日本音楽の伝説

日本音楽の伝説

六国史、枕草子、源氏物語、十訓抄、古事談などの日本の古典から、雅楽をはじめ、音楽にまつわる伝説・伝承をピックアップ!

NHKの大河ドラマ「光る君へ」では、いよいよ主人公のまひろ(紫式部)が『源氏物語』の執筆に取り掛かりました。『源氏物語』以降、源氏亜流と呼ばれる王朝文学が数多く生まれました。『狭衣物語』『夜の寝覚』『浜松中納言物語』などが有名です。その後、平安時代末期には、『とりかえばや物語』や藤原定家の『松浦宮物語』が執筆されました。

 

今回紹介する『有明の別れ』(在明の別)は、これら源氏亜流文学の様々な特徴をピックアップし、集大成したような作品です。著者は不明ですが、定家の『松浦宮物語』を引用していること、『古今集』にある「有明のつれなく見えし別れより、あかつきばかり憂きものはなし」という和歌について、定家が「歌人として生まれたからには一生に一度はこんな歌を詠んでみたい」と高く評価していることから、作者は、藤原定家の関係者ではないかと思います。

 

あらすじは、男装の麗人の右大将が、天皇に女性であることを見破られ、右大将の妹と偽って入内し、皇后となる物語です。兄と妹が入れ替わる『とりかえばや物語』にストーリーが似ていますが、『とりかえばや物語』の様に、トランス・ジェンダー的な性格から男装や女装をしていたわけではなく、父親が後継ぎに恵まれなかったことから、陰陽師らに相談し、祈祷によるお告げによって男装していたのです。

 

興味深いのは、主人公である右大将が、龍笛や笙、琵琶を演奏すると、天に稲妻が走り、芳香が漂うなどの奇跡が起きることです。先行する王朝文学の『狭衣物語』には、主人公が横笛を演奏すると、月から神霊が降臨するシーンがありますが、『有明の別れ』では、このような奇瑞のシーンが4回も登場します。奇瑞も少しずつ変化していくのが面白いところです。

 

最初は右大将が笛を吹くと、天に異変が起こり、芳香が漂うのですが、天皇との合奏で、笙を吹いた時も、やはり奇瑞が起きるのです。やがて息子の春宮(皇太子)が成人し、春宮が横笛を吹いた時も奇瑞が起きます。そして最後は、春宮と母の女院(右大将)が合奏した時、7人の天女が降臨するのです。

おそらく音楽こそが神霊と感応する手段であり、天のメロディでもある神霊のメッセージを受け取るシャーマンの資質は、音楽によって育まれ、次世代へ継承できることを示しているのでしょう。


『有明の別れ』の写本は、1952年に、伊勢松坂の豪商・小津桂窓(おづ けいそう)の西荘文庫から発見されました。小津桂窓は江戸時代後期の豪商でしたが、商売は息子に任せて、もっぱら珍書の収集に力を入れていました。彼は不思議な物語文学が好きだったようで、『南総里見八犬伝』を著した滝沢馬琴を財政的に支援していました。収集した書籍は、数万巻にのぼったといわれています。後に、西荘文庫の蔵書は市中に売却されたため、『有明の別れ』の写本をはじめ、多くは現在、天理図書館に所蔵されています。

 

今回は、大槻修先生の『有明の別れ-ある男装の姫君の物語』(全対訳日本古典新書、1979年創英社)(残念ながら絶版)を参考に、奇瑞が起きる4つのシーンを抜粋のうえ、加筆修正してご紹介しましょう。

 

(1)臨時客の宴で奇瑞を招く

左大臣の屋敷では、臨時客の宴が開かれ、琴などの演奏が始まりました。右大臣が、催馬楽の「安名尊」(あなとう)を歌い出しなさる声は、尽きることなく立派なものでした。左大将は、昔から琵琶に優れていらっしゃいましたが、今はつれない姫君の耳に「あれは左大将様の琵琶の音だわ」と思い出して下されとばかりに、普段から心配りして磨いておられた比類なき素晴らしい音色を奏でました。

 

しかし、主人の右大将の横笛の音色こそ、いつもより一層素晴らしく、雲居を響かすばかりの風情があり、しみじみと心をそそられるのを、その座にいた者達は一同、たえ切れず感動の涙をこぼしておられました。右大将は、ご自身の心に決心なさる理由があって、いまは今生の思い出にとばかりに、知られていない秘曲を残らず吹き立てなさると、他の楽器を奏する者たちは、皆、演奏をやめて、涙をぬぐっておられました。

 

雲の上の天上界でも、その感動にたえ切れなかったのでしょうか、限りなく晴れていた空が、にわかに曇って、随分と稲妻がきらめき、なんとも表現しようもない芳香が、あたり一面に吹き出したのです。父の左大臣もびっくり仰天、思わず立ち上がって、右大将の吹いている横笛を取り上げて隠してしまいました。

臨時客に参集の人々は、「随分と不思議な、あまりの奇瑞を見てしまったことよ」と、皆、まるで草木がしおれるように、ぐったりしておられました。この大変な出来事に興も覚め、左大臣は急いで内に入ってしまいなさったが、ただ参集の人々への品々の録や、大臣の贈り物などは、普段より一層のこと、贅を尽くしておられました。

 

(2)帝との合奏でも奇瑞

折からおぼろにかすむ春の月光に、天皇様の横笛(龍笛)の音は澄みのぼって、たとえようもない風情がありました。右大将は気持ちを抑えがたいほど興がわいて、本来、龍笛を持つべきところを、三位の中将が担当しておられる笙の笛に取り代えて、心ゆくまで吹き添えなさったのです。

その素晴らしい音色は、いま少し耳馴れず、珍しい心地がなさるので、天皇様も「これもまあ、なかなかの風趣な音色であることよ」と、あまりの素晴らしさに聞きほれていらっしゃいました。

 

澄み昇る月の光のもと、秘曲を求めて山に登っていったとかいう人、弁の少将(『松浦宮物語』の主人公)のことも、しみじみ思い出されて、同じことならば、天までも心騒ぐばかりと、右大将は、笛を吹き澄ましなさったのです。

 

すると、星々の光は輝き、月の光はさらに煌々と照り輝やき、空全体の光が、ぐっとこの地上に近づいてくる感じがしました。香ばしい風が御殿の上に満ち満ちて、白い雲がたなびきわたるので、天皇様も、随分そら恐ろしくなられて、あの臨時客の折、右大将の横笛を父左大臣が急いで取り隠しなさったとか、それを無理やり自分が吹くように要請したため、右大将も大層つらく、恨みも深いことであろうと、あまりに不思議な奇瑞に、急いで右大将の笛を取りやめなさったのでした。

 

百聞は一見に如かず。右大将の笛については、他人の口を通じて耳にしておられましたが、ものの数ではなかったことよ。今宵、天皇様ご自身がご覧になった奇瑞の物すごさに、あまりにもの珍しく、驚きなさって、「早晩、大納言に昇り得ることは当然、いやそのくらいのみならず、大臣の位も、この右大将の身にあまるはずはないけれども、世の末までも書き置くこともあろうため―」

と、天皇様はお考えになり、余りの昇進はともかくとして、右大将を権大納言の列に加えなさる旨の宣旨がございました。

 

(3)春宮の笛にも奇瑞

春宮様の美しさ、とりわけ今日は不思議なまでに、光を差し添えていらっしゃいました。

昔、櫛箱の中に隠しておられた御笛を、女院(右大将)ご自身が春宮様に教えて、伝えていらっしゃったのも、この日のためだったのでございましょう。

上皇様は、まだ在位のころ、ただ興味の湧きなさるまま、思うがままに、右大将に横笛を強要しなさったけれども、春宮様に対しては、さてどうしたものだろうか、万が一困った奇瑞が起きては、とそればかり考えなさって、とりあえず誦経をなさっておられました。

