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ジネディーヌ・ジダン





ジネディーヌ・ジダン
(Zinedine Yazid Zidane, 1972年6月23日 - )

フランス国籍の元サッカー選手。2006年7月9日のドイツW杯決勝(対イタリア戦)が現役最後の試合になった。

アルジェリア移民の二世で、マルセイユ北部郊外のラ・カステラン地区の貧困な団地で育った。

ポジションは攻撃的ミッドフィールダー(トップ下)。

愛称「ジズー」「将軍」(同じフランスのミシェル・プラティニもかつて将軍と呼ばれており、初期の愛称は「プラティニ2世」)

http://www.youtube.com/watch?v=dYUtKKbBTkw

1989年5月20日、フランスのASカンヌでトップチームデビューを果たす。

1992年7月、カンヌの2部降格に伴いFCボルドーに移籍。

1994年8月17日、チェコ戦でフランス代表デビュー、後半18分からの途中出場ながら2得点を挙げる。

1996年6月、欧州選手権出場。チームはベスト4に進んだが、自身は直前の交通事故の影響で目立った活躍は出来ず。

1996年7月、イタリアのユヴェントスに移籍。

1996年11月26日、トヨタカップ優勝。彼にとって初めてのメジャータイトルとなる。

1998年、地元フランスで開催されたFIFAワールドカップ・フランス大会に出場。決勝戦ではヘディングで2得点をあげるなどの活躍。フランスの初優勝に大きく貢献し、世界的スターとなる。

1998年、欧州最優秀選手,FIFA最優秀選手賞を受賞。

2000年、欧州選手権優勝。2度目のFIFA最優秀選手賞受賞。

2001年7月、史上最高額となる7,500万ユーロ、約88億円(推定)の移籍金でユヴェントスからスペインのレアル・マドリードに移籍。この記録は未だ破られていない。

2002年、チャンピオンズリーグ優勝。ファイナルでは決勝点となった伝説的なボレーシュートを叩き込む。



2002年、FIFAワールドカップ・日韓大会では、大会直前の韓国代表との親善試合で発症した左太もも肉離れの影響で、包帯を巻いて強行出場したデンマーク戦1試合の出場にとどまり、フランス代表もグループリーグで敗退。

2002年、日清食品・カップヌードルのCMモデルとして出演(「ジダンが地団駄」編)。

2003年、レアル・マドリーでの活躍が評価され自身3度目となるFIFA最優秀選手賞受賞。

2004年に行われた欧州選手権では3得点を挙げるも、チームはベスト8で敗退。

2004年8月12日、フランスのテレビ番組にて体力の限界を理由に代表引退を表明。

2005年8月3日、ドメネク監督の説得を受け、クロード・マケレレ、リリアン・テュラムと共にフランス代表に復帰することを自身のウェブサイトで表明。

パトリック・ヴィエラからキャプテンマークを譲り受け、予選敗退危機にあったフランスをFIFAワールドカップ・ドイツ大会に導く。

2006年4月26日、体力的な衰え等を理由にドイツW杯限りで現役を退く意向を発表した。

2006年5月14日、レアル・マドリードでの最後の試合に出場。契約を1年残しクラブから引退した。

2006年7月9日、FIFAワールドカップ・ドイツ大会決勝の延長戦後半、マテラッツィに対する頭突き行為によりレッドカードを受け、退場。

チームも準優勝に終わり、ジダンのサッカー人生は思いもよらぬ形でその幕を閉じた。

しかし大会中の活躍が評価され、カンナヴァロらを抑えて本大会のMVPに輝いた。



サッカー史上最も偉大な選手の一人と評価されており、90年代後半から2000年代前半までの全盛期においては「世界最高のサッカー選手」と称えられた。

FIFA最優秀選手賞3度、バロンドール、ゴールデンボール賞などの個人タイトルに加え、ワールドカップ、ユーロ(欧州選手権)、トヨタカップ、チャンピオンズリーグなどの主要タイトルをすべて制覇。

