体罰孝(4)学校と家庭(安心して任せられる学校とは) | お手伝いさんたちのブログ

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中部大学 武田邦彦先生のブログの中で、音声収録のみのものをテキスト化して掲載しています。
テキスト化及び掲載にあたっては先生から許可を頂いています。

体罰孝(4)学校と家庭(安心して任せられる学校とは) (1/12)




体罰やイジメで自殺したり、引きこもりになったりする生徒や学生がでるたびに、「学校は何をやっているのだ!」というバッシングが始まり、教育委員会が頭を下げるという光景が続いている.



一方、学校現場では、教室で生徒や学生に接しているだけだから、友達関係などには十分に気をつけられないという先生も多く、また最近では「個人情報保護」という観点から、生徒や学生の家庭や個人的なことを聞くこともできない。



もともと、児童生徒、学生を全人格的に指導するということになると、家庭環境、友達関係、趣味など広範囲に知る必要があるが、今では「親の職業」はもとより「兄弟がいるか」も聞くことができない。そうなると「何か悩んでいる様子はあるけれど、相談する人がいるのかな」と思ってもそれを知ることすらできない。



ここで私は「学校を防御する」という意図はもっていない。「悲惨な子どもが二度と再びでないように」ということを考えると、「事実を良く知る」ことが大切であり、「異論を認めて考える」ことも必要と思っているからだ. 今の報道や有識者のコメントは方向が違うように感じられる.



まず、学校とは何をするところか? 教育基本法では「社会人として人格高潔な人を育てる」となっているが、社会は学校に「勉強やスポーツができるようにして欲しい」と期待している.もともと何を目的にして教育しているのかがハッキリしない。



ゆとりの教育が批判されたのだから、今の日本社会は「学校で勉強させてください」ということだ。それなら、授業中に私語をしていて講義を聴かない生徒は保護者に手紙をつけて返すことになる。「あなたのお子さんは、勉強する気が無いようなので、勉強する気にさせてから学校に出してください」という手紙だ.



日本の法律によると、児童生徒は「保護者」がいて、保護者がその子どもに気を配ることになっている。40人学級でも先生一人に子ども40人、それに中学校からは学科単位で先生が替わる。



これに対して親はせいぜい2人か3人で、毎日、子どもの様子を見ることができる。だから、当たり前のことだけれど、親も「子どもの成長や幸福」に強い関心を持ち、もしそれが脅かされるようなことがあれば身を挺して子どもを守り、もし子どもがやるべき事をやらなければ、叱ってでもさせなければならない。



社会もそうだ。かつてよく言われたが、日本の電車の中で子どもが大騒ぎしていても他人は知らない顔をしているが、先進国では公衆道徳を守らない子どもに対して、他人でも厳しく叱る。社会が共通して教育をしなければならないという意識がある。



「社会が子どもを育てる」と言って民主党は「子育て資金」(ウソだった)を提案したが、お金の前に、まずは精神的なこと、教育的なことに関する社会的合意が必要なことは言うまでも無い.



やはり子どもの教育は、第一に家庭、第二に学校、そして第三に社会で、すべての大人が「未来の日本のために」と考えて、バッシングを止めることだろう. 子どもはまだ成長途中だから、その教育はとても難しい. その困難を学校だけに任せても成功はしないだろう.



先回「フランス流」を説明したけれど、文科省の指導や、教育委員会、ましてや自治体の関与をさて、先生の待遇を上げて先生自体によく考えてもらうことが大切だ.日本の小学校から高等学校までの先生は、その学問的力、人格、思考力からいって社会より高いと私は思う.その人に子どもの教育を考えていただいた方が子どものためになると私は思う.



このシリーズで、学校教育法第11条の体罰規定と文科省の役人の指導について言及しないのは、私が考える教育と違うからである。



そのためには一にも二にも、先生の待遇を高め、子どもに先生を尊敬させ、具体的な教育方法(体罰の無い教育はあるのかなど)について、十分な検討をする時間を先生がとれるようにしなければならない。結局、私たちの希望は子どもの成長だから.



