ほぼ毎日、パチンコ屋に通う日々が続いていました。

 

数千円、勝ったり負けたり。

 

トータルでは負けていたと思います。

 

2、3ヶ月が経ちました。

 

罪悪感もありながら、パチンコ屋へ足を運んでいました。

 

パチンコは、打っている間余計なことを考えなくて済みます。

 

うつ病患者にとって、これほど有難いことはありません。

 

勝てば嬉しいし、負けて悔しくても、翌日には気にならなくなります。

 

半ば、現実逃避のようにパチンコ屋へ通っていました。

 

そんなある日。

 

大学の外で休憩のタバコをふかしていた時。

 

他の研究室の後輩(と言ってもはるかに年上)と初めて話しました。

 

彼はパチンコもスロットも、私より豪快に遊ぶ男でした。

 

彼と会って数日後、

 

一緒にパチンコに行くことになりました。

 

私はいつものように1ぱち。

 

彼はスロットを打っていました。

 

私は鳴かず飛ばず、5000円程度負けて、もう今日はやめようという感じでした。

 

彼はといえば、スロットが大当たりしたようで、まだまだ帰れそうな気配ではありませんでした。

 

近くのソファーでタバコを吸ったり、コーヒーを飲んだりして時間をつぶしましたが、一向に終わる気配がありません。

 

しびれを切らし、彼の隣のスロット台に座り、1000円だけやってみることにしました。

 

1000円を入れ、メダルが出てきます。

 

それを投入し、レバーをガシャン。

 

ドラムが回り、ボタンを3つ押す。

 

絵柄が止まる。

 

外れ。

 

コインを入れ。

 

レバーをガシャン。

 

!?

 

台のハイビスカスのマークが点滅しました。

 

「あ、それ当たりですよ」

 

隣の彼が教えてくれました。

 

適当にボタンを3つ押します。

 

777

 

大当たりです。

 

なんと、2回レバーを叩いただけで大当たりしてしまいました。

 

その後は、大当たりに続く大当たり。

 

夕方から行って閉店まで当たりは続きました。

 

スロットに入れた1000円が65000円になりました。

 

今までにない収益でした。

 

その時、私の中で何かが壊れたのです。

下宿に帰りました。

 

また、研究室との往復の日々が始まりました。

 

下宿の近所にもパチンコ屋はあります。

 

その店のシステムはわからなかったので、敬遠していたのですが、

 

勇気を出して(不必要な勇気でした)、入って、とりあえず打ってみました。

 

買ったか負けたかは覚えていません。

 

その店のシステムは理解しました。

 

その店に対する抵抗がなくなりました。

 

気づけば、ほぼ毎日通うようになっていました。

 

その頃は、1ぱちしか手を出していなかったので、まだよかったかもしれない頃でした。

国家試験を翌年の2月に控えた夏休み。

 

実家に帰省した私は、父と一緒に生まれて初めてのパチンコ屋に行きました。

 

意味もわからず、ハンドルをひねり、打ち出される球を眺めていました。

 

何が何だかわからないまま、1時間と少し打ち続けていました。

 

終わる頃には、2000円が8000円に増えていました。

 

今まで、仕組みがわからず、興味もなかったパチンコが、すごく身近な存在になりました。

 

1週間後、今度は一人で行ってみました。

 

2000円が4000円になりました。

 

さらに1週間後、1000円が2000円になりました。

翌日、教授に薬剤師を目指したい旨、しばらく実家で休養したい旨を伝え了承を得ました。

 

翌年度からプラン実行なので時間に余裕はありました。

 

その間、いろいろなことがありました。

 

私は、博士課程を退学し、聴講生として授業を受けるつもりでいたのですが、教授の勧めもあり、博士課程に在籍したまま、授業を受けるという形をとることになりました。

 

その代わり、植物を扱っているとある研究室に出向という形で研究をしたらいいということでした。

 

確かに、あのツートップのいない環境なら、少しは実験もできるかもしれないと思いました。

 

出向先で、後輩もできました。

 

天然物なら指導できるのでやりがいのある日々を過ごせました。

 

