいるのですが、それを直すことができないのです.



イエス・キリストが道ばたで会った悩む人を一言で解決してあげていたのを読み、どうしたらあのようになれるのか、万分の一でも勉強したいと思ったのです.



・・・・・・・・・



教育方法の分類はいろいろありますが、一つに「心のほうから教育する」というのと「頭のほうから教育する」というのがあります。人間は複雑な生物で、頭が良いのですが、それでいて頭で理解する事が難しい生物でもあります.



そこで、教育をするに際して、「心からする」という方法があります。これは良く「門を叩く」という方法で、ある先生の門を叩いて入門させてもらっても、肝心なことはさっぱり教えてくれず、毎日、掃き掃除、拭き掃除、風呂の準備をさせられて1年・・・という事になります。



この教育方法は「これから学ぶことを頭で理解するための心の準備」でもあります。そして教育が始まっても「座禅、水垢離、荒修行」などによってさらに「体と心を鍛える」ことまでします。



このような教育方法は、あまり深く考えない場合は、教育をする方(先生)のワガママだと言われることもあり、また、日本でも知識人などが特にそのように考える傾向があります。



大学で研究をさせるときに、掃除や後片付けをしないとその場で、研究を止めさせていたことがあり、それについてある大学の顧問弁護士から「大学と学生の間の契約内容に反する」と注意されたことがあります。



弁護士の言うのは「学生は「勉強」するために授業料を納めているのであって、学生が散らかした実験器具を整備するのは大学の役目であり、それは人を雇って掃除させるべきだ」という趣旨でした。(学校教育法第11条の体罰規定には体罰の具体的なことは記載されていない。文科省の指導があるが、一方的なものなので、このシリーズでは取り上げない。)



私の研究経験では、自分が使う実験器具や材料などは自分の魂としてそろえないと実験自体がうまくいかないのです.ちょうど、お寿司屋さんが包丁とサカナを大切にするようなものですが、それは現代契約論では含まれていないのです。



研究というのは未知のことに挑戦するので、とても心が乱れるので、それを克服するための訓練が必要です。それはあるいは水垢離であり、荒修行であり、さらに日頃の身の回りの物に対する愛着でもあります.それらが最後の苦しい場面で研究を支えます.その第一歩が「片付け」なのですが、それはまだ教育方法として定型化されていないので、弁護士には理解できなかったと言うことです。



このブログにも何回か書いたように、元々教育の目的というのは学力とかスポーツの能力を高めることでは無く、その人間の人としての力を上げるものですから、その手段として授業を受けさせたり、実験したり、あるいはバスケットボールを教えているに過ぎないのです.



私たちは「心の教育」が目的で、そのために「頭の教育や体の教育」をしているということをもう一度、教育基本法(旧条文)を示して、今回の体罰問題を考えてみたいと思います.



「教育は,人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として,真理と正義を愛し,個人の価値をたつとび,勤労と責任を重んじ,自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」



2013年正月に起こった高校の体罰と自殺の問題は、この条文と比較してどこに問題点があるのでしょうか?


(平成25年1月11日)





--------ここから音声内容-------





教育というのはですね、不完全な人を、まあこれは何が不完全なのかわかりませんが、足し算ができないっていう不完全さもあるし、根気が無いという不完全さもあります。そういった不完全な人をやや完全な方向にすすませるという事ですから、大変に難しいものなんですね。





私も20年ほどの教師生活をして、その難しさを本当に何回も身にしみて感じております。ある時ですね私は指導に非常に悩んで、毎週、キリスト教の教会に行きまして、牧師様のお話をお聞きし、時にはそれでも満足せずに、聖書の勉強会に出たりしておりました。これはどうしてかっていいますとですね、自分の前を通り過ぎる悩む学生がいるんですね、その学生を助ける事が出来ないんですよ。





まあ、学生が正しいかもしれませんし、私が正しいかはしれませんが、私から見るとその学生はある考えに囚われ、錯覚し、悩み、ずるずると悪い方向に進んでいくんですね。それをやっぱり目の前にするとそれをなおしてあげたいと思うんですよ。これは先生としてなおしてあげたいと思いますし、人間としてもやっぱりなおしてあげたいと思うわけですね。





例えばイエスキリストですと、町であった悩む人に一言声をかけたら、それが解決すると。それはまあ、もちろん神様でありますし、誇張もあるでしょう。だけどもどうしたら、ああいう風にですねちょっとした声をかけて助かるんであれば、万分の一でもそれを学びたいと、こういう風に思ったわけですね。





