みやたけ がいこつ (慶応3年・1867~昭和30年・1955)
香川県生まれ。 明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、新聞史家、社会風俗研究家。 18歳のとき亀四郎から 「外骨」 と改名。 戸籍上の本名とする。 晩年は 「とぼね」と読ませた。
大日本帝国憲法発布の1899年、当時発行していた 『頓知協会雑誌』 に 「大日本頓知憲法」 なるパロディを掲載し、不敬罪に問われて入獄。 東京での新聞、雑誌発行が権力の妨害によって困難となったため、その後大阪で 『滑稽新聞』 を刊行。 最盛期には月刊8万部を売った。
生涯にわたって反権力を貫き通し、筆禍による入獄4回、罰金刑、発行停止・禁止処分は約30回にのぼる。 晩年は、東京帝国大学新聞雑誌文庫を設立し、初代主任として膨大な資料の収集と整理にあたった。
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大正2年 (1913) 外骨は自ら創刊した月刊誌 『不二』 に 「墳墓廃止論」 を発表した。 「無用の長物、あって何ら益のなきは、かの墳墓地なりとす」 と書き、死体はことごとく風葬すべしと主張した。
階級社会において、人間が平等であるときはわずかに生まれるときと死ぬときしかない。 しかるに金と地位のある者は、ひとりで広大な面積の墓地を占有している。 墓地の存在は、死んでもなおかつ差別の中に身を置かなければならぬ宿命を人間に課す。 粉にして撒いてしまえば差別はない。
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大正10年 (1921) 4月に出版した 『一癖随筆』 で、伝統的な 「家」 という制度が人間差別の根本にあることを指摘した外骨は、「現にわが国には姓のない御方がある」 と、天皇家に姓のないことの矛盾をつく。 そして自ら率先して 「宮武」 の姓を用いることをやめ、以来 「廃姓外骨」 を名乗ることになる。 これが有名な 「廃姓宣言」 だ。
いくら大正デモクラシーの追い風が吹いていたといっても、「天皇は神聖にして侵すべからず」 の明治憲法下、反権力者外骨の面目躍如たるものがある。
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大正13年 (1924) 58歳の外骨は 『東京朝日新聞』 に、<死体買収人を求む> の広告を出した。
自分は墓を建てない。 子どももいないため宮武という姓も廃するが、自分の肉体を片付けることを心配している。 友達が何とかしてくれるだろうとは思うが、墓を建てられると今の主張に反する。 自認稀代のスネモノ、灰にして捨てられるのも惜しい気がする。 そこで、死体を買ってくれる人を探している。 という内容で、それには条件がつく。
「仮に千円 (死馬の骨と同額) で買取るとすれば、契約と同時に半金五百円を前払いでもらい、あとの半金は死体と引き換え (友達の呑み代)。 前払いの半金は死体の解剖料と保存料として東大医学部精神科に前納しておく。 ゆえに死体は引き取らずに、すぐに同科へ寄付してよろしい。 半狂堂主人の死体解剖骸骨保存、呉秀三博士と杉田直樹博士が待ち受けているはず。 オイサキの短い者です。 至急申込みを求む。」
もちろん、その外骨一流の諧謔に、読者からの反応はなかった。
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戦後の外骨は、世間からほとんど忘れられた存在だった。 新聞や雑誌に 「故外骨」 と紹介され、そのたびに 「また殺された」 と言って苦笑した。 そして昭和30年、老衰のため89歳でひっそりと息を引き取った。
質直院外骨日亀居士と名を変えたこの墳墓廃止論者は、遺族の意思によって東京都豊島区の染井霊園に埋葬された。
計算してみると、おじさんは1年と5ヶ月ほどこの外骨翁と同じ時間と空間を共有していたことになる。