おじさんの依存症日記。 -2ページ目

おじさんの依存症日記。

何事も、他人に起こっている限り面白い。

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 夕食刻になった。 キッチンから、カレーのいい匂いがする。 食欲をそそる薫りだ。

 

 おじさん、そろそろ夕食が食いたいと、母トミエ89歳に声をかけた。 「あい」 という返事。 「献立は?」 と問うと、「冷やし中華かザルソバ」 との答え。 あれれ、カレーは?

 

 おじさん、ダイエットのため、夕食は麺類で軽めにと決めている。 だから母の答えは、至極正当なものだった。 しかし、カレーはどこに行ってしまったのだ。

 

 母、「わたしが作って、ひとりで食べた」 とのこと。

 

 しかし匂いを嗅いでしまった以上、無性にカレーが食いたい。 で、熱いカレーそば、作ってくんない、と申し出た。 母は、「あい」 といった。 そしてそのあと、麺は中華なのか蕎麦なのかと聞いてきた。

 

 もちろん蕎麦なのだが、事ここに至って、ついに積年の母と子のわだかまりを解消する機会が巡ってきたことに気がついた。 母の作るカレーうどん、カレー蕎麦は、茹でた麺に直接カレーをかけたものだった。 ライスの代わりのうどん、蕎麦。 つまり、家庭の人たるわたしの母は、外でカレーうどん、カレー蕎麦というものを食したことがなかったのだ。 鰹節とおしょうゆのお汁に浸った麺の上にカレーをかけるという発想が思い浮かばなかった。

 

 おじさんちは、特別金持ちでもなければ、特別貧乏というわけでもなかった。 父は家族を大切にする中堅サラリーマン。 それなりに外食にも連れて行ってくれた。 しかしそういうときは、すき焼き、寿司、天ぷら、といった高級店もどきの、大衆店だった。

 

 ファミレスなどなかった時代。ステーキや、フカヒレあんかけも食わせてもらった。 社長の招待の場だったのかもしれない。 家族連れて蕎麦屋にも行った。 でも注文するのは、天ザルとか鍋焼きみたいに、けっこう値の張るものばかりだ。

 

 だから母は、89歳のこの歳まで、お店のカレーうどんやカレー蕎麦を、食したことがなかった。 食ったことがないものを作れという方に無理がある。 

 

 おじさんは、カレーそばのレシピを母に伝授した。 母も、眼から鱗が落ちたような面持ちで聞き入っていた。 母にとって、新たな世界が開けた瞬間だったに違いない。

 

 出来あがったカレーそばは、美味しかった。 サイドメニューは、サラ・スパと小エビとシメジのマヨネーズ和え。 そして、だだちゃ豆。

 

 母と子の距離を、カレーそばが一気に縮めた夕餉であった。

                     コラム】「過激にして愛嬌あり」宮武外骨と滑稽新聞のこと | 月刊コモンズ

 

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 みやたけ がいこつ (慶応3年・1867~昭和30年・1955)

 香川県生まれ。 明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、新聞史家、社会風俗研究家。 18歳のとき亀四郎から 「外骨」 と改名。 戸籍上の本名とする。 晩年は 「とぼね」と読ませた。

 大日本帝国憲法発布の1899年、当時発行していた 『頓知協会雑誌』 に 「大日本頓知憲法」 なるパロディを掲載し、不敬罪に問われて入獄。 東京での新聞、雑誌発行が権力の妨害によって困難となったため、その後大阪で 『滑稽新聞』 を刊行。 最盛期には月刊8万部を売った。

 生涯にわたって反権力を貫き通し、筆禍による入獄4回、罰金刑、発行停止・禁止処分は約30回にのぼる。 晩年は、東京帝国大学新聞雑誌文庫を設立し、初代主任として膨大な資料の収集と整理にあたった。

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 大正2年 (1913) 外骨は自ら創刊した月刊誌 『不二』 に 「墳墓廃止論」 を発表した。 「無用の長物、あって何ら益のなきは、かの墳墓地なりとす」 と書き、死体はことごとく風葬すべしと主張した。

 階級社会において、人間が平等であるときはわずかに生まれるときと死ぬときしかない。 しかるに金と地位のある者は、ひとりで広大な面積の墓地を占有している。 墓地の存在は、死んでもなおかつ差別の中に身を置かなければならぬ宿命を人間に課す。 粉にして撒いてしまえば差別はない。 

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 大正10年 (1921) 4月に出版した 『一癖随筆』 で、伝統的な 「家」 という制度が人間差別の根本にあることを指摘した外骨は、「現にわが国には姓のない御方がある」 と、天皇家に姓のないことの矛盾をつく。 そして自ら率先して 「宮武」 の姓を用いることをやめ、以来 「廃姓外骨」 を名乗ることになる。 これが有名な 「廃姓宣言」 だ。

 いくら大正デモクラシーの追い風が吹いていたといっても、「天皇は神聖にして侵すべからず」 の明治憲法下、反権力者外骨の面目躍如たるものがある。

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 大正13年 (1924) 58歳の外骨は 『東京朝日新聞』 に、<死体買収人を求む> の広告を出した。

 自分は墓を建てない。 子どももいないため宮武という姓も廃するが、自分の肉体を片付けることを心配している。 友達が何とかしてくれるだろうとは思うが、墓を建てられると今の主張に反する。 自認稀代のスネモノ、灰にして捨てられるのも惜しい気がする。 そこで、死体を買ってくれる人を探している。 という内容で、それには条件がつく。