 

管絃の宴が始まり、関白殿が、昔から高名な琵琶をかきならされるにつけても、(思い出は、あの梅花の宴でのこと)、右大将が笙の笛を吹きなさった折にふれても、まずは亡きご子息内大臣のことを思い出されて、こっそりと涙をおし拭っておられました。

太政大臣は、過ぎし日々のことは、さっぱり忘れ果てていらっしゃいましたが、春宮様の素晴らしい横笛の音色に、右大将の面影を思い出した人々は、耐え切れずに、皆が皆、袖を涙でぬらしておられました。

 

さて女院は、昔の男装した右大将でいらっしゃったころを思い出されると、現在このように、女院として、錦の帳の中で、大切にかしずかれておられるお気持ちも、何か心に染まず、いっそ袖をうち返して帳台から出て、ともども宴に加わりたいとまでお思いでありました。

 

春宮様も、雅楽における血筋からでしょうか、同じく人々の耳も驚かさんばかりと、人の聞かぬ隙々をねらって、女院が一生懸命にお教えになった曲を、音の限りに吹き立てなさったところ、例によって、もの狂おしい夜なのでしょうか、三月十四日の月も随分おぼろでしたが、空が突然晴れ渡って、いいようもなく香ばしい風が、さっとあたり一面に吹き出したのです。この度もまた、上皇様を始めとして、一同皆、大層不思議なことと思ってお騒ぎなさったのでした。

 

(4)女院との合奏に、天女たちが降臨

御前の桜が散りまごう匂いまでも、ただ一つに吹き入れられて、感激する人たちの心は、ただもう我を忘れて、茫然とするばかりに雲の様子が変わって行き、月の光は、いよいよ煌々と照り輝いて、いろいろな楽器の音色、ただ同じ調べに吹き合わされる、空のかなたからすっと降りくる雲のかけはしが、遥かに見え隠れして、この世の出来事とは思えぬほどです。その実、まるで異郷の音楽のように、音色さえ変わってゆくのを、春宮様にとっては意にかなわれるのか、まったく誤つことなく吹き立てなさったところ、女院も誦経のことも今は分別つかず、大層もの悲しくお思いになって、御前の琵琶を手元に引き寄せられて、日ごろは手に触れることもない琵琶を、なんとお思いになられたのでしょうか、今宵の春宮様の調べに合わせて、繰り返し弾き澄ましなさったのでした。

 

女院の調べは、春宮様の笛の音とみごとに調和して、なんともたとえようのない素晴らしさです。その時、言い尽くせない珍しい衣装をこらした天女が七人、雲のかけはしから降臨されたのです。咲き誇る桜の、美しく散りまどうあたりに、たなびく雲を踏んで、一返り舞いを舞ったその袖が、風にひるがえるうちに、天女がまとう天つ領巾(あまつひれ)も吹き迷わされて、目を射るばかりの明るさです。天女たちのあでやかさといったら、言葉に尽くしようもありません。

 

春宮様は静かに、吹き澄まされる笛の音に添えて、

 

乙女子(おとめご)が 花の一枝とどめおけ

末の世までの 形見にもみむ

 

(天女たちよ、花の一枚だけでもとどめ置いて下さい、後世までの形見として、私は見つめ続けるでしょう)

 

とおっしゃったところ、耐え切れぬ想いからでしょうか、七人の天女のうちの一人が、花の一房を摘み取り、たなびく雲の上から降り来て、女院のいらっしゃる御簾(みす)のあたり、吹きまよう風に紛れて近づくと、女院の袖の上に、その花を差し上げたのです。

 

この世には いかがとどめむ君と我が

昔、手折りし 花の一枝

 

(この世に、どのようにして止めておきましょうか、この花の一枝を。昔、私とあなたが手折ったものでしたが―)

 

女院は、その花を手にされながら、ご自身の流れ出る琵琶の音色につけて、何か半分夢心地であられたのでしょうか、ただそこはかとなく、

 

花の香は わすれぬ袖にとどめおけ

なれし雲居に たちかへるまで

 

(かぐわしい花の香りを、昔を忘れ得ぬこの袖にとどめ置いて下さい。私が住みなれた、あの雲の果ての天上界に帰るまでは)

 

といわれるのを、天女は耳にするや、ほんの少し涙を押し拭って、そのまま天上界へ帰り上ってしまわれました。その折の風の香りが、御殿の内に満ち満ちて、名残に澄み渡った空の様子など、改めて言葉を尽くすのもおろかな風情でございました。

 

※ 天女の降臨は、天武天皇が吉野宮で七絃琴を弾いていた時、天女が降臨するのを見たという故事がルーツです。「五節舞」(ごせちのまい)の起源といわれる伝説です。

 

 

また、「7人の天女」というのは、おそらく初代・神武天皇が皇后を選ぶ時、三輪山の野原でユリの花を摘んで遊んでいた7人の乙女の中から、三輪の神の娘・五十鈴姫を選んだ故事に由来するのでしょう。

そうすると、「昔、手折りし 花の一枝」という和歌から、右大将の前世は、天武天皇か、神武天皇であることを示唆していることになります。

 

ちなみに、舞楽の「散手」(さんじゅ)は、槍を振るう勇壮な舞ですが、「散手」は、神武天皇の皇后となられた五十鈴姫の父親の率川明神(狭井大神、三輪大神の荒魂)のことで、神武天皇から900年後の神功皇后の三韓征伐の時に顕現された神姿を舞にしたものと言われています。

 

 

 

『松浦宮物語』(まつらのみやものがたり)は、あの藤原定家が、二十八歳ごろに著した物語と言われています。

 

藤原定家といえば、『新古今和歌集』や『小倉百人一首』の選者であり、歌人として有名ですが、『松浦宮物語』を読むと、藤原定家も若いころは、遣唐使の藤原貞敏の琵琶の伝承や『宇津保物語』をはじめ、雅楽や平安王朝物語文学を研究していたことがわかります。しかし、藤原定家がこんな音楽物語を著したとは意外です。

 

松浦宮物語』のあらすじは、主人公の弁少将・橘氏忠が遣唐使として唐の国に渡り、皇女の華陽公主(かようのみこ)から七絃琴の秘技を伝授され、その後、唐の内乱に巻き込まれた末、やっと日本に帰国するという物語です。七絃琴の秘技を伝承するストーリー展開は、『源氏物語』よりも古い『宇津保物語』に似ています。

 

松浦の宮というのは、一般的には、九州の松浦地方の総鎮守である鏡神社のことですが、ここは卑弥呼のモデルといわれる神功皇后(応神天皇の母)が神鏡を祀った神社です。しかし、『松浦宮物語』は、松浦地方とはあまり関係なく、主人公の母の明日香皇女が息子の帰国まで、松浦で唐の方角を眺め暮らしていたという設定から名付けられたといわれています。

 

さて、遣唐使として唐に渡った弁少将は、中秋の名月の夜、高楼で七絃琴を奏でる老翁に出会います。その老翁から、皇帝の妹の華陽公主から、七絃琴の奥義を授かるようにアドバイスを受け、七絃琴の秘技を悟得して帰国します。今回は、七絃琴の伝授の場面をご紹介しましょう。

(公主=皇女。「華陽」は四川省から雲南省にかけての地域)


『松浦宮物語』(新編 日本古典文学全集40)等を参考に加筆修正

 

弁少将は、何としても、この七絃琴の奥義を悟得したいと思いました。

弁少将が名前を名乗ると、「その名を訊ねて、その声を聞かぬ前より、汝に会うことは知っておった。汝は、日本の国に七絃琴の音を伝え広める使命をもって、父母の許を離れて唐に渡って来たのだよ。今夜、私に会うことは、宿命だったのだ。

