さて、今回は今までのような昔語りはやめて、ブログを書くに至った経緯についてお話ししてみようと思います。

 

私がうつ病になって、4年ほどが過ぎようとしています。

 

本当に動けなかったのは発症の頃の2週間程度で、それ以外の時は、程度の差こそあれ、それなりに活動しています。

 

それ以外の時に何をしているかといえば、そりゃいろいろするのですが、その1つにインターネットでうつ病体験者の話を読むというのがあります。

 

その方の体験談を、自分に照らし合わせ、治療の糸口にしようとしているのです。

 

いや、もっと本能的なレベルで動いているのかもしれません。

 

他人の体験を知りたくてしょうがないのです。

 

 

今現在、少し症状は落ち着いてきています。

 

そこで、世の中の、私と同じような症状で苦しむ方の助けになればと思って書いている次第です。

 

今までは、私が他人のブログに助けられてきました。

 

次は私が助ける番です。

 

 

実際書いてみてわかったことは、

 

ストーリーの中でも、辛い体験について書いた後は、どんよりと気持ちが沈んでしまうということです。

 

自分で書いておいて、自分で落ち込んでいてはどうしようもないのですが、実際そうなのです。

 

きっと、私が読ませていただいたブログの管理人さんたちも、その痛みに耐え、何らかの意志を持って書かれていたんだと痛感しました。

 

 

同じ体験をした人など一人としていません。

 

たくさんの体験談を読み、自分と似ているエピソードを参考にしながら、立ち直るきっかけにしてきました。

 

私の体験は、同じような大学院で苦しむ方の光となり得るのでしょうか。

 

そんな自問自答をしながら、これからも書いていこうと思います。

 

昔語りはあと少しでおしまい。

 

それからは、逐次更新となっていくと思います。

 

これからもどうぞお付き合いください。

翌日、母と祖父が揃って畑へ行き、私は一人になりました。

 

食事も喉を通らないので、食べませんでした。

 

「医者に行ってくる」とだけ書き置きを残し、車に乗り込みました。

 

50分の道のりは、非常に遠かったです。

 

体調の悪い時の運転は非常に疲れます。

 

なんとか病院に辿り着き、予約していないが受診したい旨を話しました。

 

看護師さんに「体調が悪いので、駐車場の車の中で待たせて欲しい」と伝え、車の中で待ちました。

 

2時間ぐらい待ったでしょうか。

 

その間、病院のレクリエーションなのか、調子外れなカラオケの声が聞こえてきました。

 

2時間が経ち、看護婦さんに呼ばれました。

 

主治医に現状を話しました。

 

お母さんとの摩擦が辛いんですねと言われました。

 

それだけでした。

 

それはそうです。

 

医者だろうがなんだろうが、人間関係を直せる人など誰もいないのです。

 

医者からは、薬増やすか?漢方を試してみるか?という提案をいただきました。

 

当時服用している薬は、漫然と飲んではいたものの、効いている実感はなかったので、増量は断りました。

 

また、漢方も即効性はないだろうと判断して断りました。

 

医者はそれなら・・・といって

 

カウンセリングを受けてみるか?とおっしゃいました。

 

前々から、カウンセリングには興味があったので、ぜひお願いしますと伝えました。

 

その後、待合室で待っているとカウンセラー(臨床心理士)の方がいらっしゃいました。

 

時間がないので、あとで電話をください。そこで今後のことを決めましょうと言われました。

 

私は病院を後にし、近くのパチンコ屋の駐車場に車を止め、車内で時間をつぶしました。

 

指定の時間に病院に電話をし、カウンセラーの方とお話ししました。

 

母との軋轢のこと。

 

カウンセリングでも、さすがに人間関係のことをどうこうするのは難しいが、とりあえずやってみましょう。というお返事をいただきました。

 

予約は2日後になりました。

 

電話を切り、もう病院には用事がないのですが、家に帰る気にはなりませんでした。

 

あの雰囲気が、家の雰囲気が、母の雰囲気が怖かったのです。

 

