アリエン・ロッベン
アリエン・ロッベン
(Arjen Robben、1984年1月23日 - )
オランダフローニンゲン州ベドゥム出身の同国代表、FAプレミアリーグ・チェルシーFC所属のサッカー選手(MF・FW)マルク・オーフェルマルスの後継者とも言われる。
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オランダ代表・チェルシー双方で既に欠かせない戦力となっている左利きの超高速ウインガー(チェルシーのモウリーニョ監督は、2冠を制したチェルシーにおいて「ただ1人代えのきかない選手」と評価している)
この若さで元オランダ代表選手たちが選ぶ歴代オランダベストイレブンに名を連ねる程の選手。
手の振り方が特徴的な歩幅の大きい切れ味鋭いドリブルと精度の高いクロス、そして強烈なシュートを併せ持つ。
フローニンゲン在籍時の2000年、16歳でプロデビュー。
すぐさまクラブの中心的プレイヤーとなり、2002年にPSVアイントホーフェンへ移籍。
ここでも1年目から12ゴールを挙げる活躍を見せ、オランダの年間最優秀若手選手に選ばれる。
2004年、マンチェスター・ユナイテッドとの激しい争奪戦の末、移籍金1800万ユーロ(約24億円)でチェルシーFCが獲得に成功、以降活躍の場をプレミアリーグに移している。
オランダ代表デビューは2003年4月のポルトガル代表戦だが、彼の名が世界中に轟いたのはEURO2004での活躍ぶりからだろう。
チェコ戦での2アシストをはじめ、対面するDFを圧倒するドリブルとミドルシュートは驚異的で、20歳にして既に大物の風格を漂わせていた。
彼をチェコ戦で途中交代させた当時のオランダ代表監督ディック・アドフォカートはメディアからの激しい批判に晒された。
そのEURO2004の後、プレシーズンに負った怪我の影響でプレミアリーグでのデビューこそ遅れたものの、11月に復帰するや否や大活躍し、当時、守備的で退屈だと揶揄されていたチェルシーのサッカーを殆ど1人で変えてみせた。
同月のプレミアリーグ月間最優秀選手賞にも輝いている。
その後も怪我に悩まされながらチェルシーの二冠制覇に貢献。
本職は4-3-3の左ウィング。
しかし、2006-07シーズンはシェフチェンコの加入によりクラブは4-4-2へとシステムを変更する。
このため出番が激減している。
2004年初頭に睾丸癌を患っていたこと(既に克服済み)を最近になって告白し、話題となった。
サッカーのプロ契約する前は、テニスも掛け持ちで行っており、どちらを選ぶか迷っていた。
ほぼ左足一本でドリブルしかしないながらもそれだけで局面を打開できる素晴らしい突破力を誇る、スピードに乗った状態でも精度の高いクロスを上げることができる、ミドルレンジからのシュートも人並み以上のものはあるが、ネットを揺らすことはそれほど多くない。
また、天才にありがちな怪我が多いのは大きな弱点。
ドリブルで相手のタックルに対してシミュレーション(わざと倒れてファウルを誘い審判を欺くこと)とも取れる行為が多い。
だが、ロッベン自身はこのことを否定している。
味方を無視した利己的なプレーもたびたび見られ、オランダ代表では不和をかもし出す原因のひとつとなっている。
2006年ドイツW杯において、オランダ代表として出場。
オランダ代表は、アルゼンチン、セルビア・モンテネグロ、コートジボワールと同じC組で「死の組」と呼ばれる激戦区に入った。
2006年6月11日、ドイツ・ライプチヒで行われた初戦のセルビア・モンテネグロ戦は、「死のC組」を突破するうえでも非常に大事な一戦であった。
セルビア・モンテネグロは、欧州予選10試合1失点の堅守で突破し、しかもモンテネグロが分離独立するためセルビア・モンテネグロとしては最初で最後の大会となるためセルビア・モンテネグロのモチベーションは高く、初戦の相手としては手強い相手であった。