アルジェリア移民2世という彼自身の出自も手伝って、移民国家の象徴としてフランスではスポーツ選手の枠を超えた絶大な人気を誇る。

パス、ドリブル、トラップといったボールを扱うテクニックは超一級品で、シュート、フリーキックの精度も高く、ボールコントロールに関しては歴代の名選手の中でも別格。

185cmの恵まれた体格の上体を生かして懐深くボールをキープ、両足を巧みに使いながら複数の相手DFをかわし、抜群の視野の広さを持って前線へ正確なパスを送るプレーが彼の真骨頂。

まるで踊っているかのような優雅なボールキープで試合を支配する様は指揮者を意味する「マエストロ」と評される。

ジダンの周りだけ違う時間が流れている様に見える独特のボールタッチや、殆ど倒れそうな状態からでも正確なパスを送る事のできるバランス感覚など、人間技とは思えないほどのプレーをすることから、宇宙人とのニックネームもつけられた。

世界的スターが集まった2000年代前半のレアル・マドリードでも、彼の存在感は際立っており、多くの評論家・解説者が「ジダンのプレーは次元が違う」「彼は別の惑星から来た選手なのか」とため息を漏らしていた。

見ている側からは上手くて華麗といった評価がほとんどであるが、実際に戦った選手からは特にフィジカルの強さを強調する感想が多く、ボールをとられないためにテクニックだけでなく当たりの強さも持ち合わせていることが彼のプレーの下支えとなっている。

得点力に関しては歴代名選手と比べると物足りない部分があるとされ、2006年1月15日のセビージャFC戦でのハットトリックはプロ17年のキャリアを通じ初めてのことであった。

一方で、ジダンのプレイスタイルはストライカーとは異なっており、一概に過去の名選手との得点力を比較することはできないとする意見もある。

彼の得意技「ルーレット」とは、ドリブルの途中、両足の裏でボールを転がしながら一回転をし、プレスに来た相手選手をかわす技。

彼が考案した技ではないが、トッププレーヤーでこの技を試合中に頻発させるのは彼以外にいないため、ジダンの代名詞ともなっている。

ただし彼自身、必要な場合に使うのであって相手選手に失礼になるような使い方をしてはならないと発言をのこしている。

ちなみに、彼のルーレットを特別にマルセイユ・ルーレットと呼ぶのは日本だけである。

2006年ドイツW杯では現役引退するということで日本でも注目を集め、マルセイユ・ルーレットを知らなかった人にも有名になったが最近では、マルセイユ・ルーレットは日本人がジダンの出身地からもじった名前だとは知らずにそれが正しい名前と思い込みマルセイユ出身でない全く別の国の選手がルーレットをする時にもマルセイユ・ルーレットと言ってしまう傾向がある。



また、大きな大会になるほど力を発揮するのも彼の特徴である。

ワールドカップ通算12試合5得点、欧州選手権通算13試合5得点。

W杯決勝通算3得点はペレ・ババ・ハーストと並び史上最多タイ、また2大会に渡る決勝戦でのゴールはペレ・ババ・ブライトナーに続き史上4人目。

1998年のFIFAワールドカップ・フランス大会ブラジルとの決勝戦で、ジダンはCKからのヘディングで2得点を挙げる。

とりわけ、2点目はブラジルの守備の要であったドゥンガを弾きとばして得点を決めた。

ブラジルはジダンはヘディングが苦手ということでほとんどノーマークであった。

EURO2004グループリーグ・イングランド戦ではロスタイムに2ゴールを決め逆転勝利に貢献。

現役最後の大会となったW杯ドイツ大会でも、低調だったグループリーグから一変、決勝トーナメントでは全盛期を彷彿とさせるプレーでフランスを決勝にまで導いた。

準々決勝ブラジル戦ではアンリの決勝ゴールをアシストし、この試合のMVPに選ばれた。

これまでジダンのアシストからアンリがゴールを決める場面は、共に出場したフランス代表55試合で1つもなく、メディアからの批判を受けていたが、これが初めてにして唯一のアシストとなった。