車の中でウトウトしながら時間をつぶしました。

2度目に泣きながら怒られた日から、母の態度が急変しました。

 

私に対する態度が、急にそっけなくなりました。

 

必要最低限のことしか話さなくなりました。

 

声色も、モノトーンで抑揚がなくなりました。

 

私以外の人としゃべるときは普通なのに。

 

相当怒っていることがわかりました。

 

これには参りました。

 

母と一緒の空間にいたくなくなり、自室にこもりがちになりました。

 

数日後、彼女が遊びに来ることになっていたので、そうなれば機嫌も治るだろうと思いました。

 

数日経ち、彼女が来ると母は今までの母に戻っていました。

 

3日滞在し、彼女が帰った後、

 

母は、再びモノトーンになっていました。

 

限界がきました。

 

一人で夕食を済ませ、彼女に電話しました。

 

彼女に現状を話しました。

 

なぜ、私はこんなに苦しまねばならないんだ?なぜ家族に苦しめられねばならないんだ?

 

自問自答するかのごとく、電話口でつぶやきました。

 

彼女は色々とアドバイスをくれましたが覚えていません。

 

再び、鉛色の意識が顔をのぞかせそうになっていました。

 

このままではやばいと思い、翌日、予約していないものの急遽病院へ行くことを決意しました。

 

その日は、チラチラと顔を覗かす鉛色の意識のせいでなかなか寝付くことができませんでした。

2月頭に実家に強制送還されてから、新しい病院を探し、そこに通い始めました。

 

月に1度診察を受け、薬をもらいます。

 

薬は今までと同じものから始めました。

 

病院まで片道50分。

 

体調によっては、結構大変な距離です。

 

当時ルールに縛られる日々が始まりました。

 

問答無用のルール。

 

ルールを守って生活していれば、病気はきっと良くなる。そんな母の思い込み。

 

そんな中でも、頑張ってルールは守ろうとしていました。

 

しかし、昼寝だけはどうしてもしてしまうことが度々ありました。

 

最初は優しく起こされました。

 

度重なるに連れ、口調が厳しくなってきました。

 

収穫期も終わり、午前中の農作業がなくなってしばらくしたある日。

 

いつも通り、朝7時に起き、食事をとり、自室の座イスの背もたれを倒して、横になってぼーっとしていると、いつの間にか2度寝をしてしまいました。

 

その日の母はいつもと違いました。

 

私が寝ているのを見つけるやいなや、泣きながら怒ってきたのです。

 

「私がこんなに心配して色々とやっているのに、どうしてそれがわからないんだ。なぜ、寝るなと言っているのに寝るんだ。」

 

こんなことをとくとくと20分ほど怒られました。

 

困惑しました。

 

それでも、その日はそれで終わり、私も出来る限り寝ないようにしようと思いました。

 

しかし、やってしまうのです。

 

数日後、また寝てしまったのです。

 

前回と同じように泣きながら怒られました。

 

しかし、私にも口には出さないものの不満は溜まっていました。

率先して、うつ病治療に取り組み始めたのは母でした。

 

テレビや新聞などでせっせと情報を仕入れました。

 

まず、規則正しい生活。

 

朝は7時に起き、夜更かしをしない。

 

3食しっかり食べる。

 

昼寝はしない。

 

体を動かす。

 

これらを実践するよう言われました。

 

なんということはありません。

 

普通の生活をしなさいということでした。

 

しかし、それは私には大変なことでした。

 

早寝早起きはできました。

 

3食食べるのも問題ありませんでした。

 

体を動かす、昼寝はしない

 

これが私にとっては非常に辛いことでした。

 

体を動かす。

 

実家は農家なので、朝7時に起こされた後、昼間で農作業の手伝いをしました。

 

これが苦痛でした。

 

体力もほぼなくなっており、また、収穫作業なので単調でした。

 

加えて、一般的にうつ病は午前中が辛くて、夕方になると楽になる傾向があります。

 