私はこの唐で、七絃琴を弾いて七十三年になる。七絃琴のおかげで身に余る位を賜り、思いもしなかった栄華を誇る時もあった。逆に、七絃琴のために思いもしなかった悲しみに遭い、心に余る悲しみを知ることもあった。上柱国(正二位)、太子傅(皇太子の教育係)兼 河南尹(首都洛陽河南郡の長官)の司を賜ったが、年老いて身体も思うようにいかぬようになり、今や立居さえ不便で、病気を患い、司を返して隠居の身である。この楼で月を眺めて、もう四年になるだろうか。

秋の月、春の花の季節には、七絃琴を弾いて気を休めつつ余生を送っている。ところが、こんな私でも、七絃琴の奥義については、華陽公主と呼ばれる皇女には及ばないだろう。

 

汝は、華陽公主から七絃琴の秘技を伝承するのだ。華陽公主は八月と九月の頃は、決まって商山(中国の陝西省商県にある神山)に籠り、七絃琴を弾いておられる。公主は七絃琴を習って二十年、私より六十三年も足りぬが、女性でありながら前世に七絃琴を習い、悟りを得られて、七絃琴の秘技を仙人から伝授されたのだ。汝は都に帰り、必ず商山を訪ねよ。

もし秘技を得ようと思うならば、決して心を乱してはならぬ。公主の前では失礼にならぬよう、心して秘技を習われよ。このことを他人に話すなよ。唐の国は、広いようで狭い。融通が効くように見えてそうではない。

七絃琴の奥義を他の国の人に教えることは、国も赦してはおらぬ。私は世を遁れて年を経ておる上、仏道を習いすでに戒を保つ。空言の罪を恐れていない故に、この話を聞かせたのだ。

私は世に生を受けて八十年、余生はわずかなうえ、わが国には大乱が起こりそうだから、再会することは難しいだろう。今宵、汝と出会ったからには、来世にも必ず再会するだろう。私の申したことを忘れるでないぞ」と言って、楼の上に戻ると、自分が弾いていた七絃琴を取って、弁少将に授けました。

 

「これを持って、商山を訪ねよ。その音を習った後に、わが国で弾いてはならぬぞ」と返す返す申して、夜が明ける頃に老翁と別れました。弁少将は、訳もなく悲しく、帰る道すがら何度も振り返り、楼を見つめました。

 

弁少将は、日が暮れぬ前に急ぎ都を出て、老翁から聞いた商山の方角に向かいました。

駿馬をさらに速めて、夜中になろうとした時、同じように高い楼の上から、七絃琴の音が聴こえてきました。遥かに進んで行きましたが、道はとても遠いものでした。

 

そこには鏡の如く光り輝き、甍を並べた御殿が立ち並んでいましたが、屋数は少なく、質素な屋敷に七絃琴の主はいるようでした。

弁少将は、樹木を伝いながら楼を上って行くと、老人が言った通り、美しい玉のような女性が、ただ一人、七絃琴を弾いていました。心を乱してはならないと、老翁は言いましたが、弁少将は、女性を見たとたん言葉を失って、見馴れた舞姫の花のように美しい顔も、まるで土のように思われるのでした。日本にいた時、あれほど恋していた神奈備の皇女さえも、見比べると田舎っぽく思えるほど心は乱れました。

 

大げさにも見えるかんざし、髪を結い上げた顔付きも、違和感を覚えませんでした。

上品で親しみがあり、美しくてかわいらしく、ただ秋の月が雲なき空に浮かんでいるのを見るような気がして、弁少将は動揺を抑えながら、心に念じて華陽公主の七絃琴の音に集中しました。

 

すべての音が調和して、空に響き渡る様子は、今まで聴いたどの音よりも優れていました。言葉も出ないほど見事なものです。弁少将は、ただ夢路で聴くような気がしながらも、老翁から授けられた七絃琴を手にとって奏でると、華陽公主は調べを変え、曲の始めから、止めることなく最後まで奏でました。弁少将はこれを聴いて、華陽公主の七絃琴の音に合わせると、心も澄み渡り、奥義を悟り、やがて同じ音色を奏でることができました。華陽公主の手に合わせて、一緒になって七絃琴を奏でるうちに、弁少将はすっかり秘技を体得したのです。

 

夜が明けようとすると、華陽公主は、七絃琴をしまって戻ろうとしました。弁少将は、今までにないほど悲しくなりました。思わず涙がこぼれ落ちて、言いようもなくつらくて、公主を見つめていましたが、公主も嘆き悲しんでおられるようで、月をじっと眺めるかたはらめ(横顔)は、例えようもなく美しく見えました。文を詠み交わして別れる時、華陽公主が「残りの手は、九月の十三夜より五夜で残るところなく教えましょう」と申されました。

 

雲に吹く 風もおよばぬ 波路より

問ひこむ人は、空に知りにき

 

(雲井に吹く、あの風も通わぬ 遠い海の彼方より、

訪ねて来る人がいることは、何となく分かっていました。)

 

 

 

NHK大河ドラマ『光る君へ』の影響でしょうか、平安時代が注目されるようになってきました。今後、平安時代を題材にしたライトノベルや映画が流行るかもしれません。紫式部が『源氏物語』を執筆した後にも、「源氏亜流」と呼ばれる王朝物語がいくつも生まれました。

これら「源氏亜流」の王朝物語の中では、『狭衣物語』『夜の寝覚』『有明の別れ』などが有名です。『狭衣物語』はリンクを参照ください。そして今回は、『夜の寝覚』をご紹介しましょう。

 

 

 

『夜の寝覚』は、あの藤原定家が絶賛した物語小説です。著者は、『更級日記』を著した菅原孝標の女と言われています。

 

姉の許婿である男君の勘違いから、一夜の関係を持ってしまった主人公の寝覚の君(中の君)が、相思相愛にも関わらず、一緒になれない恋に苦しむ物語です。心理描写に優れ、現代小説にも通じるものがあります。

 

今回は、冒頭部分で、主人公が夢の中で、天人から琵琶の秘曲を教えてもらうシーンをご紹介しましょう。

現代でも、夢の中で、音楽のヒントを得るケースはいくつもあります。例えば、ビートルズの「Yesterday」は、ポール・マッカートニーが夢の中で聴いて、どこかで聴いて覚えていた曲だろうと思っていたそうです。しかし、誰に聴かせても、誰も知らない曲だったため、自分の曲としてリリースしたものだそうです。また、『更級日記』を読むと、著者の菅原孝標の女も、子供の頃、同じように夢に天人が現れた体験をしています。

 

 

 

『夜の寝覚』(現代語訳は、角川ソフィア文庫『夜の寝覚』から抜粋し加筆修正)

 

世の中の男女の仲について、今まで様々なケースを随分と見聞きしてきましたが、これからお話する、恋の苦しみで、夜中に目覚めてしまうほどの相思相愛の二人が、深い契りを結びながらも、悩み尽くすという例はめったにありません。

 

主人公の中の君の父である太政大臣は、妻と死別したあと、後妻を迎えるという気持ちもさらさら無く、四人の子供たちを迎え寄せて、ご自身の手で、子供たちを育てながら、男子には笛と漢詩文を習わせ、女子には、姉には琵琶を、妹の中の君には箏の琴をお教えになりましたが、お二人とも聡明で、みごとにお弾きになるのでした。

 

中でも、中の君はまだ十三歳ぐらいで、稚拙なのが当然の年ごろながら、父の太政大臣がお教えになるレベルを上回って、たった一度、曲を習っただけで、言いようもない優れた音色で箏をお弾きになるのでした。

父は「この子の優れた演奏は、今世だけの努力の成果ではあるまい。おそらく前世の因縁があるのだろう」と、中の君のことを、しみじみと愛しんでおりました。

 