また、2002年チャンピオンズリーグ決勝のレバークーゼン戦でのゴールは、彼のテクニック・勝負強さを最も物語っているプレーであり、選手ジダンのハイライトとも言える。

1対1の同点で迎えた前半終了間際、ロベルト・カルロスが左サイドから送った山なりのボールを、ペナルティエリアの外から左足でダイレクトボレーシュート。

ボールは綺麗な弧を描きゴール左上隅に突き刺さった。

サッカー史上最も美しいゴールのひとつと言われるこのボレーが決勝点となり、ジダンはキャリア初のチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた。

敬虔なイスラム教徒であり、パーティーなど華やかな生活を好まない。

インタビュー等で見られる、はにかみ屋で静かな話し方から、謙虚で控えめな性格と評される。

チャリティー活動も熱心に行っており、人望も厚く、ピッチの外では非常に温厚なことで知られている。

また、子供時代からのアイドルは、元マルセイユのエンツォ・フランチェスコリ(ウルグアイ代表)

子供にエンツォの名前を付けるほど尊敬しており、選手として初めて対戦した1996年トヨタカップではユニフォーム交換をし、非常に感激した様子であった。

しかしながら、試合において、暴力行為により警告を受けたり退場になったりした回数は少なくない。

キャリアを通じて受けたレッドカードは通算14枚。

有名なところでは、1998年フランスW杯でサウジアラビアの選手を両足で踏みつけ(2試合出場停止)、ユベントス時代の2000年チャンピオンズリーグではハンブルガーSVの選手へ頭突き(5試合出場停止)、レアル・マドリード時代の2004年リーガ・エスパニョーラではムルシアの選手に対して頭突き、また、2005年のリーガではビジャレアルの選手に対して突然平手打ちをするなど、瞬間的に頭に血が上りやすいことでも知られている。

2006年ドイツW杯の韓国戦で警告累積、次の試合が出場停止になった際、スタジアム内の扉を蹴り壊した。

通常は修繕されるものだが、施設側は「サッカー史上最も偉大な選手の一人に蹴られた扉」ということでそのまま保存することに決めた。

また、引退後の東南アジアで行われたチャリティマッチに参加したが、中国からのチャリティマッチのオファーを「中国人は汚いプレーをする、もう中国でサッカーをしたくはない。」と言い拒否した。

現役最後の試合となったイタリアとの決勝戦延長後半5分、相手DFマテラッツィの胸元に頭突きを喰らわせて一発退場。

その直前に、ジダンとマテラッツィは2,3の言葉を交わしており、両者ともその内容について沈黙を続けたため、世界中で様々な憶測が飛び交い、マテラッツィによる人種差別発言の有無も取り沙汰され、社会問題となった。

7月12日夕方(仏時間)フランスのTV局カナル・プリュス及びTF1によるインタビューでジダンは事件後初めて沈黙を破り、「母と姉を傷つけるひどい言葉を繰り返された」と語った。

また自身の行為について、「20億、30億人が見守る中での私の行為は許されないもので、特にテレビを見ていた子供たちに謝りたい」と謝罪の意思を述べたものの、「W杯決勝の、しかもサッカー人生の終了10分前に面白半分にあんなことをすると思いますか?」「後悔はしていない。後悔をすれば、彼(マテラッツィ)の行動を認めることとなってしまう」と語り、頭突きをした行為自体は後悔していない事も強調した。

7月20日、FIFAの規律委員会は、出場停止3試合及び罰金7500スイスフラン(処分当時の円換算で約70万円)の処分を決めた。

ただし、出場停止処分については、彼自身がすでに現役引退を表明しているため、社会奉仕活動3日間の義務付けとなった。(→ジダンの頭突き問題を参照)



★所属チーム★

1988年-1992年 - カンヌ(フランス) 61試合6得点
1992年-1996年 - ボルドー(フランス) 140試合28得点
1996年-2001年 - ユヴェントス(イタリア) 151試合23得点
2001年-2006年 - レアル・マドリード(スペイン) 155試合38得点