ワールドカップデビュー戦であるロッベンは、前半18分ファン・ペルシーからのパスをディフェンスラインの裏をついて受け取ると、そのスピードでDFを快足で置き去りし、飛び出してくるGKの動きを冷静に見極めてゴールを決めた。
結局このゴールが決勝点となって、ロッベンはオランダ代表としての初陣を飾った。
★選手経歴★
CVVベドゥム(オランダ) -1996
FCフローニンゲン(オランダ) 1996-2002
PSVアイントホーフェン(オランダ) 2002-2004
チェルシーFC(イングランド) 2004-
クリスティアーノ・ロナウド
クリスティアーノ・ロナウド・ドス・サントス・アヴェイロ
(Cristiano Ronaldo dos Santos Aveiro、 1985年2月5日 - )
ポルトガル・マデイラ諸島出身の同国代表、マンチェスター・ユナイテッド所属のサッカー選手。ポジションはMF(SH)、FW(WG)
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独特なリズムと、シザーズ、ラボーナなど巧みなフェイントを取り入れた高速ドリブルを駆使し、相手DFを混乱に落としいれる。
足の長さとスピードを最大限生かし通常のドリブラーが避ける「球を足から離す」といったことも多用する。
ややエゴイスティックな部分があり、球離れが悪いのでドリブル突破が得点に結びつきにくかったが、そのウィークポイント(弱点)も徐々に改善されつつある。
左右両方のサイドで同じレベルのプレイができる。(しかし不調の時は利き足ではない左足の精度が極端に悪い。)
ジュニーニョ・ペルナンブカーノ、アンドレア・ピルロのように揺れて落ちる無回転シュートを蹴ることが出来るが、現状で精度はあまり高くない。
ファウルを貰いに行く傾向が非常に強く、倒しにきた相手には逆らわずに倒されるタイプである。
シミュレーションと思われる行為が多いためアウェイではよくブーイングを受けている。
今シーズン(2006-07)は、得点力もアップし、現時点で得点ランキングは、1位のドログバに次ぎ2位という好位置にいる。
マーカーが勢いあまって吹っ飛ぶほどの、高速ドリブルからの突然停止は必見の妙技。
FKにも磨きをかけ、フルアム戦では左右に揺れる不思議な弾道でネットを揺らした。
目にも止まらぬスピードで七色のフェイントを連発し、敵の視線を揺さぶる。
それでいて、上半身は常に真っ直ぐ立てられ、敵の体に生じるわずかな隙を見逃さない。
華麗なドリブル突破はこうして達成される。
1996年、スポルティング・リスボンユースへ入団した。
2002年にリーグ戦デビューを果たし、クラブ史上最年少でゴールを決めた。
世代交代を進めているポルトガル代表にとってもロナウドへの期待は大きく、2003年8月20日のカザフスタン戦でデビューを果たした。
時を同じくして、移籍金1200万ポンド(約22億円)という10代の選手としては破格の移籍金でマンチェスター・ユナイテッドへ移籍し、背番号もレアル・マドリードへ移籍したデビッド・ベッカムが付けていた7番に決まった。
また、EURO2004では初戦のギリシャ戦で代表初得点を決め、全試合に出場して準優勝に貢献した。
サッカーW杯ドイツ大会でも代表の主力メンバーとして活躍。
得意技の高速ドリブルを幾度となく繰り出して敵陣を切り裂いた。
ニックネームはよく涙を流すことから「クライベイビー」。
しかし、サッカーW杯ドイツ大会の準々決勝対イングランド戦で、チームメイトのリカルド・カルバーリョの局部を踏んだウェイン・ルーニーの行為を主審に訴え、ルーニーが退場になるとベンチに向かってウインクをしてみせた。
その写真が新聞に載ったため、次の対フランス戦ではボールに触るだけで猛烈なブーイングを観客から浴びる。
しかし全く動揺することなく普段どおりのプレーを見せるなど、図太い一面も持ち合わせている。