中秋の名月の夜、中の君の夢に、たいそう優美で麗しい姿の、唐絵の人物のような姿の天人が、琵琶を持って現れました。そして、「あなたがお弾きになった箏の琴の音が、天上界まで響いてきたのです。わが琵琶の音を伝承すべき方は、地上には、あなたをおいて他にはいません。これも皆、前世からの約束事なのですよ。この秘曲をお弾き取りになり、天皇様にまでお伝え申し上げるほどに」と言って、天人が琵琶を教えてくれたのです。中の君はとても嬉しく思い、多くの曲を、あっという間に弾き覚えてしまいました。

「残りの曲で、地上に伝わっていないものがまだ五曲ありますが、来年の今晩、また降臨してお教えしましょう」と言って、姿を消してしまいました。

 

夢から覚めると、明け方になっていました。琵琶は、父も習わせていないもので、中の君は特に弾こうとは思わないのに、夢の中で、天人から習った曲の数々がたいそうはっきりと思い出されました。不思議に思い、琵琶を取ってお弾きになると、父の大臣がそれをお聴きになって、「これはいったい、なぜこんなに上手く弾けるようになったのか。なんとも不思議なことだ」と驚きました。しかし、中の君は、夢のことは恥ずかしくて、お話しできませんでした。不思議なことに、日ごろ習っている箏の琴よりも、夢の中で習った琵琶の方が、いささかも、つかえたりすることなく、まごつくような調べもなく、自然と思い出されるのでした。

 

一年後、その日は朝から雨が降り続いたため、中の君は「今宵は、月は出ないだろう」と残念に思いながら、一日中、物思いにふけりながら空を眺めて過ごしていました。しかし、夕方になると、風が吹いてきて、昨年よりも空が澄んで、月が明るく輝いたのです。

父の大臣は、宮中で詩会や管絃の御遊があるため不在で、大臣邸はとても静かでした。中の君は端近に出て、御簾を巻き上げ、宵のうちはいつものように箏の琴をお弾きになり、人々が寝静まり、夜が更けてしまってから、昨年、天人に教えられたとおりに、琵琶をありったけの音で、お弾きになったのでした。

 

それを聴いた姉君は、「中の君が、日ごろ弾いている箏の琴よりも、この琵琶の音の方が優れて聴こえますよ。琵琶は以前から、特別に父が私に教えてくださっているけれど、いつもたどたどしく、上手に弾けないでいるというのに、中の君の音色は、驚くほどだこと」と、驚いていました。

 

おやすみになると、昨年と同じ天人が夢に現れて「お教えした以上に、素晴らしい琵琶の音ですこと。これを聴いてわかる人は、地上には、とてもおられないでしょう」と言って、残りの曲あと五つを弾き教えてくれました。

そして、「ああ、残念なことよ。これほどの方なのに、ひどく悩み、心を乱さねばならぬ因縁がおありになるとは・・・」と言って、天上界へ帰っていかれるのを夢でご覧になりました。

 

目が覚めて教えられた曲を弾いてみると、まったく滞ることなく弾けるです。自分でも不思議なことと驚き、思い余って、姉君に、「夢の中で、琵琶を教えてもらったのです」とだけ伝えましたが、それ以上は、お話しになれませんでした。

 

翌年の十五夜に、中の君は月を眺めて、箏や琵琶を弾きながら、格子も開けたまま床に就きましたが、夢に天人が現れることは、もうありませんでした。中の君が目覚めると、月が明け方の空にかかっていました。悲しく残念に思って、琵琶を引き寄せて、天人に教えてもらった曲を弾きました。

 

天の原

雲の通ひ路 とぢてけり

月の都の 人も問ひ来ず

 

夜明けの風に合わせて弾く琵琶の音が、言いようも無く素晴らしいため、父の太政大臣も驚いて眼を覚まし、「珍しいほどに、不吉で愛おしい」と、娘の演奏を聴いておりました。

 

 

NHK大河ドラマ『光る君へ』には、主人公のまひろ(紫式部)をはじめ、清少納言や赤染衛門など、平安文学の中核を成した女性作家たちが登場します。彼女たちの文学性を育んだ文学は、どのようなものだったのでしょうか。清少納言の『枕草子』(201段)には、彼女のお気に入りの物語が記載されています。

 

物語は、住吉。宇津保。殿うつり。国譲りはにくし。

埋れ木。月待つ女。梅壺の大将。道心すすむる。松が枝。こまのの物語は、古蝙蝠(ふるこうもり)(扇子)さがし出でて、持て行きしが、をかしきなり。ものうらやみの中将、宰相に子うませて形見の衣など乞ひたるぞ、にくき。交野(かたの)の少将。

 

物語と言えば、まず『住吉物語』『宇津保物語』が気に入っています。ただ、(宇津保物語の)中でも「殿移り」の巻は好きですが、「国譲(くにゆずり)」の巻は気に入らない・・・。

 

 

紫式部の『源氏物語』第二十五帖の蛍の巻にも、「住吉の姫君の、差し当たりけむをりは・・・」と、光源氏が物語小説の評論を語る場面があります。

 

住吉の姫君の、 さしあたりけむ折はさるものにて、今の世のおぼえも なほ心ことなめるに、主計頭が、ほとほとしかりけむなどぞ、かの監がゆゆしさを思しなずらへたまふ。

 

『住吉物語』の姫君が、不遇の時は仕方が無いとしても、運命が好転して、陛下の眼に止まった時でさえ、あわや卑しい主計頭の妻にされてしまいそうになる箇所などを読んで、あの大夫の監の役人の忌まわしさと思い比べておられました。

 

『住吉物語』は、あまり知られていませんが、清少納言や紫式部たちに大きな影響を与えた物語小説です。

この物語は、いわゆるシンデレラ・ストーリーです。1000年以上も昔に、シンデレラにそっくりな物語が、日本で流行したとは驚きです。

 

主人公の箏を弾く姫君は、母親が亡くなった後、継母いじめを避けるため、住吉に住む母親の乳母の元に隠れ住んでいました。そこへ、彼女を慕う男君が、長谷観音の霊夢と箏の音を手がかりにやって来て、姫君を探し出すという物語です。『宇津保物語』と同様、姫君が箏を弾くシーンの描写が素晴らしい。

ちなみに、彼女を慕う男君は、当初、姫君に手紙を送ったはずが、継母の策略で手紙が、妹(継母の娘)に届けられてしまい、関係がややこしくなるのです。

 

『住吉物語』一二 琴の音(角川ソフィア文庫『住吉物語』より抜粋の上、加筆修正)

 

寝殿の東側に三の君が住んでいらっしゃったので、少将はそこへ通う際に見る西の対は、趣があるように見えるため、「一体どんな方が住んでいるのだろうか」と心惹かれて日を過ごすうちに、少将は、秋の夜長に所在ない寝覚めをして、物悲しく、しみじみとした夜中、寝室に近い庭の荻の葉にそよぎ渡る風の音も、毎晩、通って来る心地がして、たいそう肌寒い頃、枕の下で一晩中鳴いているこおろぎの鳴き声も、なんとはなしに涙を催しがちな折節、爪音、やさしい箏の琴の音がどこからともなく聞こえてきたので、「驚いた。これはどうしたことか・・・」と思って、枕を立てて起きになると、 西の対から聞こえてくるとお思いになる。

 

常日ごろ趣深いと思っていたため、一層、「どんな方が住んでいるのだろうか」と心を落ち着かせて、頭を巡らしていらっしゃると、「私が手紙を出した姫君こそ箏を弾く・・・」と思い出して、三の君に「箏の音をお聴きになっていますか」と尋ねると、「最初からしみじみと聞いています」とおっしゃるので、情趣を解する人だと思って、「これはどなたが弾いておられる箏の音ですか」とお聞きになると、「私の姉に当たる人が御弾きになられています」とおっしゃったので、「兵衛佐殿の妻の方ですか」とお聞きになると、「そうではなく、皇族の血筋の宮腹でいらっしゃる姉です。いつも無心に箏を御弾きになっています」と思慮もなくいうのもいとおしいが、心の中では、「呆れたことに騙されていたのだ」と思い、「対の姫君は、このことをどんなに馬鹿げたことと思っていることだろう。筑前はなんということをしてくれたのだ」と思って、朝になる前に帰って、筑前を召して恨み言をいいなさると、弁解のしようもなくきまり悪そうにしているのだった。

