桜の花が咲く季節がやってきました。
昨年来、著名な方々や知人がたくさん亡くなったためか、この冬は長く感じました。
願わくば
花の下にて 春死なむ
その如月(きさらぎ)の 望月の頃
西行
ほとけには 桜の花をたてまつれ
我が後の世を 人とぶらはば
西行
平安時代末期から鎌倉時代に生きた歌人・西行は、桜の花の下で死にたいと願い、本当に旧暦2月16日(3月下旬)に亡くなりました。はかなく散る桜の花を、人の死の象徴と考えていたのでしょう。
敷島(しきしま)の 大和心を
人、問はば
朝日に匂ふ 山桜花
本居宣長
皇室の菊の花が大和魂を象徴する花とするならば、桜の花は、日本人の心を象徴する花ともいえます。
桜の花の神様は、富士山に祀られている女神・木花咲夜姫(コノハナサクヤ姫)(浅間神)です。
太古、天上界から、天照大御神の孫に当たる瓊瓊杵尊が、九州の霧島山に降臨した時、霧島の地で、木花咲夜姫を見初めて結婚しました。初代皇后ともいえる女神様です。桜島の名前の由来は、サクヤ島が桜島に転じたという説もあります。木花咲夜姫は、富士山や桜島、浅間山などの火山の女神でもあります。
桜の花を愛でる日本人の温和で優しい性格のルーツは、霧島山のある宮崎の人々の性格ともいえます。また、神の名前は、大自然の働きや性質を表し、コノハナは、この端(初っ端)であり、いわば、最先端のファッションの女神でもあります。宮崎出身のモデルの蛯原友里などは、木花咲夜姫の末裔かもしれませんね。
桜の名所といえば、京都の嵐山や豊臣秀吉が花見を開いた醍醐寺の桜が有名ですが、実は、京都の嵐山の桜も、醍醐寺の桜も吉野から移植されたものです。
吉野と桜の結びつきは古く、天智天皇(668~671年)の頃、修験道を開いた役小角(えんのおずね)が、吉野の大峰山で修行していた時、蔵王権現の神姿を霊視し、桜の木にその姿を刻んだことから始まります。それ以来、桜の木は御神木として、手厚く守られてきました。先に紹介した西行も、吉野の山に3年間籠っています。
ソメイヨシノは、江戸末期に東京都豊島区にあった染井村の植木屋が交配して作ったものですが、吉野の桜は、ほとんどが白山桜という山桜だそうです。蔵王権現を祀った金峯山寺に参詣した行者や参詣者が、白山桜の苗木を吉野山に植樹し、今日のような桜の名所となりました。
京都の嵐山の桜は、鎌倉時代、後嵯峨上皇が嵐山に別荘を建てた際、吉野の桜を植樹したのがきっかけだといわれています。吉野の嵐山の桜を移植したため、地名まで嵐山になったのだそうです。
NHK大河ドラマ『光る君へ』の中で、主人公のまひろ(紫式部)が五節舞(ごせちのまい)を舞うシーンがありました。五節舞は、現代の雅楽では唯一女性が演じる舞で、大歌(おおうた)という歌にあわせて舞いますが、現代の五節舞は、大正天皇の即位の際に復曲されたものです。
<京都御所で一般公開された五節舞>
五節舞は、大海人皇子(天武天皇)が吉野宮に居た時、琴を弾いていると、女神が降臨して袖を五回翻して舞ったという説話に由来するものです。おそらく、百人一首の有名な天つ風の和歌も、この説話に由来するものなのでしょう。
天つ風
雲の通ひ路 吹き閉ぢよ
乙女の姿 しばしとどめむ
僧正遍照
能楽においても、吉野の地は、様々な能楽の舞台になっています。「吉野天人」や「吉野琴」、吉野に潜伏した源義経と静御前を題材にした「二人静」「吉野静」、その他「国栖」などの演目があります。
「吉野琴」は、世阿弥の子息の元雅が作った演目ですが、平成26年に復曲されたため、ご紹介しておきましょう。平安時代、紀貫之が吉野で天女の神霊に出会い、五節舞の物語を聴かされるという演目です。
(豊田市能楽堂の「特別公演」のパンフレットより抜粋)
桜花爛漫の吉野山を訪れた紀貴之の前に、里の女たちが琴を抱いて現れる。そして、天武天皇が、月の夜に琴を奏でると、天女たちが天下り、袖を翻して舞を舞ったという五節の舞の起源を語る。
やがて自分はその時の天女で、今宵、花の遊楽を奏でようと告げ、貫之は内裏一の琴の役者なりと貫之に琴を与え、昇天する(中入)。
吉野山の山神が現れ、吉野山の由来や五節の舞の起源を語り、天女の再臨を告げる。その夜、昔の姿で再び現れた天女は、雲の羽袖を翻し、左右颯々と、のびやかに軽やかに舞い遊び、明け方の空に消えてゆく。