日本人は子どもの幸福を考えているのだろうか? と良く思うことがある。福島では大人は1年2ミリ、子どもは1年20ミリ. 原発廃棄物は大人が処理せず、子どもの時代にパンクする. エコポイントを欲しがり会社がダメになる。赤字を出して税金をもらいツケを子どもにつける. 外国に工場を作り日本の子どもの就職先がない・・・・そして教育も同じように私には見える.


(平成25年1月12日)





--------ここから音声内容--------





体罰考っていうのを少しやろうと思いましてですね、続くかなと思いましたが、4回目までいきました。えー、体罰やいじめで自殺をしたり、引きこもりになったりする生徒とか、児童、学生が発生するたびに、テレビを中心として学校は何をやってるんだ!というバッシングが始まりまして、そのうち教育委員会が頭を下げるという。そういう光景が、ここの所ずっと続いておりますね。





ところが学校現場ではそれに対して、それほど納得してるわけじゃないんですね。教室で生徒や学生に接している先生はですね、友達関係なんかは充分に気をつけられないわけなんですよ。えーと、今度の事件の様に、まあスポーツクラブを一生懸命やってる先生は、個人個人の事をよく知っておられますけどね。そういう人が、まあ、バッシングを受けるという。逆の現象になってるんですね。





えー、また最近では個人情報保護というのがありましてですね、非常に難しいんですね。私なんかは本当に困ってるんですよ。学生っていうのはやっぱり子どもですからね。私なんかは(大学の)学生なんで簡単なんですけどね。中学校・高等学校の先生は本当に大変なんですが、えー、やっぱり学生が心配になる事があるんですよ。(個人情報保護の関係で)親の職業聞けないですしね。昼間は親何してるの?なんて聞けませんし、それから悩んでる様子を見ても、兄弟がいるのか、友達とどういう関係かとかやっぱりこれも聞いちゃダメなんですよね。要するに学校は今、勉強だけさせてる以外に手の出しようが無いんですよね。起られちゃうんですよ、そんなこと聞くと。





で、どこまでが個人情報保護なのかも、わかんないんですよね。つまり、個人情報保護っていうのは社会人対社会人の事ですからね。だから、子どもに対してどうかってことは、幼稚園児の人に、「今日お母さんいつ迎えにくるの?」、「個人情報保護ですから。」なんて言われたらですね。保育園なんかやってられないかもしれないですね。だからそこらへんもものすごく「曖昧な日本」なんですよね。曖昧な日本には曖昧な日本のいいところがあるんですけどね、ちょっと極端かなと思いますね。





もちろん、児童・生徒・学生を全人格的に指導するならですね、やっぱり、家庭環境・友達関係・趣味など広範囲に知る必要があるんですよ。これはもう仕方が無い事ですね。人間ですから。そういうものを切り離して、個人的な悩みを指導するなんてことは出来ないんですよ。で、こういう風に言いますとですね、必ずバッシングを受けるんですよ、また。「武田は学校にいるから、学校を保護するのか?」、一回放送で言われた事があるんですよ。「そんな事言うのは、武田先生が指導をさぼっているからじゃないか?」いや、そんなことないんですよ、そんなケチな話しじゃないんですけどね。





子ども達を守るのが僕らの最終目的であって、その為には事実を知るっていう事と、で、「そこまで先生は出来ないんだけど」って言ってる先生の声にも耳を傾けないとですね、ダメなんです。その点ではですね、今の報道は学校側だけをバッシングしたり、生徒を甘やかせればいいんだと、子どもは判断力があるんだ、やんちゃもしないんだと。子どもじゃないんだっていうコメントを言う評論家も多いんですけど、ちょっと納得できませんね。





えーと、教育基本法は違うんですけども、ゆとりの教育が批判されてるなら、今の社会は学校で勉強させてくださいと言ってるんですよ。それならですね、授業中に私語をしてて、講義を聴かない学生とか生徒はですね、保護者に手紙をつけて帰してですね、「あなたのお子さんは勉強する気が無いんですから、勉強する気になってから学校に出してください」という手紙をつけて出すのが道理ですね。