「こうなったら何をいっても仕方がない。このまま知らない顔で過ごそう。中納言の邸で決して何も申し上げるな」とおっしゃったので、筑前は顔を赤らめて、「どうして口に出せましょう」といって去っていった。

 

<邂逅>

日も暮れたので、松の木の下で、「人ならば問うべきものを」などと歌を吟じて、難渋してたたずんでいらっしゃった。ただでさえ、旅の空というものは悲しく感じるのに、夕波に千鳥が悲しそうに鳴き渡り、岸の松風が物寂しく吹いて来るのに合わせて、箏の音がほのかに聞こえてきた。

 

箏の曲は、律の調べで、盤渉調に澄み渡っている。これをお聞きになった中将の心は、言葉にしていえるようなものではなかった。「驚いた。まさか姫君の箏ではあるまい」などと思いながら、その箏の音に引き寄せられて、何とはなにしに近寄ってお聞きになると、釣殿の西面に若い一人二人ほどの声が聞こえてきた。また箏を弾く人もいる。

「去年の冬は、落ち着いた雰囲気がありました」「この頃は、松風や波の音もなつかしく感じられます」「都にいた時には、このような場所は見たこともありませんでした」「ああ、この景色を風情のわかる人に見せたいものですね」などと語り合って、「秋の夕暮れは、普段よりも旅の空がしみじみとしています」などと趣のある声で、今様を謡っているのを、侍従の声だと聞き分けて、「驚いた」と胸がどきどきして、「そう思うからであろうか」と思ってよく聞いてみると、

訪ねる人もいない住吉の渚なのに、誰が待つといって、松風が吹きわたるのだろうかと、歌を吟じる声を聞くと、それは正しく姫君の声だった。「長谷観音の霊験は、あらたかなものであったな」と嬉しくなった。

 

夜が更ける頃に、侍従が先に立って、中将の道案内をした。それでも中将は、すぐに共寝をすることもなさらないで、始めから今日までのことを訴えつづけ、涙ながらにおっしゃった。

あっという間に夜も明け、お日様が出る時間になって、姫君の顔を拝見なさったところ、かつて嵯峨野で垣間見た時よりも、盛りの美しさに見えて、寝乱れた髪はぼんやりとして、魅力的なことはいうまでもない。

 

 

 

桜の花が咲く季節がやってきました。

昨年来、著名な方々や知人がたくさん亡くなったためか、この冬は長く感じました。

 

願わくば

花の下にて 春死なむ

その如月(きさらぎ)の 望月の頃

 

西行

 

ほとけには 桜の花をたてまつれ 

我が後の世を 人とぶらはば

 

西行

 

平安時代末期から鎌倉時代に生きた歌人・西行は、桜の花の下で死にたいと願い、本当に旧暦2月16日(3月下旬)に亡くなりました。はかなく散る桜の花を、人の死の象徴と考えていたのでしょう。

 

敷島(しきしま)の 大和心を

人、問はば

朝日に匂ふ 山桜花  

 

本居宣長

 

皇室の菊の花が大和魂を象徴する花とするならば、桜の花は、日本人の心を象徴する花ともいえます。

 

桜の花の神様は、富士山に祀られている女神・木花咲夜姫(コノハナサクヤ姫)(浅間神)です。

太古、天上界から、天照大御神の孫に当たる瓊瓊杵尊が、九州の霧島山に降臨した時、霧島の地で、木花咲夜姫を見初めて結婚しました。初代皇后ともいえる女神様です。桜島の名前の由来は、サクヤ島が桜島に転じたという説もあります。木花咲夜姫は、富士山や桜島、浅間山などの火山の女神でもあります。

 

桜の花を愛でる日本人の温和で優しい性格のルーツは、霧島山のある宮崎の人々の性格ともいえます。また、神の名前は、大自然の働きや性質を表し、コノハナは、この端(初っ端)であり、いわば、最先端のファッションの女神でもあります。宮崎出身のモデルの蛯原友里などは、木花咲夜姫の末裔かもしれませんね。

 

桜の名所といえば、京都の嵐山や豊臣秀吉が花見を開いた醍醐寺の桜が有名ですが、実は、京都の嵐山の桜も、醍醐寺の桜も吉野から移植されたものです。

 

吉野と桜の結びつきは古く、天智天皇(668~671年)の頃、修験道を開いた役小角(えんのおずね)が、吉野の大峰山で修行していた時、蔵王権現の神姿を霊視し、桜の木にその姿を刻んだことから始まります。それ以来、桜の木は御神木として、手厚く守られてきました。先に紹介した西行も、吉野の山に3年間籠っています。

 

ソメイヨシノは、江戸末期に東京都豊島区にあった染井村の植木屋が交配して作ったものですが、吉野の桜は、ほとんどが白山桜という山桜だそうです。蔵王権現を祀った金峯山寺に参詣した行者や参詣者が、白山桜の苗木を吉野山に植樹し、今日のような桜の名所となりました。

京都の嵐山の桜は、鎌倉時代、後嵯峨上皇が嵐山に別荘を建てた際、吉野の桜を植樹したのがきっかけだといわれています。吉野の嵐山の桜を移植したため、地名まで嵐山になったのだそうです。

 

NHK大河ドラマ『光る君へ』の中で、主人公のまひろ(紫式部)が五節舞(ごせちのまい)を舞うシーンがありました。五節舞は、現代の雅楽では唯一女性が演じる舞で、大歌(おおうた)という歌にあわせて舞いますが、現代の五節舞は、大正天皇の即位の際に復曲されたものです。

 

 

<京都御所で一般公開された五節舞>

 

五節舞は、大海人皇子(天武天皇)が吉野宮に居た時、琴を弾いていると、女神が降臨して袖を五回翻して舞ったという説話に由来するものです。おそらく、百人一首の有名な天つ風の和歌も、この説話に由来するものなのでしょう。

 

天つ風 

雲の通ひ路 吹き閉ぢよ

乙女の姿 しばしとどめむ

 

僧正遍照

 

能楽においても、吉野の地は、様々な能楽の舞台になっています。「吉野天人」や「吉野琴」、吉野に潜伏した源義経と静御前を題材にした「二人静」「吉野静」、その他「国栖」などの演目があります。

 

「吉野琴」は、世阿弥の子息の元雅が作った演目ですが、平成26年に復曲されたため、ご紹介しておきましょう。平安時代、紀貫之が吉野で天女の神霊に出会い、五節舞の物語を聴かされるという演目です。

 

(豊田市能楽堂の「特別公演」のパンフレットより抜粋)

桜花爛漫の吉野山を訪れた紀貴之の前に、里の女たちが琴を抱いて現れる。そして、天武天皇が、月の夜に琴を奏でると、天女たちが天下り、袖を翻して舞を舞ったという五節の舞の起源を語る。

やがて自分はその時の天女で、今宵、花の遊楽を奏でようと告げ、貫之は内裏一の琴の役者なりと貫之に琴を与え、昇天する(中入)。

吉野山の山神が現れ、吉野山の由来や五節の舞の起源を語り、天女の再臨を告げる。その夜、昔の姿で再び現れた天女は、雲の羽袖を翻し、左右颯々と、のびやかに軽やかに舞い遊び、明け方の空に消えてゆく。