 「仮に千円 (死馬の骨と同額) で買取るとすれば、契約と同時に半金五百円を前払いでもらい、あとの半金は死体と引き換え (友達の呑み代)。 前払いの半金は死体の解剖料と保存料として東大医学部精神科に前納しておく。 ゆえに死体は引き取らずに、すぐに同科へ寄付してよろしい。 半狂堂主人の死体解剖骸骨保存、呉秀三博士と杉田直樹博士が待ち受けているはず。 オイサキの短い者です。 至急申込みを求む。」 

 もちろん、その外骨一流の諧謔に、読者からの反応はなかった。

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 戦後の外骨は、世間からほとんど忘れられた存在だった。 新聞や雑誌に 「故外骨」 と紹介され、そのたびに 「また殺された」 と言って苦笑した。 そして昭和30年、老衰のため89歳でひっそりと息を引き取った。

 質直院外骨日亀居士と名を変えたこの墳墓廃止論者は、遺族の意思によって東京都豊島区の染井霊園に埋葬された。

 計算してみると、おじさんは1年と5ヶ月ほどこの外骨翁と同じ時間と空間を共有していたことになる。

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 「どん底」 という言葉の語源は、明治にある。 当時、品川から羽田にかけての一帯は遠浅の海で、 潮干狩りで賑わった。 正午の 「ドン」 (午報) が鳴る頃、海の底までカラカラに干上がるのでこれを 「ドン底」 といった。

 

 谷崎潤一郎は子どもの頃、品川沖に船で潮干狩りに行き、いちばん先に水の深いところへ飛び降りてズブ濡れになり、父親から 「なんてぇあわてもんだ」 と叱られた。

 

 二枚貝の中でも、日本人に最も親しまれているのはアサリだろう。 潮干狩りの獲物も大抵こいつ。 おじさんも大好きだ。 味噌汁よし、酒蒸しよし、バター炒めも、スパゲティ・ボンゴレも美味い。

 

 

 貝類の美味さの決め手は、コハク酸の含有量にかかっている。 アサリは100グラム中0.33ミリグラム。 ハマグリの倍以上ある。 タンパク質やカルシウムはシジミに負けるが、ナトリウムとリンが多く、さらにビタミンAが飛び抜けて多い。

 

 おじさんは、食べ過ぎや飲み過ぎで胃がムカムカするとき、必ずアサリ汁を飲む。 ウソのようにスッキリする。 これはアサリに含まれるビタミンBの、増血作用による。 ビタミンBは肝臓を強くするし、黄疸を抑える効果もある、酒飲みの必須ビタミンだ。 しかしそれ以外、便秘にもよく効くから、そっち方面に悩む女性の友でもある。
 
 ところが何年か前、大阪湾で採れた二枚貝から高濃度の貝毒が検出されたことがあった。 

 

 貝毒というのは、有毒プランクトンを食べた二枚貝が、その毒素を体内に蓄積させたもの。 大阪の浜で採れたアサリから検出された毒素は、国の規制値の35倍もあった。 これはアサリの剥き身に換算すると10~71個で致死量となるという。 かなりアバウトな数字だが、大阪府環境農林水産部では、「潮干狩りで採れたアサリは、くれぐれも持ち帰らないように」 と警告した。 では、何のための潮干狩りだ。 アホ役人。

 

 貝毒は熱にも強く、煮ても焼いてもダメ。 もし食べてしまったら、どんな症状が出るのだろう。

 

 「貝毒には麻痺性と下痢性があります。 今回、大阪湾の二枚貝に蓄積されていたのは神経生の症状を引き起こす麻痺性の方。 食後30分程度で症状が現われ、舌、唇、手足に痺れが出たり、痙攣を起こしたりする。 重症の場合は呼吸困難に陥り、最悪、死に至ることもあります」             
                     (海洋事情に詳しいフリーライター)

 

 貝毒の原因とされる有毒プランクトンだが、環境破壊や異常気象が原因とする人が専門家にも多い。 だが、ちょっと待ってくれ。 何もかも、環境破壊のせいにするなよな。 温故知新を忘れてるぞ。

 

 古い諺に 「麦の穂が出たらアサリ食うな」 というのがある。 アサリは、産卵期の初夏から初秋にかけては、中毒になるから注意せよ、という意味だ。 戦中から戦後にかけて、静岡と神奈川でアサリによる中毒事故が発生し、126人が死亡した。 当時の食糧事情による、痛ましい事件だ。

 

 古来日本人は、旧暦3月の雛祭りをアサリの食べ納めにし、夏は食べず、中秋の名月の頃からまた食べだすという生活の知恵を持っていた。 

 

 戦後の日本人は、長い歴史に刻まれた、節句や季節行事の持つ意味の重さを忘れてしまった。 古来からの伝統は、戦後のアメリカ的合理主義に埋没した。 「まじない」 だの 「迷信」 という否定的言語の中に封印されて。 いまこそ、わたしたちの先祖が伝えてきた叡智の封印を解き、その 「言霊」 を現代に甦らすときではないか。

 

 大阪湾の二枚貝に貝毒が多いのは、なにも 「♪サヨナラをみんな ここに捨てに 来るから~ 」 ではないのだ。