私語をですね、先生が注意したり、襟をつまんで出そうとするから問題が起きるんであって、そういう生徒を学校に来させる親が問題っちゃ問題なんですね。まあ、義務教育の時はどうするかって言う問題ももうひとつあるんですけれども、それも議論しなくちゃいけませんね。なんたって、子どもの保護者っていうのは親ですからね、普通は。まあ、保護者が親じゃない時もありますが。





だから、保護者がですね、保護者として気を配ってくれないとですね、学校で40人ですよね、小学校とか中学校とか。それに対して(先生は)一人ですから。親は2・3人の子どもですからね。大学になんかになりますともっと多いですからね。まあ、学生の私生活にまで入っていくっていうことは普通しないんですね。学生も嫌がりますし。





で、親御さんの場合、自分が親ですし、2・3人の子どもを見るわけですから、接触頻度も高いですしね、やっぱり子どもの成長とか幸福は親が第一の関心を持っていただいてですね、ちょっとおかしいなと思ったら、学校に文句を言うとかじゃなくて、学校と共に考えるということじゃないと、ダメだと思うんですよね。





で、社会もやっぱりそうなんですよ。まあ、電車の中でよく暴れてる子どもが居ましてね、それをよく私なんか注意すると、親がですね、こっちに文句言ったりするんです。これはまあ、日本的でもあるんで当然かもしれませんが、まあ、先進国であんまりそういう事ないですね。社会が子どもを教育するという面も持っているということですね。





それはあの、民主党がですね、社会が子どもを育てるって言って子育て資金、まあこれ嘘だったんですけど、お金を出すよ。ってお金を出す前にですね、まず社会が子どもを教育するのかどうかっていう議論を日本ではしておかなければいけないっていうことですよね。まだ社会的合意になっておりません。私が他人の子どもに注意をすると必ず親は嫌な顔をします。ていうことは、親が子どもを教育するんだって思ってるってことですね。で、その親がですね。教育をしてないんですよ。実は。





えー、やっぱりですね、子どもの教育は第一に家庭ですね。特に家庭では全人格的な事。そういうことを教育していただき、第二に学校ですね。学校も人格的な事をやる方が僕はいいと思いますが、今はやや社会は(学校に求めているのは)勉強とかスポーツですよね。そして第三に社会。それぞれ、家庭では人格教育とか、成長の為の考え方とかそういうことをやり、学校では、主には勉強とかスポーツをやり、今の現状ではね。それから社会では公衆道徳に反している子どもをちゃんと直すと。すべての大人がですね、未来の日本の為に個別のバッシングをやるんではなくて、やっぱり子ども達の為に考えると。





えー子どもの教育は非常に難しいんですね。ですから、この困難を学校だけにかぶせるっていう今のやり方では決して良くなりません。私はそう思います。

まあ、先回フランス流っていうのを説明しましたけれども、文部省の指導とか、教育委員会、ましてや自治体なんかが書いてんじゃなくて、むしろ先生の待遇を上げて、先生自身によく考えてもらう事ですね。





私は毎年、小学校から高等学校までの先生の再教育ってのを担当しておりまして、やってですね、レポートを書いていただきますと本当に驚くべきほどレベル高いんですよ。先生方のですね。教諭と呼ばれる方々ですね。非常に高いですね。学力もいいし、考え方もいいし、誠実ですね。だけども何が問題かっていうと、やっぱりあまりに痛めつけられてて、個人では抵抗できないんですよ。先生方そんなに強いわけじゃありません。校長先生の査定もあればですね、いろんな締め付けもありますからね。ですから、先生方一人一人が、社会全体の悪というか、教育の間違いに立ち向かうって言う事はちょっと難しいんですよ。だけど、レベルは非常に高いんです。





私は、日本人が今の小学校から高等学校までの先生を信じていいと思いますね。先生は立派ですよ。やっぱり、尊敬し立派だと。そりゃあ、100人に2・3人ちょっとどうかなと思う人はいますけどね、それはまあ仕方ない事で。その先生方がさらによくなるように、サポートするって事じゃないでしょうかね。私はむしろそう思います。