2024年1月1日 の朝、Eテレで放映される宮内庁楽部による舞楽は「陵王」です。辰年を祝うには、相応しい舞楽です。朝早い午前6:05~午前6:25  (20分)の放映。朝の弱い方は、録画しておきましょう。

 

 

奈良の大仏開眼の前、天平七年(736年)のこと、インド僧の菩提センナとベトナム僧の仏哲、ペルシャ人李密翳が来日しました。この時、行基が勅命により、難波の港へ雅楽の楽団を連れて、出迎えたそうです。

ベトナム僧の仏哲が教えた林邑八楽の一つが「蘭陵王」(らんりょうおう)で、その仮面は、タイなどの仮面に装飾が似ています。林邑というのは、ベトナムのことです。

後に、菩提センナは大仏開眼の導師を務め、仏哲の伝えた林邑八楽は、大仏開眼の祭典に華を添えました。ちなみに、菩提センナの墓所は、現在も奈良にあります。

その後、尾張の浜主が、孝謙天皇の命を受けて「蘭陵王」の一部改作したとされます。しかし、1300年も前に、インドやペルシャから、遥々と日本にやって来たものです。

 

6世紀の中国・北斉の蘭陵王・高 長恭(こう ちょうきょう)は、武勇に優れた将軍でしたが、顔が優しく美しいため、兵士の士気に差し障りがあることを気にして、わざと龍の面をつけて指揮を執り、戦いに勝利したといわれています。「陵王」の舞振りは、軍隊を指揮している場面を映したものなのでしょう。

 

次のリンクは、宮内庁楽部の山田文彦先生による舞楽「陵王」です。

 

 

北周との戦において、蘭陵王・高長恭は、わずか500騎を率いて突入し、洛陽城の西北角の金墉城にたどりつきました。しかし、城の守備兵たちには、味方かどうか判別できません。そこで、高長恭が兜を脱いで素顔をさらしたところ、味方であること知った守備兵たちは開門し、このことにより北周との戦に勝利することができました。兵士たちは「蘭陵王入陣曲」という曲を作り、彼の勇猛を称えたと伝えられています。

 

蘭陵王は実在した人物で、墓所は、河北省邯鄲市磁県講武城鎮劉荘村にあり、弟の高延宗が贈った詩が刻まれた墓碑が発掘されています。

 

また、「教訓抄」の別の伝説では、隣国との戦の最中に死んだ王の後を継いだ太子が、父王の墓前で苦戦を嘆いたところ、父王の霊魂が、天の運行を逆転させて、沈みかけていた太陽を中天に戻し、戦に勝利することができたと伝えられています。これを祝して「没日還午楽」(ぼつじつかんごらく)という曲を作ったそうです。この物語は、おそらく中国古典の「淮南子」の覧冥訓にある魯陽公が戦の最中に日没となった時、矛で日没の入り日を招くと、太陽が再び上ったという故事が原典なのでしょう。

 

クリスマスの冬至の頃は、一年で昼間が一番短く、最も太陽の勢いが衰える時ですが、一陽来復の曲として、「陵王」は、新年を迎えるには相応しい曲といえます。

2024年は、国内政治のゴタゴタや、ウクライナ戦争、中東戦争も鎮まり、平和な時代になって欲しいですね。

 

「源氏物語」にも、何ヶ所か登場しますが、光源氏は武将ではないため、舞っていません。また、三島由紀夫は、「蘭陵王」の龍笛を聴いた体験を小説として残しています。

最近では、2018年に、宝塚歌劇団による「陵王-美しすぎる武将-」が上演されています。東儀秀樹さんが、宝塚に楽曲を提供されたそうです。

 

 

 

OSK日本歌劇団の『へぼ侍』(主演:翼和希)が、今年の夏、大阪で好評を博しました。音楽を担当された宮内庁の山田文彦先生は、私の雅楽の篳篥(ひちりき)の師匠でもあります。

 

『へぼ侍』は大変好評だったため、来年2024年1月に大阪の扇町ミュージアムキューブ、2月に、東京の博品館劇場でも再演されます。

 

山田文彦先生は、宮内庁で伝承している皇室の神楽歌や雅楽の旋律をモチーフに、『へぼ侍』の音楽を作曲されたそうです。

どのシーンで、どんな風に使われているのか、大変楽しみです。題名は『へぼ侍』でも、決してへぼな舞台や音楽ではないはずです。

OSKのサイトによると、チケット申込は11月28日から。

 

わが国が、明治時代を迎えた頃の西南戦争の物語。アニメの『るろうに剣心』と同じ時代ですね。

 

 

 

 
 

雅楽の中でも、舞を伴う舞楽(ぶがく)は、西暦612年、渡来人の味摩之(みまし)が、聖徳太子の命を受けて、奈良の桜井の土舞台(つちぶたい)で、少年たちに伎楽(ぎがく)を教えたのが始まりと言われています。伎楽のルーツは、遠くインドなどの仮面劇です。雅楽の旋律は、元々、演劇にフィットするのかもしれません。

 

世界には、様々な舞台芸能がありますが、宮内庁が伝承している雅楽・舞楽は、その由緒の古さや、演目の豊富さ、神事芸術としての完成度において、世界に比類のない高度な舞台芸術といえます。

それは、古代から、皇室の神道祭祀や五穀豊穣などの信仰と結びついてきたために、大切に伝承されてきた賜物なのでしょう。

 

そもそも「俳優」という漢字は、古代には「わざおぎ」と読み、『日本神話』に登場する天之鈿女の尊(あめのうずめのみこと)のように、神々を招来し、おもしろおかしく振る舞い、神霊を楽しませ、なぐさめることを意味していたのです。

「わざおぎ」の「わざ」は技であり、「おぎ(招ぎ)」は招来するという意味です。神社の祝詞(のりと)でも、「〇〇の大神をおぎたてまつる」という言葉が出てきます。

おそらく「俳優」は、本来、神霊を招来する技をもつシャーマンを意味していたのでしょう。

 

 

 

 

 

 

戦国時代が終り、江戸時代に入ると、農業の生産性が向上し、町人たちによる商業活動が活発化しました。京都や大阪など上方では、町人を中心に「元禄文化」が花開きました。この頃、庶民の娯楽として、人形浄瑠璃や歌舞伎が大成され、大坂の道頓堀には、芝居小屋が建ち並びました。

 

一方で、元禄期(1688~1704年)には、五代将軍・綱吉が儒教や神道を重んじ、大嘗祭の復活をはじめ、湯島聖堂や多くの神社仏閣の建造・改築に多額の資金を使ったため、幕府の財政が悪化したのです。

 

1716年、徳川吉宗(よしむね)が八代将軍に就任すると、新井白石らは幕政から追い出され、吉宗は財政再建のために、「享保の改革」と呼ばれる緊縮財政を断行しました。吉宗が行った改革は、庶民にも及び、豪華な衣装や小道具を用いていた歌舞伎は目の敵にされ、絹の衣装が禁止されるなど、取り締まりが行われました。

 

しかしながら、吉宗の時代には、天皇即位の大嘗祭が再々興されました。

大嘗祭自体は、五代将軍・綱吉の時代、東山天皇即位の際に再興されたのですが、その時、近衛家をはじめ公家たちから、祭祀の簡略化について、批判が噴出しました。そのため、霊元上皇と近衛家の仲が悪化し、次の中御門天皇の即位では、大嘗祭は中止されてしまったのです。

 

吉宗の時代、1737年の桜町天皇の即位の時に、大嘗祭が再々興されましたが、『江戸時代の天皇』(藤田覚・講談社学術文庫)によると、意外なことに、幕府の方から大嘗祭を再興してはどうかと提案があったそうです。

吉宗は、荻生徂徠に命じて、後醍醐天皇の墓所がある吉野の吉水院にあった楽書『三五中略』の校正などを行わせています。吉宗自身も、皇室祭祀に深い関心を抱いていたのでしょう。