ゴールを決めたときに行うユニフォームを脱ぐパフォーマンスで、見事に鍛え上げられた上半身を披露し、ティーンエイジャーを中心に多くの女性たちを酔わせた(現在はゴールパフォーマンス時のストリップはFIFAによって原則禁止となっているので、イエローカード覚悟の時でなければ彼の肉体美を楽しむことは出来ない)。
ポルトガル代表では既にレギュラーを確保しており、ポルトガルの将来を担う若きスタープレイヤーである。
2007年2月6日に行われたブラジルとの親善試合では初のキャプテンを務めた。
甘いマスクに定評があり、ポルトガルだけでなく欧州の女性に爆発的な人気がある。
ロナウドのドリブルについて「フェイントがワンパターン」「数ステップは基本的に抜きにかかることがない」などの批判があることも事実。
しかし、彼は遊び心あるドリブルが自分の武器だと考えていてスタイルを変えるつもりはないらしい。
名前の由来は亡くなった父親が「ロナルド・レーガン元アメリカ大統領のようになってほしい」ということから名付けられた。
4人兄弟の末っ子で姉2人、兄1人がいる。
2番目の姉リリアナさんはポルトガルで歌手をしており「Ronalda」という芸名でCDデビューしている。
06年11、12月とプレミア2ヶ月連続月間MVP受賞。
ロビー・ファウラーとデニス・ベルカンプに続きプレミア史上10年ぶり3人目の快挙となった。
彼のデビュー戦の後伝説の男ジョージ・ベストに「私の後継者になりうる」といわせたほどで、チーム側は彼の今後にかなりの期待を寄せている。
★所属チーム★
CDナシオナル(ポルトガル)1995年-1996年
スポルティング・リスボン(ポルトガル) 1996年-2002年
マンチェスター・ユナイテッド(イングランド) 2002年-
マヌエル・ルイ・コスタ
ルイ・マヌエル・セーザル・コスタ
(Rui Manuel César Costa、1972年3月29日 - )
ポルトガル・リスボン出身の元同国代表,ベンフィカ所属のサッカー選手。ポジションは攻撃的ミッドフィールダー(トップ下)。ポルトガルが生んだファンタジスタ。
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1991年地元開催のワールドユースで優勝を果たし、ルイス・フィーゴらとともにポルトガルサッカー黄金世代の筆頭となる。
1991年、ベンフィカでプロデビュー。
1993年のスイス戦でA代表デビューを果たす。
1994年にはイタリアセリエAのフィオレンティーナに移籍し、ガブリエル・バティストゥータとのコンビでさらなる高みへ上る。
ポルトガル代表のエースとしても成長し、1996年の欧州選手権ではベスト8、2000年の欧州選手権ではベスト4へチームを導く。
2001年にはイタリアの名門・ACミランへ移籍。
2002年日韓ワールドカップで念願のW杯出場を果たすも、怪我からコンディションを崩しており本大会では3試合で途中交代、途中出場、出場なしと大きな活躍を見せることは出来ないまま大会を去った。
EURO2004を最後にポルトガル代表を引退した。
33歳となっても華麗なプレーで観客を楽しませていたが、ブラジル代表のカカの活躍により出場が減り、05-06シーズンをもってミラノを去り、古巣ベンフィカに復帰することとなる。
ペレが選んだ偉大なサッカー選手100人、『FIFA 100』に選ばれた。
高度のテクニックをベースに攻撃を操る天才的なパサー。
常に敵との間合いを意識した緩急を織り交ぜたドリブルで敵陣の隙間を縫うようにボールを進め、DFがチェックにいこうとした瞬間に鋭いスルーパスを放つ。
姿勢の良いボールキープでピッチ全体の視野を確保、両腕を広げるようにして進む独特のドリブルと鋭いグラウンダーパスで見る者を魅了している。
シュートでは、ゴールに叩き込むというより、パスの特徴をそのままにした狙った位置にパスを出すような打ち方をすることがある。
★所属チーム★
ベンフィカ 1991-1994
フィオレンティーナ 1994-2001
ACミラン 2001-2006
ベンフィカ 2006-