やっぱり、あの、昔に返るようで反論のある人も居るでしょうけれど、やっぱり自分の子どもが悪い事したら、親が学校に行ってすいませんでしたと。「よく私の方も教育しますので、先生の方もこういう点よくお願いします」とそんなような形がですね、やっぱり、望ましいんじゃないかと思うんですよね。





特に健康状態とか、心の問題は学校はちょっとね、全部はカバーできないんですよ。現実的に青い顔して、教室で倒れたら保健室でちょっと休ませておくってことぐらいはできますけどね、親のようにですね、今日の顔色見てなんかおかしいなと思ったら、なにかしてやるっていうような事はやっぱりですね、学校の先生に期待するのは無理なんですよ。





私なんか大学でもそういう事あるんですよ、この子大丈夫かな?って思う事あるんですね。その子がどういう下宿に住んでて、どういうものを食べて、親との関係がどうだかわかりませんからね。判断の材料に乏しいんですよ。だからまあ、ぜんぶ寄宿舎になって、アメリカはけっこう寄宿舎が多いんですけどね。全寮制で寮長が見るというのであれば、ある程度は見れるんですね。





だから私はこのシリーズで何回か繰り返す事に結局なっちゃったんですけど、先生の待遇を高めて、子どもに先生を尊敬させて、これは親が言わなきゃいけませんからね、親の態度に拠りますから。それから具体的な教育方法についてはですね、例えば「体罰の無い教育はあり得るのか」なんていう、基本的な事はですね、先生に時間があって充分に検討しないとですね、ダメですね。





この前ある小学校で、先生方に対する講演をしたんですけれども、それはもう立派でしたよ。聞く態度から、もちろん当たり前ですけど先生ですから、ご質問から、そのあとの自由な話し合いから本当に立派でしたね。だから、あの、小学校、中学校、高等学校までの先生は立派なんですよ。非常に立派なんですね。





それに対する私たちの確信がいりますね。もちろん日本中には何万という先生がおられますから、中には特殊な例があります。特殊な例を少なくする為には、良い先生を持ち上げるっていうことですね。マスコミに時々出て、もてはやされているいる先生がおられますが、本当に立派な教育をしている先生をマスコミが取り上げた事ありますかね。非常に褒めて立派な生徒、もしくは本当にグレてダメだった生徒を何とか立ち直らせた。そういう人をマスコミが偉いと。よくやってくれたということがあるんですかね。私の言う芋づる方式。やっぱり立派な先生を褒める。待遇するということが全体としてはいいんではないかと思うんですね。





こういうことを話していると言いたくなっちゃうんですけど、福島では(作業員)大人1ミリの被曝だけど、子どもは20ミリの被曝。原発の廃棄物はもう130万本になってるのに、大人は危険だからって処理しないで、子どもに任せようとしている。ま、エコポイントなんかを出してですね、それを、欲しがるお金を欲しがると。そして会社もダメになる。えー、国家は赤字を出してですね、税金をもらいたいからみんなに払い、つけは子どもにつける。工場は外国に造って、日本の子ども達の就職先が無い。教育も先生方はバッシングして、親は知らない顔をする。





なにかですね、私は、共通点がある様に思いますね。自分は正しいんだって言うことは簡単ですけれども、ほんとうにそうなのかと、私たちは親として子ども達への責任を果たしているのかと。もったいないって言ってどんどんどんどん、日本の国の力が下がってきましてね、今から38年後、今年生まれた人が38歳になる時には、中国との力の差は10倍になって、日本は(中国と比べて)10分の1の国になって、沖縄を守れるのか、九州は守れるのかわからないような状態で今進んでおります。





これは教育でもやっぱりそうなんですね、教育は非常に大切ですので、やっぱり教育をする小学校から中学校・高等学校までの先生の待遇をあげて、立派な先生を表彰したり、給料を上げて、時間をゆったり使って、教育の事も検討してもらう事にして、そして私たちの子ども達がいい教育を受ける様にすると。こういう前向きの行動を、思考・態度を我々は取るべきではないかと私は思います。


(文字起こし by まさんちゅ)