 

再々興された大嘗祭では、悠紀(ゆき)・主基(すき)の節会や、清暑堂の御神楽(みかぐら)なども再興されました。また、七社奉幣使の派遣と、423年ぶりに九州の宇佐八幡宮と香椎宮へ、奉幣使も再興されました。(七社は、伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日の七つの神社です。)

宇佐八幡宮は、皇室にとって、伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と言われ、長い歴史の中で、国家の危機の時には、宇佐八幡宮へ奉幣が催行されてきましたが、後醍醐天皇以来、吉宗の時代まで、423年間も途絶えていたのです。

 

 

「打毬」(だきゅう)の奨励

舞楽の中に、「打毬楽」(たぎゅうらく)という舞があります。「打毬」は、平安時代に流行した、スティックで鞠を打つゲートボールのような競技です。平安時代は、端午の節会の際に行われる宮中の年中行事でした。この競技の仕草を舞にしたのが、舞楽の「打毬楽」です。

 

 

『暴れん坊将軍』でお馴染みの吉宗は、馬に乗った騎戦を練習する武技として、この「打毬」を推奨し、諸藩でも盛んに行われるようになりました。現在でも、宮内庁主馬班では、江戸時代の様式の打毬が保存されています。

 

 

七絃琴の再興

吉宗は、御三家の一つである和歌山県の紀伊の殿様でしたから、紀伊の東照宮で奉納されていた祭祀を通じて、元々、雅楽の知識があったようです。

 

八代将軍に就任すると、なぜか雅楽の楽器編成に、七絃琴を入れるように試みたのです。荻生徂徠が、笙を楽家の辻家に師事していたため、七絃琴の再興は、辻近任(ちかとう)が中心となったようです。

 

七絃琴は、中国神話の堯や舜、孔子や諸葛孔明、白楽天なども弾いていました。おそらく北斗七星信仰と関係があるのでしょう。

日本にも遣唐使の時代に伝わり、『源氏物語』の光源氏は、七絃琴の達人という設定ですが、実際は、『源氏物語』が完成する数十年前の源高明の時代を最後に、七絃琴の伝承は絶えていたのです。

 

1676年、中国から日本に亡命した曹洞宗の東皐心越禅師が、儒官の人見竹洞と旗本の杉浦琴川に、七絃琴の演奏法を教えたことがきっかけで復活しました。心越禅師は、長崎の黄薬宗の興福寺の招きにより来日したのですが、黄門様として有名な徳川光圀に迎えられ、水戸に天徳寺(のち祇園寺)を開き、 七絃琴だけでなく、書画などの分野でも、文化的な影響を与えました。吉宗の配下であった荻生徂徠も、心越禅師の系統の七絃琴を学んだのでしょう。

 

結局のところ、七絃琴は音が小さいため、吉宗の七絃琴の再編入の試みは失敗に終わってしまいましたが、後に、七絃琴の奏者として、浦上玉堂や、鳥海雪堂などが登場するようになりました。

 

そして、吉宗の子孫からは、田安宗武(むねたけ)や徳川治宝(はるとみ)、白河藩の松平定信など、雅楽に熱心な藩主が現れたのです。

 

<七絃琴の神話>

古代中国の蔡邕(AD133~192)の『琴操』によると、「昔、伏羲氏、之れ邪辟を御し、心淫を防ぎ、身を修め性を理(おさ)め、其の天眞に反る所を以て琴を作る。

琴の長さ三尺六寸六分、三百六十五日を象(かたど)る。廣さ六寸、六合を象る。文上は池と曰ふ、池は水也、其れ平と言ふ。下は濱と曰ふ、濱は服也。前廣く後狹し、尊卑を象る。上は圓にして下は方、天地に法る也。五絃、五行を象る。大絃は君と爲し、小絃は臣と爲す。文王、武王、二絃を加へ、以て君臣の恩に合す。」とあります。

また、『風俗通義』(AD200年頃)には、「謹んで按ずるに、世本に神農、琴を作ると。尚書に、舜は五絃の琴を彈じ、南風の詩を歌って而て天下治まる」とあります。

江戸時代の儒学者の中で、最も傑出した学者は、荻生徂徠(おぎゅうそらい)であるといわれています。

荻生徂徠の主張は、朱子学などのように、後世の学者たちによる注釈の研究ではなく、孔子や、孔子以前の文王や周公旦、中国神話の堯、舜など、聖人とされる人々の教えに基づいて、古典を読み解く「古文辞学」を唱えたことです。「古文辞学」は、古事記の研究で有名な本居宣長などに、影響を与えました。

「徂徠」という号は、中国古典の『詩経』にある「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」という意味です。ちなみに、荻生徂徠は、物部氏の末裔で、「物部茂卿」(もののべもけい)ともいいます。

 

荻生徂徠の父は、第5代将軍・徳川綱吉の侍医、弟は、第8代将軍・徳川吉宗の侍医を務めました。このような優秀な一族だったため、荻生徂徠は、将軍・徳川綱吉の側近の柳沢保明に抜擢されましたが、将軍・綱吉の死後は、日本橋の茅場町に、蘐園塾(けんえんじゅく)という私塾を開いていました。

 

彼は、また、熊沢蕃山や伊藤仁斎を高く評価し、「もし、熊沢蕃山の知恵と、伊藤仁斎の徳行、それに私の学問が加われば、わが国にもようやく聖人が一人、あらわれるのだが」と言っていたそうです。


あまり知られていませんが、荻生徂徠は、雅楽の研究に相当力を入れており、七絃琴(しちげんきん)と笙を演奏していました。おそらく孔子の姿をマネしていたのでしょう。護園塾では、詩作と同様、七絃琴や横笛などの雅楽の練習を通じて、人格の陶冶に力を入れていたようです。

 

七絃琴は、現代の雅楽演奏の楽器編成には入っていませんが、平安時代中期までは、貴人が嗜む楽器でした。醍醐天皇の皇子である源高明は、七絃琴の達人だったそうです。菅原道真も習っていました。しかし、七絃琴は音が小さいこともあり、源高明以降は衰退してしまいました。『源氏物語』の光源氏は、七絃琴の達人として描かれていますので、紫式部は、源高明をモデルにしたのかもしれません。

 

『論語』には、孔子が、七絃琴などの楽器を演奏していたことを示す記述があります。また、斉の国で、古代の聖王・舜(しゅん)(虞舜)が作ったとされる「韶」(しょう)という音楽を耳にした時、肉の味もわからなくなるほど感動したというエピソードが記載されています。(『論語』述而編)

 

儒教の仁・義・礼・智・信の五つの徳を示す「五常楽」(ごしょうらく)が、この「韶」の楽であるとする説がありますが、これは、「五常楽」(ごしょうらく)と、舜の「虞韶楽」(ぐしょうらく)が、発音が似ているためかもしれません。

 

荻生徂徠は、『政談』や『弁道』などの政治や道徳に関する著作が有名ですが、音楽に関する著作としては、楽理に関する『楽律考』『楽制考』、七絃琴に関しては『琴学大意抄』や、七絃琴の楽譜の研究書である『幽蘭譜抄』などがあります。

 

荻生徂徠が研究した『幽蘭譜抄』の「碣石調幽蘭」(けっせきちょう・ ゆうらん)という曲は、孔子が作曲したという伝説がある曲です。幽蘭というのは、深山幽谷に生える蘭の花のことです。

ちなみに、荻生徂徠が研究した楽譜は、現存する世界最古の七絃琴の楽譜(唐の時代)で、なんと!現在では、国宝に指定されています。荻生徂徠の研究は、現代でも、七絃琴の復元演奏で利用されているそうです。

 

 

 

 

雅楽の研究の中でも、荻生徂徠は、特に、雅楽を通じた心の制御について研究していたようです。

 

