訪問日:2023年2月18日

所在地:東京都西多摩郡檜原村浅間嶺

訪問人数:登山家の先輩と私の計2名

 

参考文献:『多摩丘陵の古城址』、『東京都の中世城館』

 

浅間嶺は、武田軍の侵攻に備えて北条氏が構築した烽火ネットワークの中継地点。ここ浅間嶺は大菩薩峠からの烽火を受け、古城山(檜原城の出城)へ烽火を伝達する役目を担っていました。

 

 

浅間嶺は山頂が標高903mであり、払沢の滝パーキングからの比高差は605mとなります。浅間嶺は中世には軍道としても機能しており、現代では多くの登山客が訪れる山でもあります。

 

登山道には茶屋が立ち並ぶが、ここ最近は営業している雰囲気はない。

 

 

 

 

途中、見晴らしが良い場所がありますが、崖道のうえ凍結してて怖かったです。滑りやすい場所恐怖症の私にはなかなかスリリングな場所でした。

 

浅間嶺展望台の直前で怪しい平場がありましたが、城郭遺構とは関係がなさそうです。

 

浅間尾根休憩所に到着。多くのハイカーさんがここで休憩していました。この休憩所の上が展望台です。

 

展望所へ行く前に浅間嶺のピークに立ち寄りました。浅間嶺のピークは展望台ではなく休憩所の西側の尾根です。これはピークの手前にある冨士浅間大神。

 

浅間嶺のピークに到着。『東京都の中世城館』ではここを烽火台跡としていますが、ちょっと手狭な気がしました。

 

ピークを後にし展望台に向かいます。展望台でも多くのハイカーさん達が寛いでいました。我々も展望台で昼食をとりました。

 

昼食後に展望台の東側を散策しました。

あくまで私の感覚となりますが、展望台東側の平場が烽火台だと思いました。烽火スペースの他に駐屯兵が駐屯するためのスペースもあります。

 

烽火台と思われる平場

 

駐屯スペース。奥の高台が烽火台。

 

烽火台から水根の城山方面を望みます。秩父方面からの武田軍の侵攻を監視するために、水根の城山も烽火ネットワークの一拠点かと思いましたが、浅間嶺からは距離があまりにも離れており、視力がよほど良くないと烽火を目視することは不可能だと思いました。水根には別の役割があったのかもしれません。

 

烽火台を探索した後に払沢の滝パーキングを目指して下山しました。

 

浅間嶺は烽火台のため、堀切や土塁などの一般的な城郭遺構はありませんが、烽火台から当時の駐屯兵になったつもりで山々の景色を楽しむのも楽しいのではないでしょうか。

 

以上、浅間嶺烽火台でした。

訪問日:2023年2月4日

所在地:東京都青梅市成木7

訪問人数:城友さん4名と私の計5名

 

参考文献:『資料青梅市の中世城館跡』

 

歴史

不詳。何某かの家臣団の屋敷跡の可能性があり、その末裔が明治初年まで住んでいたとされる。屋敷は人里離れた山間部にあるため、その何某は山で生業を営んでいた人なのか、あるいは何らかの事情により、家臣団を引き連れて隠れ住まわなければならなかった人なのかは不明である。

 

常盤屋敷の位置。黒山の麓、標高647m地点に位置しており、現在は林道が開通しておりますが、民家はなく完全に山間に構えた屋敷となります。

 

常盤屋敷の概要図

成木川の南側に平場を設け、南北の長さ中心部で70m程度。

 

 

北側の塁壁

 

東側に薄らと虎口と思しき地形がありました。

 

西側に進むにつれて段々地形となる。

 

南側の塁壁。高さは5m程度。

 

 

屋敷内部には渓流が通る。

 

跡地より南方向に70m程登った場所に石積があるのですが、急登のため私は探索を諦めました。一緒に探索した城友さんが石積の場所とされる所まで登りましたが何もなかったとのことです。

 

人里離れた山中にある謎の屋敷ですが、跡地とされる場所は人為的に削平されており、何かしらの施設があったと思われます。石積を見ることができなかったのは残念ですが、この屋敷を訪問される方がいればその方に石積の発見を託したいです。

 

以上、常盤屋敷でした。

 

