ほしな ひゃくすけ (明治元年・1868~明治四十四年・1911)
保科百助は奇人だった。 だから中年を過ぎても、嫁の来手がなかった。 彼は新聞の 「奇人コンクール」 で優勝して手にした賞金百円を使って、「ワイフ周旋くださるべく候」 という広告を出した。
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一、門閥は第一流にてもさしつかえなく、下にてもよろしい。
一、財産は大地主にても苦しからず、赤貧洗うがごとくでもよし。
一、容姿はかくべつ別品である必要もないが、一見不快の念を起こさぬような者の愛嬌たっぷり、二重まぶた、両えくぼはすこぶる必要な条件にてご座候。
一、才気はむしろないほうが安全。 女子の才子と来ては、少しく閉口いたし候。 むしろウスノロジストの方、しかるべく候。
一、体格は仁王さまを負かすようにても苦しからずとも、また豆粒大にても可。 いずれにしても肥満体がよく、骨と皮ばかりは断じて不可。
一、おしゃべりは無用。 むしろ唖娘 (おしむすめ) のほうがよい。 「うちのやどろく、酒ばかり飲んで、愚図でトンマでへちまで野暮で、そのくせアタイに帯もたすきも、買うてはくれず、ホンにショ事ないわいな」 などと来客の前で棚卸しされてはたまらん。
これを要するに上等ワイフなら、下女小間使いを与え、あひるのふとんの上に安置してもよいが、下等ワイフなら下女働きを申しつける予定である。
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もちろん、応募してくる女性がいるはずもなく、彼はこんな狂歌を作って、妻を求める真情を訴えた。
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年とってみれば無闇に思うかな この世でどうか、かかを欲しなと
人のかか見るたびごとに思うかな うちにもこんなかかを欲しなと
別品を見るたびごとに思うかな 一夜でもよしかかに欲しなと
おもうかな又おもうかな思うかな おもい焦がれてかかを欲しなと
どうしてもないというなら思うかな 森羅万象かかに欲しなと
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反骨の地方教育家として知られる百助は長野県生まれ。小学校教師となるも、34歳のとき、何を思ったか突然職を辞し、県下の鉱石標本の採取に専念する。 その後、自ら中等学校の塾を設立して、地方教育の普及に努力した。 権威主義とアカデミズムを排撃し、地方教育界が中央集権のパラダイムに組み込まれてゆく風潮に、生涯抵抗し続けた。
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辞世の歌
われ死なば共同墓地へすぐ埋めつ 焼いてなりとも生までなりとも