それは私も同じでした。

 

つまり、一番しんどい時間に、なれない農作業をする。

 

非常に大変な毎日でした。

 

また、昼寝をしない。

 

これも辛いものでした。

 

寝ている時間は、うつ病の苦しみから解放される時間です。

 

それを禁止されてしまうというのは、逃げ道をふさがれるに等しいのです。

 

しかし、どこで聞きかじったか知らないこれらのルールを徹底させられました。

 

最初の1ヶ月程度はなんとかなりました。

 

次第に暗雲が立ち込めてきたのです。

実家暮らしが始まりました。

 

実に10年ぶりの実家暮らしです。

 

戸惑いもありました。安心感もありました。

 

一人暮らしと違い、許されない勝手もあります。

 

食事は、コンビニ弁当から母の手料理に変わりました。

 

寝起きの時間も、規則正しくなりました(強制的に起こされました)。

 

そんな、リハビリ生活がスタートしたのです。

うつ病発症の頃から付き合っていた彼女とは、まだ続いていました。

 

私が博士課程にいる間に、彼女は卒業し、薬剤師にも合格し、とある製薬企業へ就職していました。

 

いわゆる遠距離恋愛です。

 

国家試験が近づき、体調が思わしくなくなると、私は車で2時間以上かけて彼女の一人暮らし先へ行きました。

 

もちろん、彼女も時たま私の下宿へ来てくれました。

 

いよいよ国家試験が近づいた頃は、精神的に不安定だったので、彼女の家にずっと居候していました。

 

いわゆる、ヒモ状態の生活を送っていました。

 

今考えても情けないことです。

 

前回のパチンコの親バレの時も、彼女の家におり、その近所のパチンコ屋で起こったことでした。

 

2月に入った頃です。

 

服薬している薬の残りがなくなり、行きつけの心療内科を受診する必要が出てきました。

 

彼女の家から車で下宿まで戻ってきました。

 

途中で心療内科を受診し、薬をもらって、夜6時ごろに誰もいない下宿に入ってベッドの上に座りました。

 

無性に寂しくなり、彼女に電話しました。

 

今までにない虚無感に襲われ、辛いということを話しました。

 

彼女は電話口で一生懸命慰めてくれました。

 

長いこと喋っていました。

 

ふと手元に、先ほどもらったばかりの向精神薬がたくさん見えました。

 

衝動的にたくさん飲んでしまいました。

 

死にたかったわけでは決してありません。

 

なぜ飲んだかはわかりませんが、飲んでしまいました。

 

そのことを電話口の彼女へ伝えました。

 

何バカなことしてるの!と怒られました。

 

救急車呼ぶべきなのかな?と聞きました。

 

呼んだほうがいい。と言われました。

 

そこで、彼女との電話を切り、119番しました。

 

自分で大量服用して、自分で救急車を呼ぶとはなんと間抜けなことでしょう。

 

間もなく救急車が来て私は近くの総合病院へ運ばれました。

 

救急車内で、実家に連絡されました。

 

私は、病院で点滴を受け、一晩入院しました。

 

翌朝、母親が来てくれました。

 

血液検査の値も問題ないということで、退院となりました。

 

下宿に戻り、実家に帰ろうと言われました。

 

夕方、仕事上がりの父が来て、3人で実家に帰りました。

 

車内で、国家試験は今年はやめなさいと言われました。

 

了承しました。

 

当時、すでに博士号取得を諦めていた私は、多くの重圧から、解放されました。

 

睡眠薬がまだ体内に残っていたせいか、車内のほとんどの時間を寝て過ごしました。

年が明け、国家試験まであと2ヶ月となっても、パチンコ屋へ行く日々が続いていました。

 

その頃になると、パチンコを教えてもらった父には現状を報告していました。

 

父は優しいので、「あんまり無駄遣いするなよ」程度で済んでいました。

 

しかし、日々のパチンコへの浪費とお金の無心を不審がった母親が、父親に相談したそうです。

 