検索用ワード

常盤屋敷、常磐屋敷

訪問日:2022年12月29日

所在地:新潟県長岡市寺泊高内

訪問人数:城友さん1名と私の計2名

 

参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』

 

歴史・縄張

城主は新田一族である細谷馬之助であったと伝えられています。細谷馬之助は新田義貞に従い、各地で転戦しています。細谷馬之助が城主とのことですが、縄張は南北朝の頃のものではなく戦国期のものと思われます。城跡には郭、堀切、畝状阻塁が確認できます。

 

当日のルート

星印の場所から尾根に登り、城跡まで行きました。城跡へ向かう途中に林道があったので他に道があるのかもしれません。

 

星印の場所。ここをよじ登ります。

 

しばらく進むと小黒又治の碑があります。郷土に貢献した方なのでしょうか。

 

そして小黒又治の碑からさらに西に向かう南側の畝状施設が登場します。積雪のお陰で畝が綺麗に見えました。

 

畝を見つけると

テンションが上がって写真撮影が多めになってしまいますね。

 

畝を見た後に主郭へ向きます。主郭の切岸はなかなか立派です。

 

主郭内部は藪で見学が難しい。

 

主郭を見学した後は北側の畝状施設を見学。南側の畝状施設より北側の方が綺麗に見えました。

 

 

そして北東側の堀切。深さは3m程度。

 

堀切を見学して下山しました。

 

高内城は小規模な城ですが、小規模な割には防御が大袈裟なような気がしました。与板城の勢力圏の城だったのかもしれません。

 

以上、高内城でした。

訪問日:2022年12月29日

所在地:新潟県長岡市阿弥陀瀬字上ノ山

訪問人数:城友さん1名と私の計2名

 

参考文献:『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』

 

歴史

城暦は不明で在地領主の伝承もなし。地理的に与板城の支城として機能した可能性があります。

 

縄張

城は小規模であり、堀切、土塁、郭が残ります。また戊辰戦争時には城跡が台場として使用され、主郭(北側の郭)に台場と思われる地形も残ります。

 

当日のルート

星印の辺りから登りました。登山道はなく直登となりますが、急登は特になく比較的なだらかな幅広の尾根を進むだけとなります。

 

星印の場所。ここから登りました。雪がなかったらもっと簡単に登れたかも。。。

 

城址に到着。主郭北側に不自然な溝と土盛りがあります。戊辰戦争時の台場の跡でしょうか。

 

主郭東側の帯郭

 

主郭南側の堀切。深さは3m程度。

 

主郭の南側にある郭

 

南側郭の東側にある堀切

 

以上、阿弥陀瀬城でした。

訪問日:2022年11月12日

所在地:東京都西多摩郡奥多摩町水根

訪問人数:登山家の先輩と私の計2名

 

参考文献:『東京都の中世城館』

参考サイト:シリーズ東京の謎の城① 奥多摩に眠る天空の城―水根の城山

 

東京都の最果てにある水根の城山を訪問しました。水根の城山に関する情報はあまりにも少ないため、水根の城山がそもそも本当に城跡なのか議論が必要かと思いますが、実際にこの目で見て城郭遺構と思ったので城跡という前提で記述します。

 

水根の城山の位置はこちら。標高1490m地点のカラ沢の頭に城跡があります。

 

歴史
不詳。城跡の東側、標高1455m地点に「将門馬場」という平場がありますが、中世に青梅〜奥多摩地域を支配した三田氏が平将門の末裔を自称していたことから、三田氏関連の城かもしれません。

 

将門馬場

 

 

縄張

書籍に縄張図がないので現地で自作しました。

 

浄書しましたが、かなり雑です(汗)城の構造は至ってシンプルな連郭式。城跡の東側は断崖絶壁の岩場になっていますが、敵の侵入を防ぐために加工したと思われます。

 

そして城郭遺構です。

 

城跡の東側を望む。堀切を挟んで奥に櫓台と思しき高台があります。

 

北側の帯郭。

 

東側の堀切。北方向に向かって竪堀になって落ちます。

 

そしてその竪堀。

 

西側の堀切。

 

西側の堀切は深さ3m程度。

 

 それにしても何故これ程の高所に城があるのでしょうか。

・領主、領民の避難所、避難ルートの中継地点

・三田氏滅亡後に北条氏が八王子と鉢形を結ぶ緊急用のルートとして管理

・関所破り対策

 

などなど、色々と想像できるのですが真相は如何に!?