古ノ聖人楽ト云フコト作リ出シメ、人ノ心ノ楽ムトコロヨリ正シキ道ニヒキイレテ、ワレシラヌ邪ノ岐ニイラザルヤウニナシ玉フコト、凡智ノ及バザルトコロナリ

(『琴学大意抄』「琴ノ名義ノ事」)

 

古代の聖人たちが雅楽を作ったのは、人の心の楽しむところから、正しき道に引き入れて、知らないうちに邪の道に行かないように制御するためであり、(雅楽の作用は)およそ人知の及ばないものである。


八音五声。相和以相済。猶五味之和。以養人之徳。以感召天地之和気。

八音五声の音が、調和するのが雅楽であり、雅楽を通して、人徳が養われ、天地の和気(調和の気)を感得する。(八音とは、金・石・土・革・糸・木・ 竹の八種の楽器の素材であり、五声は宮・商・角・徴・羽の五つの音階のこと)

 

無義理之可言。無思慮之可用。不識不知。帝之則。

雅楽は、理屈を必要とせず、思慮を必要とせず、身体に直接作用し、知らず識らずのうちに、古代の聖帝たちがそうであったように、心や性情を制御するのである。

 

雅楽を重視した荻生徂徠の蘐園塾(けんえんじゅく)からは、太宰春台や、安藤東野など、演奏家としても優れた学者が出ました。特に、太宰春台は経済思想家で、『経済録』を著し、わが国で初めて「経済」という言葉を使った学者ですが、一方で、奈良の南都楽所の辻家(狛氏)に師事し、龍笛を70曲も覚え、舞楽もできたようです。

 

春台ハ笛ノ曲七十計リモ覚ラレタリ

春台ハ舞楽ラセラレタリ。

辻氏ヨリ免許状ヲモラハレタリ。

 

荻生徂徠の蘐園塾(けんえんじゅく)の様子を、彷彿させる漢詩が残っています。

これは、後に、長州藩の明倫館(藩校)の学頭を務めた弟子の山県周南が、送別会の様子を漢詩に詠んだものです。

 

鼓楫龍山阿

張楽墨沱河

沆瀣揚滄波

焱赫行蕩滌

飛觚称逸興

笙鼓佐棹歌

秩秩賦既酔

僊僊且婆娑

 

金龍山(浅草寺)のふもと、隅田川の船の上で雅楽を演奏した。

宴は炎のように華やかで、雅楽は心を洗い、川の流れは蒼い波を立てていた。

飛觚(酒の盃)は、風流の趣を醸し出し、笙や鼓の伴奏が船歌を力付けた。

絶えざる川の水のように、詩が次々に詠まれ、酔いがまわり、

ゆらゆらと軽やかに舞い始めた。

 

江戸前期の学者に、熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)がいます。林羅山をはじめ新井白石など、江戸前期の幕府の儒学者は、同じ儒学でも朱子学を研究していましたが、熊沢蕃山は、陽明学者で、「近江聖人」と呼ばれた中江藤樹に師事していました。

 

熊沢蕃山は、京都の生まれですが、岡山藩の名君・池田光政に仕え、治水による農業政策を実行し、岡山藩の財政立て直しに貢献しています。

 

また、福祉政策も有名で、大洪水で被災した領民を救うため、藩の貯蔵米を放出し、救援金の調達のために、池田光政の奥方の母であり、三代将軍・徳川家光の姉である天樹院千姫に頼み込んで、幕府から4万両を借り、困窮した岡山藩と領民のために尽力しました。

 

高校の教科書にも登場しますが、教育政策にも力を入れ、全国に先駆けて藩校のルーツとなった花畠教場や、庶民のため教育機関である閑谷学校(しずたにがっこう)にも貢献しています。

 

 

あまり知られていませんが、熊沢蕃山は、新井白石や貝原益軒以上に、雅楽に詳しく、わが国最大の楽書である『楽家録』(がっかろく)を著した安倍季尚(あべすえひさ)とも、親交がありました。(『楽家録』第50巻に、熊沢蕃山の名前が登場)

 

熊沢蕃山は、京都で小倉大納言実起から琵琶を、藪大納言嗣孝から箏を習い、豊後の岡藩の藩主中川久清から贈呈された「木枯らし」という銘の龍笛を吹いていたそうです。

 

<参考>:熊沢蕃山『集義外書』15巻/『雅楽解』(しゅうぎがいしょ/ががくかい)

 

後に、岡山から、浦上玉堂(うらがみぎょくどう)や、吉備楽を創始した岸本芳秀など、雅楽に秀でた方々が出て来たのは、池田光政と熊沢蕃山が、教育制度を整備したお陰でしょう。

 

 人の心は生きものだから不動ということはない。

善に動かなければ悪に動くものである。 それで古代聖帝の時代には、天地自然の音調をまねて管絃の楽器を作り、人心を正直にさせて邪欲を防止された。現代の琴・琵琶・和琴・笛・笙・太鼓などの楽器である。

日常に一人、二人で音楽を楽しむ人には、箏・琵琶ばかりでもよい。 管楽も上手になれば、一人で演奏しても楽しめる。

箏・琵琶は上手にならなくとも、二人で同絃(合奏)すれば楽しみになる。

音楽の稽古の初めは、音律のよい者を師とし、箏・笛の唱歌を習うのがよい。

幼少の者に成人もまじり、幾人も一度に歌えば、早く熟達できるものである。 

 

(出所:中央公論社 日本の名著第11巻『中江藤樹 熊沢蕃山』より)

 

熊沢蕃山がいうように、雅楽は唱歌が非常に大切です。唱歌の通りに、演奏しなければなりません。

単純な4拍ではなく、強・・強・の4拍で、膝を叩いてリズムを取りながら唱歌を歌うのですが、西洋音楽の影響か?なかなか 強・・強・弱 の4拍で、笙、龍笛、篳篥の三つの楽器の演奏者が、そろって唱歌を歌うのは難しい。

 

ところで、現代でも、日本の雅楽は、中国では俗楽であって、本当の雅楽ではないと、つまらない批判をする方がいますが、熊沢蕃山は、朝廷の「御神楽」こそ、古楽の精神を伝えるものとして、雅楽の名にふさわしい音楽、儒教の礼楽思想を実現するものとして、高く評価した方なのです。自分でも演奏していたため、おそらくその霊妙さを、身体で実感したのでしょう。

 

唐土からも日本を君子国と褒めた。そのわけは、唐土のほかには、日本ほど礼楽の道が正しく風流な国は、東西南北にないのである。それは禁中(皇室)がおわしますためである。

(中略)

道理を心得た人物のご奔走なら、禁中の御位を尊仰し、古代の礼楽が絶えぬように、御神楽には、御神楽の所領を付け、節会御遊などにも、それぞれ所領をつけて、そのことが必ず行なわれるようにし、宮殿諸道具などは質素にして、礼儀に叶うほどならば、禁中の正実が立ち、驕りの怠りもなく、火災の憂いもあるはずもない。

公家中も衣冠束帯の時は礼儀うやうやしく、平常は知行の分に応じて驕りがないように、公家の品位が立つほどの所領を付けて上げれば、公家の公家たるところが乱れず、長久だろう。

 

(出所:中央公論社 日本の名著11巻『中江藤樹 熊沢蕃山』より)

 

熊沢蕃山は、過激な方で、参勤交代などの幕府の政策を批判したため、最後は、茨城の古河城に幽閉されてしまい、1691年に亡くなりました。

 

約170年後の幕末に、藤田東湖や吉田松陰などが、熊沢蕃山の思想に傾倒し、倒幕の精神的な原動力となりました。

明治になった後にも、明治天皇は、文教の興隆に尽くした功績を評価し、1910年、熊沢蕃山に正四位を贈っています。