ロベルト・バッジョ



ロベルト・バッジョ
(Roberto Baggio 1967年2月18日 - )

イタリア共和国ヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身のサッカー選手。「イタリアの至宝」と称され、現役を退いた今も世界中に多くのファンをもつ。

http://www.youtube.com/watch?v=otwjbMQSNuw&mode=related&search=

華麗なプレースタイルはアレッサンドロ・デル・ピエロやフランチェスコ・トッティらが、その系譜となる。

今ほどCSやBSが普及していなかった頃からでさえ、彼の名は日本で知られていた(それとは別だが親日家である)

イタリアの女性が求める「力強さと美しさ」を併せ持つ稀な存在。

趣味はハンティング。

通称は「ロビー」、愛称は「コディーノ」(馬の尻尾。髪型に由来する)。

03-04シーズンで現役引退。

セリエA通算205ゴールは歴代5位。

使用スパイクはデビューから引退までディアドラ(1999年、イタリア代表での試合など一時期のみkappaを使用)。

一言でいえばファンタジスタ。

重心の低いドリブルはスピードとテクニックを兼ね揃えディフェンダーは彼の間合いになる前にボールを奪う必要がある。

シュートはコースをついたテクニカルさを持ち味とし、キーパーのキャッチしづらいコースを狙う。

この点では、シュートとは「スピード」でなく「コントロール」が重要である、ということの証明であり現役選手のよき見本であろう。

プレースキッカーとしても一流で、FKは非常に精度が高く、元ブラジル代表のジーコに「バッジョのFKは素晴らしい、もし同じ時代にプレーしていたなら習っていただろう」と言わしめた。

ここ一番の無類の勝負強さを持ち合わせており、代表、クラブのいずれでも発揮された。

晩年は、さすがに多少スピードは衰えたが絶妙なボールコントロールと見事な動きで得点感覚も衰えることはなく03-04シーズンには、パサーやゲームメーカーとして、生粋のストライカーではないにも関わらず、セリエA史上5人目となる通算200得点も達成した。

カトリック信者の多いイタリアにおいては珍しい熱心な仏教徒(創価学会インターナショナル会員)であるが、これは若手時代に膝の怪我で苦しんでいた頃に信心し始めたもの。

漢字で「必勝」と書かれたキャプテンマークを巻くこともあった。

また彼の自伝に、創価学会名誉会長兼創価学会インターナショナル会長の池田大作氏が、端書を寄せている。



1981年にセリエC1のヴィチェンツァでデビューした。

1984-85シーズンに12得点を記録し、1985年にはセリエAのフィオレンティーナに移籍した。

ところがフィオレンティーナ移籍後に右膝十字靭帯断裂の怪我を負い、移籍後の1985-86シーズンは未出場(コッパ=イタリアでの試合には出場)、1986-87シーズンも数試合の出場にとどまってしまう。

だが、怪我の回復した1988-89シーズンには15得点(ヴィオラはUEFAカップ出場)、1989-1990シーズンには17得点という活躍をした。

1990年には、当時史上最高の移籍金、150億リラで鳴り物入りでユヴェントスに移籍。

1992-93シーズンにはバッジョは21得点を挙げ、チームはUEFAカップを優勝して久々のヨーロッパタイトルを獲得、この功績が認められ、同シーズンのFIFA最優秀選手賞とバロンドールを獲得した。

その後、若手のアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭、若返りを進めるチームはライバルチームであるACミランへ1995年に放出。

ACミランではファビオ・カペッロ(およびアリゴ・サッキ)監督が(ポジションが重なるためとはいえ)FWにはデヤン・サヴィチェヴィッチを重用し、さらにバッジョ本人の怪我もあって、在籍2シーズンを通じてインパクトのある活躍はできなかった。