で、教育っていうのはこういうものでありますので、非常に難しいわけでありますが、その時ですね、現代の教育とやや古い教育と二つありますね。一つは心の方から教育するというもの。それと頭の方から教育するという二つの方法がありますね。あの、今では頭の方から教育するのが当たり前だとなってますので、これを見た人も何言ってるのっていう感じだと思いますが、人間は非常に複雑な生物で頭は非常に良いんですが、かといって頭で理解するほどやさしいかっていうと難しいんですね。





それで、教育をする際に心から始めるという事があるんですね。これはよく先生の門を叩くという。ある先生の門を叩き入門させてもらう「よし、わかった教えよう。」ところが入門しても全然教えて欲しいと思う事は教えてくれなくて、毎日拭き掃除したり、掃き掃除したり風呂の準備をさせられて一年間なんにも教えてくれないっていうことがあるんですね。





これは日本とかそういう、あの日本ばかりではないんですが、ヨーロッパでもそうなんですが、こういった教育方法が不合理だという人がいるんですね。せっかく入門したのに毎日毎日拭き掃除させられてひどいと。まあ、今だったら授業料とってるのにと、こうなるんですが。





実はこれは、これから理解する頭で理解する為の心の準備なんです。さらに勉強を始めても座禅をしたり水垢離したり、荒修行したりするわけですよ。これはですね、頭で理解する為には心を鍛えなければいけなきゃならないっていうことを言ってるわけですね。





難しいんですよ。頭で理解するっていうのは頭教えるのではなくて、頭で理解する為に心が準備されてなければいけないわけです。こういったものは先生のわがままだと言われる事があるわけです。特に日本で知識人が、まあ知識人なんてのはわりあいテレビなんか出て指導しますし、新聞に論評書いたりします。影響力大きいんですよ。(その知識人が)そういうふうに考える事があるわけですね。





私は大学で研究をさせてる時ですね、実験の掃除とか後片付けをしなければ、その場で研究を止めさせた事があるんです。「ダメだ」と。「お前は研究する事ができない」と「明日から止めろ」とまあこういう風に言うんですね。それがある時に問題になって、大学の顧問弁護士がですね、大学とあなたのやり方は、私ですよ、大学と学生の間の契約に反すると注意を受けた事があります。





弁護士が言うにはですね、学生は勉強する為に授業料を納めてるんであって、学生が散らかした実験器具は大学が整備するのが役割だと。だからそういう人を雇って掃除させるべきだ。とこういう注意をされましたね。つまり大学の研究室って言うのは学生が10人ぐらい居てですね、そこで毎日掃除をし、器具を整備し、材料を揃え、そして実験し、レポートを書いてというふうに勉強していくわけですね、だけどこの弁護士が言うのは、それは契約内容に入っていないと、学生は勉強するんだから、だから実験だけさせて、その実験した残りのもの、そこらへんに紙くずとか捨ててあっても、それは掃除のおばさんがやれと、こういうことですね。





で、実は私が掃除とか実験器具の後片付けをしない学生は研究をやめさせるのは何故かと言いますと、私の長い研究経験ではですね、自分が使う材料とか、実験器具をおろそかにする人はですね、実験がうまくいかないんですよ。それは当たり前っちゃ当たり前ですね。





お寿司屋さんは包丁を大切にし、魚を大切にするっていうのと同じでですね、ところがお寿司屋さんは握るだけでいいと、こういう風なのが現代契約論なんですね。





もう一つは、もう少し深い意味がありまして、研究っていうのは未知のものに挑戦するので、非常に心が乱れるんですよ。できるかどうか。こんな事やってて大丈夫か。といつも不安なんですね。その心を克服する為にはですね、昔だったら、水垢離であり荒修行、それから身の回りのものに対する愛着なんですね。自分が材料を準備し、苦労して実験器具を整備した。だからこの研究はなんとか成功させるんだという、人間の頭と心の一体化が必要なんですね。その第一歩が学生に教えている片付けなんですね。





だけども、これは私たちの方が悪いような気もするんです。教育側がですね、弁護士が悪いんじゃなくて。まあ、それを明示もしてないんですよ「学校がどういう事を教育するか」ということをちゃんと書いてないんですね。