 

以上、水根の城山でした。


検索用ワード

水根の城山、カラ沢ノ頭

訪問日:2022年9月10日

所在地:神奈川県横須賀市猿島

訪問人数:単騎

 

参考サイト

横須賀市観光情報

ニッポン旅マガジン

 

猿島の場所

東京湾に浮かぶ、唯一の自然島。 面積は横浜スタジアムのグランドの約4倍。 三笠桟橋からの約10分の船旅で、気軽に訪れることができます。 

 

猿島

 

歴史

幕末の弘化4年(1847年)、内海防備を目的に、島頂部に大輪戸台場、島北部に亥ノ崎台場、島東部に卯ノ崎台場が設けられ、川越藩の松平家が防備しました。嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀に来航するよりも以前のことです。1846年(弘化3年)にジェームズ・ビドルが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が浦賀に来航し通商を求めたこともあり(この時は幕府は通商を拒否)、内海の入口である観音崎〜富津間では緊張が高まり、内海の入口にある猿島は国防の最要所の一つと注目され台場が築かれたと思います。

 

各台場跡の位置

 

各台場跡は現在、以下のようになっています。

 

大輪戸台場:展望台広場

亥ノ崎台場:猿島砲台跡

卯ノ崎台場:海浜展望台

 

 

大輪戸台場

現在は展望台広場になっています。台場跡地は島頂部ですが台場が築かれた際に削平されました。第二次世界大戦時には猿島高角砲台が設置されました。

 

台場跡地から三笠方面を望む。

 

 

亥ノ崎台場

第二次世界大戦時には高射砲が配備されました。

 

砲台の解説版

 

卯ノ崎台場

海浜展望台になっています。

 

台場跡の解説版

 

猿島砲台

川越藩の台場とは関係ありませんが、猿島の一番のスポットは明治17年に竣工した砲台ではないでしょうか。東京湾防衛のため西洋の築城技術を導入した東京湾要塞建設の最初期の砲台で、レンガで築かれています。
外部から要塞の施設がまったく見えないのは、森に覆われた無人島としてのカモフラージュのためとのことです。

 

 

 

以上、猿島の川越藩台場跡でした。

訪問日:2022年9月3日

所在地:茨城県桜川市羽鳥字りゅうがい

訪問人数:城友さん2名と私の計3名

 

参考サイト

余湖くんのホームページ

竜ヶ井城山の会

 

歴史
伝承では平将門の叔父にあたる平良兼の館跡と伝わる。将門記には、「弓袋山の対陣」で将門は良兼を攻め、良兼のいた羽鳥地区周辺を焼き払ったという話が残されている。

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リュウガイ城が平良兼の館だったと裏付ける資料はなく、あくまで伝承のみです。実際に城址を見学したところ、戦国時代の山城だと思いました。リュウガイ城のすぐ北側には真壁城があり、真壁氏関連の山城かもしれません。

 

縄張

比高差90mの地点に築かれています。構造は堀切と横堀で防御するという至ってシンプルなものです。

出典:余湖くんのホームページ

 

当日のルート

二十三夜供養塔から登りました。ここから登ると多賀神社に到着します。

 

多賀神社に到着。比高差90mの山城ですが、登りがキツイのはここまで。写真を撮り忘れましたが、ここからさらに愛宕社へ行き、愛宕社から尾根道に入ります。

 

尾根道はかなりなだらかであり移動が楽です。途中、移動を阻む藪などは殆どありません。尾根道の西側に通路のような窪みがあったのですが、これはなんでしょうか。街道の跡、それとも土を採取した痕?

