江戸時代の儒学者の中で、最も傑出した学者は、荻生徂徠(おぎゅうそらい)であるといわれています。
荻生徂徠の主張は、朱子学などのように、後世の学者たちによる注釈の研究ではなく、孔子や、孔子以前の文王や周公旦、中国神話の堯、舜など、聖人とされる人々の教えに基づいて、古典を読み解く「古文辞学」を唱えたことです。「古文辞学」は、古事記の研究で有名な本居宣長などに、影響を与えました。
「徂徠」という号は、中国古典の『詩経』にある「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」という意味です。ちなみに、荻生徂徠は、物部氏の末裔で、「物部茂卿」(もののべもけい)ともいいます。
荻生徂徠の父は、第5代将軍・徳川綱吉の侍医、弟は、第8代将軍・徳川吉宗の侍医を務めました。このような優秀な一族だったため、荻生徂徠は、将軍・徳川綱吉の側近の柳沢保明に抜擢されましたが、将軍・綱吉の死後は、日本橋の茅場町に、蘐園塾(けんえんじゅく)という私塾を開いていました。
彼は、また、熊沢蕃山や伊藤仁斎を高く評価し、「もし、熊沢蕃山の知恵と、伊藤仁斎の徳行、それに私の学問が加われば、わが国にもようやく聖人が一人、あらわれるのだが」と言っていたそうです。
あまり知られていませんが、荻生徂徠は、雅楽の研究に相当力を入れており、七絃琴(しちげんきん)と笙を演奏していました。おそらく孔子の姿をマネしていたのでしょう。護園塾では、詩作と同様、七絃琴や横笛などの雅楽の練習を通じて、人格の陶冶に力を入れていたようです。
七絃琴は、現代の雅楽演奏の楽器編成には入っていませんが、平安時代中期までは、貴人が嗜む楽器でした。醍醐天皇の皇子である源高明は、七絃琴の達人だったそうです。菅原道真も習っていました。しかし、七絃琴は音が小さいこともあり、源高明以降は衰退してしまいました。『源氏物語』の光源氏は、七絃琴の達人として描かれていますので、紫式部は、源高明をモデルにしたのかもしれません。
『論語』には、孔子が、七絃琴などの楽器を演奏していたことを示す記述があります。また、斉の国で、古代の聖王・舜(しゅん)(虞舜)が作ったとされる「韶」(しょう)という音楽を耳にした時、肉の味もわからなくなるほど感動したというエピソードが記載されています。(『論語』述而編)
儒教の仁・義・礼・智・信の五つの徳を示す「五常楽」(ごしょうらく)が、この「韶」の楽であるとする説がありますが、これは、「五常楽」(ごしょうらく)と、舜の「虞韶楽」(ぐしょうらく)が、発音が似ているためかもしれません。
荻生徂徠は、『政談』や『弁道』などの政治や道徳に関する著作が有名ですが、音楽に関する著作としては、楽理に関する『楽律考』『楽制考』、七絃琴に関しては『琴学大意抄』や、七絃琴の楽譜の研究書である『幽蘭譜抄』などがあります。
荻生徂徠が研究した『幽蘭譜抄』の「碣石調幽蘭」(けっせきちょう・ ゆうらん)という曲は、孔子が作曲したという伝説がある曲です。幽蘭というのは、深山幽谷に生える蘭の花のことです。
ちなみに、荻生徂徠が研究した楽譜は、現存する世界最古の七絃琴の楽譜(唐の時代)で、なんと!現在では、国宝に指定されています。荻生徂徠の研究は、現代でも、七絃琴の復元演奏で利用されているそうです。
雅楽の研究の中でも、荻生徂徠は、特に、雅楽を通じた心の制御について研究していたようです。
古ノ聖人楽ト云フコト作リ出シメ、人ノ心ノ楽ムトコロヨリ正シキ道ニヒキイレテ、ワレシラヌ邪ノ岐ニイラザルヤウニナシ玉フコト、凡智ノ及バザルトコロナリ
(『琴学大意抄』「琴ノ名義ノ事」)
古代の聖人たちが雅楽を作ったのは、人の心の楽しむところから、正しき道に引き入れて、知らないうちに邪の道に行かないように制御するためであり、(雅楽の作用は)およそ人知の及ばないものである。
八音五声。相和以相済。猶五味之和。以養人之徳。以感召天地之和気。
八音五声の音が、調和するのが雅楽であり、雅楽を通して、人徳が養われ、天地の和気(調和の気)を感得する。(八音とは、金・石・土・革・糸・木・ 竹の八種の楽器の素材であり、五声は宮・商・角・徴・羽の五つの音階のこと)
無義理之可言。無思慮之可用。不識不知。帝之則。
雅楽は、理屈を必要とせず、思慮を必要とせず、身体に直接作用し、知らず識らずのうちに、古代の聖帝たちがそうであったように、心や性情を制御するのである。
雅楽を重視した荻生徂徠の蘐園塾(けんえんじゅく)からは、太宰春台や、安藤東野など、演奏家としても優れた学者が出ました。特に、太宰春台は経済思想家で、『経済録』を著し、わが国で初めて「経済」という言葉を使った学者ですが、一方で、奈良の南都楽所の辻家(狛氏)に師事し、龍笛を70曲も覚え、舞楽もできたようです。
春台ハ笛ノ曲七十計リモ覚ラレタリ
春台ハ舞楽ラセラレタリ。
辻氏ヨリ免許状ヲモラハレタリ。
荻生徂徠の蘐園塾(けんえんじゅく)の様子を、彷彿させる漢詩が残っています。
これは、後に、長州藩の明倫館(藩校)の学頭を務めた弟子の山県周南が、送別会の様子を漢詩に詠んだものです。
鼓楫龍山阿
張楽墨沱河
沆瀣揚滄波
焱赫行蕩滌
飛觚称逸興
笙鼓佐棹歌
秩秩賦既酔
僊僊且婆娑
金龍山(浅草寺)のふもと、隅田川の船の上で雅楽を演奏した。
宴は炎のように華やかで、雅楽は心を洗い、川の流れは蒼い波を立てていた。
飛觚(酒の盃)は、風流の趣を醸し出し、笙や鼓の伴奏が船歌を力付けた。
絶えざる川の水のように、詩が次々に詠まれ、酔いがまわり、
ゆらゆらと軽やかに舞い始めた。