父は現状を包み隠さず話しました。

 

 

その日も、私はパチンコへ来ていました。

 

その頃になると、国家試験が近づいているにもかかわらず勉強が進んでないという現状から、うつ病の症状が悪くなり、その現状から逃げ出すためにパチンコに通い、浪費し、罪悪感に苛まれ、さらにうつ病が悪化するという悪循環に陥っていました。

 

その日もパチンコ台の前に座っていました。

 

するとケータイのバイブがなりました。

 

何だろうと確認すると父からのメールでした。

 

「お金の使いすぎで、パチンコが母親にばれました。」

 

その瞬間、全身を冷たいものがサーっと流れ落ちて行きました。

 

目の前の台では、大当たりの連チャン中のなのに、さっきまでの興奮が冷め、早く連チャン終われ!と思い出しました。

 

十数分で連チャンも終わり、換金もそこそこに、父親に謝罪のメールを送りました。

 

その後、母親に電話を入れ、謝罪しました。

 

母親は、あまり怒らず(呆れていた、情けないと思っていたのかもしれません)、電話を終えました。

 

罪悪感の絶頂にいました。

 

パチンコに行きたいという気持ちがなくなりました。

 

翌日になっても、パチンコに行きたいという気持ちは湧いてきませんでした。

 

パチンコで当たると、脳内に麻薬物質が出るといいます。

 

その麻薬物質が、依存を起こすと言われていますが、私もそうだったのでしょう。

 

その麻薬物質が出ている最中に、それよりも強い衝撃(父からのメール)が届いたことで、急に依存が治ったようでした。一種のショック療法とも言えるかもしれません。

 

依存症は脱したものの、罪悪感からうつ病は悪化していました。

気を良くした私は、今までのようにパチンコ屋へ通っていました。

 

いかないと気持ちが悪い。

 

完全に依存症です。

 

お金があるときは、4ぱちやスロットを打ちました。

 

もちろん、手に入ったお金は彼女とのデートに使ったりもしていましたが、パチンコへ費やす分の方が多かったです。

 

前回稼いだ17万円も、次第になくなりました。

 

すると、また1ぱちを打つのですが、物足りなさを感じていました。

 

当時の私は、大学入学からずっと親からの仕送りで生活していたのですが、

 

とうとう、その仕送りに手を出してまで打つようになりました。

 

口座から3万円引き出し、スロットで消える。

 

すぐにお金を下ろすと不審に思われるだろうと、しばらくは控えるのですが、それが辛くてたまらない。

 

業を煮やして、1万円だけ下ろして1ぱち。

 

こんな感じで、親への罪悪感に苛まれながらも、パチンコ屋へ行くことを止められませんでした。

翌々日。

 

スロットで勝った6万円を握りしめ、近所のパチンコ屋へ。

 

彼と一緒でなければ到底スロットには手を出しづらかったので、パチンコをしました。

 

いつもと違うのは、1ぱちではなく4ぱちだということ。

 

何せ6万円あります。

 

小さな勝負に出る必要はありません。

 

1万円が水の泡になった頃でしょうか。

 

当たりを引きました。

 

その後は連チャンが続き、

 

5時間ほど、ひたすら玉を眺めていたでしょうか。

 

その店は1ぱちと4ぱちの台があるものの、ほとんどの人は1ぱちを打っています。

 

4ぱちの設置台数のがはるかに多いものの、打っている人は2、3人です。

 

そんな中、私のような若造が、4ぱちの台に座り、足元には出玉のケースの山。

 

そこに置ききれなくなった分は、店の中央にピラミッド。

 

私の近くを通る客が羨望の眼差し(だと思っていました)で私を見ています。

 

なんだか、愉快な気持ちでした。

 

5時間経って、出玉や40000発以上だったとおもいます。

 

しめて12万円ほど勝ちました。

 

前回のスロットと合わせて、急に17万円が手に入ったのです。

 

今までに、手にしたことのない金額です。

 

完全に、私の何かが壊れました。