 

尾根道には人が加工したであろう巨石が転がっていました。山は採石場としても利用されていたのでしょうか。

 

愛宕社から移動すること約15分、「竜ヶ井城跡」の札が登場しました。バイクが立入禁止にされていますが、麓にモトクロスサーキットがあることと何か関係しているのでしょうか。

 

さらに進むと切通が登場します。ここからが本格的に城内です。

 

切通を通り抜けると郭北側の堀切が登場します。郭がの高さは3m程度。後ほど郭から堀底に降ります。

 

堀切から城址を南下すると横堀が登場します。草が綺麗に狩られていてとても見易いです。

 

郭側の高さは4m程度。

 

 

横堀を挟んで郭を望む。

 

そして郭内に入ります。郭の削平はとても甘く、そこまで念入りに普請された感じではありません。かなり急ピッチで作り、すぐに放棄されたのではないでしょうか。

 

郭の土塁。

 

郭から横堀を見下ろす。

 

最後に郭から北側の堀切に降りました。

 

 堀底を見学した後に下山しました。

 

城址は保存会の方々によって整備され、見学がとても容易です。ここまで綺麗に整備していただけるなんて本当に感謝です。

 

城址は平良兼館跡という伝承があるものの、城郭遺構を見るとやはり中世のものだと思いました。

 

以上、リュウガイ城でした。

訪問日:2022年6月5日

所在地:千葉県香取市油田

訪問人数:城友さん3名と私の計4名

 

参考サイト:余湖くんのホームページ

 

当城は未整備であり、城内は藪と倒木により見学が難儀です。見学の際はそれなりの装備で行くのが望ましいです。

 

余湖さんのHPで存在を知り、ずっと気になっていた城を訪問しました。 城友の皆様、当日は御同行いただきありがとうございました。

 

油田新城は縄張図を見るとなかなかの巨大城郭に見えることから、お城マニアさんの間ではさぞや有名なお城なのだろうと思い、下準備のためにネットで色々と調べようとしたところ余湖さんのHP以外に情報が全くない!人目に触れずに長いこと埋もれていた城跡ということに大変驚きました。

 

歴史
歴史不詳。私にはこの城の歴史について論理的に推察するほどの知識はないのでここでは記しません。参考サイトの余湖さんのHPにて、余湖さんが城の歴史について考察されているので詳細を知りたい方は参考サイトをご参照ください。

 

縄張

いかにも戦国時代の城という縄張です。そしてこの界隈ではあまり見かけない異質な感じの縄張りという印象です。特に3郭南側の横矢虎口が技巧的だと思いました。この界隈でこのような構造の虎口を持つ城は坂田城くらいしか思いつきません(津辺城にもあるそうです)。1〜2郭の間、3郭東側は歪な形状をしており、築城途中のままかと思いました。

出典:余湖くんのホームページ

 

当日のルート

城址の南側にグラウンドがあります。そしてグラウンドの奥に小屋があり、小屋の背後から城址に入ります。

 

グラウンド。奥に小屋が見える。

 

ここから突入。ここの藪を突っ切れば林道が登場します。それにしても前日が雨だったので藪漕ぎしたらびしょ濡れになりました…

 

林道を5分ほど歩くと3〜4郭を隔てる大堀切に到着します。なんと巨大な堀切でしょうか!高さは8〜9mあります。

 

堀底で自撮り

 

堀底を進み虎口を見たかったのですが、藪と倒木により横矢の構造が全く把握できませんでした。写真は虎口ですが藪で何が何だかです。

 

堀底から出て林道を更に進むと2〜3郭を隔てる堀切が登場します。ここの堀底から2郭によじ登ります。

 

2郭北側に土塁のような構造物がありました。縄張図にある2郭北側の歪な形をした物の一部と思われます。

 

ここから更に1郭に進もうとしましたが、怒涛の藪に阻まれ断念しました。

 

最後に大堀切をもう一度撮影

 

大堀切を見てグラウンドに戻りました。

 

本当はこの城で縄張図を作成したかったのですが、藪と倒木の影響で作成出来ませんでした。それにしてもこれ程の巨大な城跡が埋もれていたとはとても信じられません。今後、知名度が上がり整備が進むと嬉しいのですが、その時がくれば縄張図作成のために再訪したいです。また、この城の築城主体も気になるところです。坂田城とどことなく似ていることから井田氏関連の城跡とは思いますが真相はいかに。

 

以上、油田新城でした。

 

検索用キーワード

千葉県香取市、油田新城

 

訪問日:2021年10月23日

所在地:新潟県長岡市寺泊年友

訪問人数:ほむほむさん、余湖さん、私の計3名

 

参考文献:『日本城郭大系』、『新潟県中世城館跡等分布調査報告書』

参考サイト:余湖くんのホームページ

 

ずっと行きたかった年友城を遂に訪問することができました。当日はほむほむさんに城内を案内いただきました。

 