しかし、ワールドカップシーズン直前の1997-98にボローニャに移籍すると、カルロ・マッツォーネ監督の庇護の下、自己ベストの22得点をマークして結果を残す。

このためイタリア代表監督チェーザレ・マルディーニ(当時)は、バッジョの召集を見送ることができなくなってしまった。

1998年から、 インテルで2シーズン過ごす。

しかしここでも怪我と(特にマルチェロ・リッピ)監督との確執によって再び出場機会が減少してしまう。

このインテル時代のハイライトは、2000年5月23日のパルマ戦(CL出場権プレーオフ)であろう。

このシーズンは、スクデット争いにさえも参加できない低調で無様なシーズンであった。

そのため、クラブ首脳陣はせめてCL出場権を獲得しなければ、監督更迭をも視野に入れていた。

この試合は、まさにバッジョのためのゲームだった。前半35分にFKで先制、同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点を奪う活躍を見せ、ガゼッタ・デロ・スポルト誌での評価点“10”を獲得(通常、最高評価点で有る10が出ることは滅多に無く、引退する選手へのご褒美もしくは生命を救った選手に与えられる)。こ

の試合でバッジョは退団、有終の美を飾り、CL出場権を獲得したリッピは監督続投決定、というなんとも皮肉な結果に終わる。

2000年から、 ブレシアで4シーズンを過ごし、再び信頼するカルロ・マッツォーネ監督の下でいぶし銀の活躍を見せる。

2004年5月16日のサン・シーロでのACミラン戦(2-4で敗戦)を最後に引退した。

この試合で83分にバッジョの途中交代(コルッチが出場)を告げられると、バッジョに対してスタジアム全体からスタンディングオベーションが送られた。

ブレシアの背番号10はクラブの永久欠番となっている。

ちなみに、ブレシアのクラブショップでは彼の引退後も、新しいレプリカユニフォームにNo,10/BAGGIOのネームナンバーが入った物が発売されている。

独自の美学を貫いたため監督と意見が合わず、幾つもチームを渡り歩くキャリアであった(監督の立場としては、怪我が多く常時戦力と期待できない面もあった)。

しかし、守備戦術が横行するファンタジスタ受難の時代においても、バッジョのサッカーセンスは何処でもまばゆい輝きを放ち続けた。



1988年11月16日 オランダ戦でイタリア代表デビュー。

'89年4月22日ウルグアイ戦でアズーリ初ゴール。

1990年イタリア、1994年アメリカ、1998年フランスワールドカップに出場し、3位、準優勝、準々決勝進出と、いずれもベスト8に入った。

ちなみに3大会の敗退はいずれもPK戦によるもので、バッジョは3大会ともPKキッカーをつとめている。

1990年の地元開催では、司令塔にジュセッペ・ジャンニーニがいたためスーパーサブ的立場であったが、グループリーグ第3戦目のチェコスロバキア戦において中盤から単独ドリブル突破を仕掛け、ディフェンダーを次々と抜き去り鮮烈なゴールを決めた。

これはしかし、バッジョ自身のハイライトのひとつとして考えられようが、同じくサブメンバーから大会得点王になったサルバトーレ・スキラッチほどは注目されなかった。

とはいえこの得点は、大会のベストゴールのひとつと数えられ、バッジョはイタリア代表の新たな旗手として世界に名を知られることになった。

彼がスタメンから外れた準決勝ではイタリアはアルゼンチンに1-1の後PK戦で破れ、バッジオを先発させなかったビチーニ監督に非難が集中した。

フル出場した三位決定戦のイングランド戦では先制点を記録し、決勝点となるPKを誘い(蹴ったのは大会得点王のかかったスキラッチ)、幻に終わった試合終了間際のゴールの基点となるなど、存分に持ち味を発揮した。

3大会中、最も存在感を示したのは1994年のアメリカワールドカップである。

ヨーロッパ予選ではイタリアの10番、まさにエースと呼ぶにふさわしい活躍で、さらには前年の1993年にバロンドールを受賞していたこともあって、周囲の期待は大いに高まっていた。