講義を受けるのも学部生の頃以来で新鮮味があり、面白かったです。

 

定期的に教授の元へ、実験の進捗状況を報告しに行かなければならないのが唯一の苦痛でした。

 

単位取得のため、外部の病院や薬局へ実習にも行きました。

 

そうしてあっという間に3年の月日が流れていました。

 

 

残されたのは・・・

 

 

全く進んでいない実験と、国家試験を数ヶ月後に控えた私でした。

鉛色の思考から解放された私は、少し、建設的な考えができるようになりました。

 

洗面所の鏡に映る自分に対して、やめてもいいんだ、と言いながら微笑みかける余裕すら出てきました。

 

やめてもいいんだ、実家の農家を継いだっていいじゃないか。

 

まだまだ、将来の選択肢はいくつもある。

 

そう思えるようになりました。

 

とても前向きな気持ちになれました。

 

その時、ある考えが浮かんできました。

 

・・・薬剤師になるか。

 

以前記したように、薬学部の4年制学科を卒業し、修士課程を修了している私は、後2、3年かけて足りない単位を取得すれば薬剤師の国家試験の受験資格を得られます。

 

もちろんそれには、大学に残って授業を受ける必要があります。

 

鉛色の意識に支配されていた時にも考えてはいたことですが、大学に残るという時点で、選択肢から外れていたプランです。

 

奇しくも、やめていいという言葉のおかげでやめない選択肢を選ぼうとしている私がいました。

 

人には逃げ道が必要なんだなぁと痛感しました。

 

もし、身近にうつ病の方がいらっしゃるならば、その人に逃げ道を与えてあげてください。

 

それが、もしかしたら、立ち直るきっかけになるかもしれないのです。

ある日の夜。

 

その日も、彼女は私の下宿に帰ってきてくれました。

 

体調は、全く良くなる気配もなく、学校へも行けていませんでした。

 

彼女に言われました。

 

「お母さんに、打ち明けてみれば?」

 

私は拒否しました。

 

親に話してどうなるものでもあるまい。

 

無駄な心配をかける必要もあるまい。

 

こんな情けない話、進んでできるわけがない。

 

しかし、その日の彼女は頑なでした。

 

私のケータイを取り上げ、無理やり親に電話をかけたのです。

 

呼び出し音がなると、私の耳にケータイを押し付けてきました。

 

「もしもし?」母親が出ます。

 

この時、私の口から、自然と言葉が出てきました。

 

「お母さん、僕、うつ病になっちゃったみたい。」

 

涙で、言葉になっていたかどうか不明ですが、母親には聞き取れたようです。

 

そうか、無理しなくていいんだよ。嫌なら大学やめたらいいよ。

 

・・・

 

その時、私の体を支配していた鉛色の意識が、サーっと地面に抜けていくのがわかりました。

 

鉛色から、薄い水色のような意識に変わりました。

 

そうか。やめていいんだ。逃げていいんだ!

 

母の、たった一言二言で、機能を停止していた私の思考回路が動き始めました。

 

その後は、母と何を話したのか覚えていません。

 

ただ、電話を切った時、それまでの私とはまったく違う自分がそこにいたのでした。

彼女は毎日、学校が終わると私の下宿に来てくれました。

 

私にとって、彼女と過ごす時間だけが、少しだけ苦しみから解放される時間です。

 

朝、彼女が出かけて行き、夕方、彼女が帰ってくるまでの10時間弱。

 

その時間は、まさに地獄の時間でした。

 

テレビも見られない。

 

本も読めない。

 

食事も喉を通らない。

 

したくないのではなく、できないのです。

 

何もしない10時間、頭の中は鉛色の思考が暴れています。

 

他に何もできないのですから、その鉛色の思考の攻撃をまともに食らってしまうのです。

 

悲しい、辛い、ネガティブな感情が、次から次へと湧いてきます。

 

何かあって悲しいのであれば、その何かを解決することで対処できます。

 

しかし、私の場合は具体的な意味を持たない感情ですから、対処のしようもありません。

 