歴史

貞和年間(1345~1350)に幕府方の高越後守師泰の重臣長尾平太俊朝が築城し、観応年間(1350~1352)に仁木越後守義長が居城したと伝わります。後に小木ノ城城主の松本大学忠繁の嫡男である大炊介忠矩の居城となったと伝わります。

 

当日のルート

S地点より入城しました。車が通れるくらいの幅がある林道がありますが道はすぐに途切れます。途切れたら直登ですが、比高差が僅か50mなので簡単に登れます。

 

S地点

 

ここから突入

 

 

鳥瞰図

実際に見学したところ、「上の城」は耕作地と神社の跡のように見え本当に城址なのか疑問です。しかしそれを差し引いても東側の実城の部分はかなり広大な城域でした。そして登城口の場所は当時も大手だったのかもしれません。

出典:余湖くんのホームページ

 

登城口から城内へ進むとまず堀切が登場します。深さは3m程度。

 

さらに進むと堀切らしき遺構がもう一本登場します。写真だとなにがなんだか。。。

 

奥へ向かって進もうとするがブッシュが凄くてなかなか歩みが進まず。。。

 

鳥瞰図4の南にある帯郭群

 

鳥瞰図3の場所に到着するも草が伸び放題。しかしこの奥にL字型の大規模な土塁が横たわっているので頑張って歩みを進めます。

 

この切岸を乗り越えるとL字型土塁が登場します。

 

そしてL字型土塁に到着。ここまで長大かつ大規模な土塁はなかなかお目にかかれません。土塁の全長は約50m。

 

L字型土塁

 

L字型土塁を見たあとに土塁の南側にある堀切へ移動。切岸がかなり高い。

 

鳥瞰図2の南側の堀切

 

そしてL字型土塁西側にある大迫力の堀切。山が植林で利用されたせいか、堀底に木が一列に植えられています。

 

大堀切

 

大堀切を超えて更に西側へ向かって移動。削平された地形が整然と並んでおり、城郭遺構というよりも耕作地の跡に見えました。

 

削平された地形を超えると、物見台のような丘が見えてきました。「上の城」です。

 

丘を登ると塚があり、塚の周囲に土塁があります。この土塁は城郭遺構ではなく神社造成時のものでしょう。

 

この後、大堀切などをもう一度見て下山しました。

 

年友城は広大な城域を誇る城ですが、年友城の南西側の至近距離に夏戸城という、これまた広大な城域を誇る城があります。同じ地域に巨大な城が二つ、この二つの城の関係性が気になりますが、現時点ではその関係性を示す文献などは見当たりません。いつか明らかになる日が来ることを期待しています。

 

それにしても念願の年友城を見学できて大満足でした。城内は藪ですが、城郭遺構が大変素晴らしく見応えがあります。寺泊界隈でお城見学をする機会があれば、夏戸城とセットで見学いただきたい城です。

 

以上、年友城でした。

 

ほむほむさん、余湖さん、Thanks a lot !!!

 

検索用キーワード

新潟県長岡市、年友城

訪問日:2021年8月12日

所在地:新潟県新発田市竹ケ花

訪問人数:単騎

 

参考サイト:古城址狂が行く!

 

城址の場所

新発田城の南西、池ノ端城の北東方向にあります。新発田重家の乱に際して上杉景勝からの攻撃に備えて新発田城の周囲に砦が築かれましたが、位置的にみて竹ヶ花城はその砦の一つかもしれません。

 

城址の位置を拡大。中央の茂みが城址です。湿地帯で囲まれており島のようになっています。

 

城址には道路が貫通しています。

 

道路北側の茂みの中に突入!

 

茂みの奥に塹壕のような窪みがありました。城郭遺構には見えないし用水路の跡でしょうか。

 

そして窪みの隣に堀状の地形がありました。幅は3m程度、深さはかなりささやかです。一応、東方向に面していることから城と陸地を結ぶ地点にあり、城内への侵入を阻む役割があることから城郭遺構のような気もしますが、深さがちょっと浅すぎる気がします。

 

堀状の地形

 

以上、竹ヶ花城でした。

 

検索用キーワード

竹ケ花城、竹ケ花砦、竹ケ花古戦場、竹ヶ花古戦場、新発田市