ところが大会直前に右足に怪我を負ってしまう。

一抹の不安を抱えたまま、1994年ワールドカップを迎えた。

不安は現実となり、予選グループ初戦を落としたイタリアは、1勝1敗1分けで辛うじて決勝トーナメント進出という低調にあえいだ(当時の規定でグループ3位ながら救われた)。

気温40度を超すピッチで「ゾーンプレス」戦術が機能しにくかったことが苦戦の原因だが、無得点と精彩を欠くバッジョへの風当たりは厳しく、地元メディアはジャンフランコ・ゾラへの交代を唱えた。

さらに屈辱的だったのは、第2戦ノルウェー戦でペナルティーエリア外での故意のハンドの反則をしたGKジャンルカ・パリュウカが退場処分となった際、アリゴ・サッキ監督が控えGKルカ・マルケジャーニの投入のためにバッジョをベンチに下げたこと(このとき、バッジョはサッキに対して「狂っている」と漏らしたといわれる)である。

試合後に監督は「(足を怪我して)走れないバッジョを人数の少なくなった状況では使いづらいから」と説明したが、エースと監督の信頼関係は微妙なものになっていった。

しかし、チーム内は徐々に意識統一が明確となり、サッキは1人の力に依存する方法に否定的ではあったが、選手達にはバッジョを中心とした攻撃態勢が整いつつあった。

決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦も先制を許し、しかも反撃の切り札で投入したゾラが退場処分となり1点を追い掛ける苦しい展開になった。

しかし、試合終了直前の89分、ついにバッジョが劇的な同点弾を決め、延長戦でもPKを沈めてエースの真価を証明した。

同点弾は冷静にコースを狙ったバッジョらしいシュートで、地元新聞は「アズーリを帰りの飛行機のタラップから引きずり下ろした」と見出しを打って賞賛した。

その後も、眠りから醒めたようにバッジョはゴールを量産した。

準々決勝のスペイン戦でも再び終了直前にカウンターから決勝点をあげて、2-1で勝利。準決勝のブルガリア戦でも続けざまに芸術的な2得点を挙げて2-1と勝利した。

決勝トーナメントの準決勝までの3試合でチーム6得点中5得点、どのゴールも試合を逆転・決定するもので、酷評から一転して救世主扱いとなった。

しかし、準決勝で右足を再び痛め、決勝への出場が危ぶまれた。

決勝のブラジル戦はバッジョとロマーリオのエースFW対決(大会得点王争い)が見所のひとつであったが、バッジョは強行出場したものの精彩を欠き、試合はワールドカップ決勝史上初のPK戦となった。

ブラジルがリードを保ったまま最終キッカーであるバッジョの番となるが、激しい疲労のためゴール上に打ち上げてしまい、イタリアは優勝を逃した。

このとき撮影された、呆然とするバッジョの後姿の写真はあまりにも有名である。

大会MVPはロマーリオに譲ったが、バッジョは悲劇の英雄としてサッカーファンの胸に感動を刻んだ。

しかし、後にサッキ監督がバッジョのスタメン志願を「チームに不利益を招いた」と非難し、しばらく代表から遠ざかる結果となった。

1998年フランスワールドカップではデル・ピエロに10番を譲ったが、負傷開けの後輩に代わり要所でベテランらしい仕事ぶりを見せ、2得点1アシストをマークした。

初戦チリ戦では因縁のPKを決めてトラウマを払拭。

準々決勝のフランス戦も途中出場し、延長後半に決定的ともいえるボレーシュートを放つ。

難しい体勢からながらも全盛期のバッジョを彷彿とさせる一瞬であったが、イタリアにとっては惜しくも(そしてフランスにとっては胸をなでおろす)ボールはクロスバーを越えていった。