えーとまあ、今度の体罰の事でもですね、「体罰をする」という事だけ注目されてますが、いったい高等学校の教育というのはなんなんだ?ということがよく議論されない事の方が問題なんですね。もともと教育の目的っていうのは学力とかスポーツの能力を高める事ではないんですよ。みんなそう思ってますけどね、ほとんどの人は。人間の力を上げるものなんですね。





その手段として、授業をしたり、実験したり、バスケットボールしたりするんですね。これはあの、個人によってそうじゃないんだと。学校っていうのは算数ができたり、法律を知る為なんだって言う人もいるでしょう。だけども、それは国民のコンセンサスではないんです。日本のコンセンサスではないんですね。それは私がここでいつも言ってる教育法第一条(教育の目的)というものを見ればわかるわけですね。





「教育は人格の完成を目指し、平和的な国家、及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に満ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。」と書いてあって、ここにはですね、算数が出来る事とか、スポーツが得意な事とは一個もありません。ていうことは教育自身はですね、勉強とかスポーツを通じて、真理と正義を愛したり、相手の価値を尊んだりですね、勤労とか責任を重んじる、そういう人を造るというための手段なんですね。





スポーツが得意になる事が目的ではないんです。頭が良くなる事が目的ではないんですね。人間として立派になる為の手段なんですよ。今度の体罰の問題ですね。自殺の問題。これはどういうことなのか?っていうことですね。





今度の事はスポーツでしたけれども、スポーツがうまくなる事が、インターハイに出て優勝する事が目的ではないんです。それだったら高等学校じゃなくて、スポーツクラブでやらなきゃいけないんです。スポーツクラブは別に人格の形成なんて言ってませんからね。もちろんそれも副次的にはありますけれど、基本的には優勝する事という、そういうことですからね。





学校でやるスポーツというのは人格形成なんですね。私が教えてる物理も、物理を教えてる様に見えて、それは物理が出来る様になりますけどね、基本は真理と正義を愛する事。これを教えてるわけですね。物理を通じて真理を教える。真実とはこういうものなんだ。これを愛さなければいけないんだ。ということが学生本人がわかる為に私は物理を教えてるわけですね。





じゃあ今度の体罰の問題。体罰をする事によって、先生は何をしようとしたのか?スポーツを強くしようとしたのか。それともその本人が心を克服しないとダメだと思ったのか。そこですね。まあ、先回もお話しした様に、この例は特別な例で、特殊な例ですからね。この例をあんまり追求しちゃいけないんですね。

つまり、今度の自殺問題を境に教訓にしてですね、高等学校におけるスポーツを鍛える時には、先生がまったく体罰というものなしで出来るのか。





例えば私が実験器具を片付けさせるっていうのはこれ、体罰なんですよ。実際は、弁護士から言うと。「それは先生、体罰だよ」と。実験だけが学生がやる事じゃないか。と。実験して後片付けしないで紙くずは散らばってる、薬品はこぼれてる状態で学生は帰ってしまう。そのあと掃除のおばさんがそれを掃除するのが正しいと弁護士は言います。それは体罰なんだ。





しかし後片付けさせるのが体罰なんだって言いますとね、非常に教育との関係は難しいですね。それは真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじる人材を造る事になるのか。そこにですね、現代日本教育の一番深い検討しなければならない問題があります。





先回言いましたように、今回の問題を特殊な問題として捉えですね、ある程度は自殺という問題が起きたんだから、多少の罰は仕方ないんですけど、それとは別にですね、私たちがこの事件の背後に、何があるのか。ここではですね、まずは教育の目的、それから心と頭、さらには後片付けというのは体罰かとそういうようなことも私たちは考えなければいけない。





だから、体罰が一律に悪いというもんじゃないんですね。体罰の程度問題なのかもしれません。それでは、体罰がいけないと今テレビなんかで言ってますが、体罰がいけないんではなくて、体罰の種類が悪いとか、程度が悪いということであって、実験器具の後片付けをさせるのは体罰ではないと決めてくれないとですね、これは(今の状態では)体罰ですから明らかに。





ですからそこのところを、まあ、いっぱいあるんですね。遅れた学生を教室の後ろに立たせる。これも体罰か。騒いでる学生を教室の外へ出す。体罰か。忘れ物をしたのを取りに帰らせる。これは体罰なのか。えー、手をかけるという事以外は体罰ではないのか、そこらへんもですね、このブログで検討していきたいと思っています。


(文字起こし by まさんちゅ)