ただ、ひたすら、その感情の攻撃に耐え、時が過ぎるのを待つのです。

 

 

当時、付き合っていた彼女がいました。

 

修士の頃の研究室の後輩です。

 

私が、博士課程で研究室を移る頃から付き合い始めました。

 

つまり、私がうつ病になる直前から付き合い始めたのです。

 

彼女は、献身的に私に寄り添ってくれました。

 

彼女も学業が忙しい身です。

 

その合間を縫って、私の下宿に来てくれて、看病をしてくれました。

 

うつ病のこともいろいろ調べてくれて、良いと書いてあることを教えてくれ、一緒に実践してくれました。

 

一緒に散歩に出かけました。

 

付き合う直前の、お互いを意識し始めた頃の、楽しい思い出を語りながら。

 

ほんの少し前のことなのに、あの頃は幸せに溢れていた。

 

今はこんなに苦しんでいる。

 

過去と現在を比べ、あまりの辛さに涙しながら歩きました。

 

少し歩いただけでひどい疲労感でした。

 

まともに食べていないので、体力があるはずがありません。

 

彼女の必死の看病も、私を快方へと導くことはできませんでした。

身体中が鉛に浸潤されるまで、私でも色々と抵抗しました。

 

なまじ、薬学・医療を学んだ身です。

 

薄々、自分がうつ病にかかりつつあるということは感づいていました。

 

気の置けない友人に相談もしました。

 

薬局で漢方(柴胡加竜骨牡蛎湯だったか)を購入して服用しました。

 

それでもダメで、一度心療内科を受診したと思います。

 

そこでの診断結果は、「軽度のうつ病

 

うん、知ってたって。

 

しかし、医者の診断の力はすごいです。

 

言霊とでもいうのでしょうか。

 

うつ病だ、と断定されると、あぁ、うつ病なのか、とホッとする反面、さらにうつ病の症状が出てくるのです。

 

心のどこかで、最後まで抵抗していた、健康への糸が、診断名によってぷっつりと切れたような感覚です。

 

薬を処方されて飲みました。

 

しかし、副作用で、まともに立って歩けなくなりました。

 

ご存知の通り、抗うつ薬の効果が出るには2、3週間かかります。

 

一方で副作用はたちまち出てきます。

 

薬学的知識のある私ですら、飲むのをやめてしまいました。

 

どうしてこうなってしまったんだ。

 

自分の現状と、未来への不安から、一人枕を濡らす日々が続いていました。

 

 

研究室の居心地は最悪。

 

自分の実験も興味が湧かない。

 

セミナーは怖くて仕方ない。

 

私の目指している創薬研究者というのは、こんな興味の湧かないことを一生涯やり遂げるということなのだろうか・・・。

 

そんな負の感情が常に頭をよぎっていました。

 

いつしか、その負の感情は具体的な意味を失い、ただ漠然とした嫌な感情という鉛のような意識が、私の脳内を支配していました。

 

何も考えることはできません。

 

頭の中は、グレーの濃い霧で埋め尽くされています。

 

生物としての、基本的な欲求すらわきません。

 

これほど、グレーの霧は強く、強く私の脳を支配しています。

 

学生居室の自分の机、実験台に突っ伏して、ひたすら唸っていたでしょうか。

 

下宿との往復中、一度信号無視をしてしまったかもしれません。

 

いや、したかどうかすらわからないのです。

 

信号の色すら、頭の中に入ってこないのです。

 

何も考えることはできません。

 

食欲もわきません。

 

1週間で体重が5kgも減りました。

 

そして、ついには大学へ行くことができなくなりました。

 

朝起きると、脳から漏れ出した鉛の意識が、身体中に浸潤し、体全体が鉛になっていたのです。

 

朝7時、持てる力を最大限振り絞り、蚊の鳴くような声で教授に電話をします。

 

体調が悪いので休ませてください。

 

教授も、日頃から私の異変に気付いていたのでしょうか。

 

休んでいい、心配していると言った言葉をかけてくださったような気がします。

 

しっかりとは覚えていません。

 

そんな日が2、3日続きました。