結局、イタリアは3大会連続PK戦敗退という失望を味わうが、今回最後に失敗したルイジ・ディ・ビアージョを優しく慰めるバッジョの姿が印象的であった。

この後も現役を続けたが、1999年以降は代表からは遠ざかる。

現役引退を表明後の2004年4月28日にジェノヴァで行われたスペインとの親善試合にキャリアへの敬意から特別招集され、この試合を最後に代表を引退した。

尚、ロベルト・バッジョのイタリア代表ゴール数は56試合27ゴール。

そのうち得点を決めた試合の成績は22試合中18勝4分で“バッジョが点を決めれば負けない”神話を持つ。



★バッジョの名言★

「今を戦えない者に、次や未来を語る資格はない。」

「思いついたプレーの中でいつも一番難しいものを選択している。」

「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ。」

「PKを決めても誰も覚えていないが、外したら誰もが忘れない。」

「サッカーをプレイできるなら、寿命が縮んだっていい。」

「忘れないで欲しい。君達の足元には永遠にサッカーボールがあることを…。」

「私はサッカーに恋をした。」

「私の知っているドーピングはひとつだけ、それは“努力”だ」

「諦めるより夢を見る方が性に合っている」(2002年W杯の代表入りが絶望視された中で)

★バッジョを評する言葉★

「偉大なフットボーラーのリストにバッジョを加えるつもりはないよ。なぜなら彼は別の惑星からやって来た宇宙人だからだ。」(エンリコ・キエーザ)

「デル・ピエロがピントリッキオ(ルネサンス期の画家、ラファエロの兄弟子)だとしたらバッジョはラファエロだ。」(ジャンニ・アニェッリ)

「10番というより、9.5番だ。」(ミシェル・プラティニ)

バッジョが9番(ストライカー)と10番(プレイメーカー、司令塔)両方の役割を果たす選手という意味。

「今まで一緒にプレーした選手の中で最高のプレーヤーだ」(ジョゼップ・グァルディオラ)

グァルディオラはバッジョを慕ってイタリアのクラブに移籍した経歴をもつ。

「彼のようなフットボーラーと出会うには、少なくともあと20年はかかる。」(ガブリエル・バティストゥータ)

「それでも貴方は偉大だ。」(クラウディオ・タファレル)

94年アメリカワールドカップの決勝戦のPKの決着がついたあと、当時ゴールを守っていたブラジル代表のGKの彼が、PKを外したバッジョに対してかけた言葉。

「世界でイタリアだけが唯一、彼をNo.1だと認めなかった」(ジネディーヌ・ジダン)

「彼はフィールドの中で出来ない事など何も無い。」(ジーコ)

「現役のとき、私には悪夢のような選手が3人いた。マラドーナ、ファン・バステン、そしてバッジョだ。」(ジュゼッペ・ベルゴミ)

「私はバッジョをピッチに送り出すとき一つだけ指示をする。『90分間で一度だけでもいいから君らしいプレイをしてくれ』とね。それが我々に歓喜をもたらすのを私は知っているからね」

「ネドベドもヴィエリもトッティもいらない。バッジョだけで十分さ」

(ともにカルロ・マッツォーネ)

「僕がイタリアに来てから、いつもバッジョとサッカーをする夢を見ていた。」(イバン・サモラーノ)

★所属チーム★

ヴィチェンツァ(イタリア) 1979-1985
フィオレンティーナ(イタリア) 1986-1990
ユヴェントス(イタリア) 1990-1995
ACミラン(イタリア) 1995-1997
ボローニャFC(イタリア) 1997-1998
インテル(イタリア) 1998-2000
ブレシア(イタリア)2000-2004


本田圭佑




本田 圭佑

(ほんだ けいすけ、1986年6月13日生まれ)


大阪府摂津市出身で名古屋グランパスエイト所属のサッカー選手。ポジションはミッドフィルダー。


http://www.youtube.com/watch?v=WAPgdaIx5Ws&mode=related&search


地元大阪のガンバ大阪ジュニアユース所属だったが、同クラブユースへの昇格の内定は出なかった。


その後星稜高校へ進学し、3年時には第83回全国高等学校サッカー選手権大会で県勢初のベスト4入りの原動力となる。


2004年には特別指定選手として名古屋グランパスエイトに参加、ナビスコカップなどの公式戦に数試合出場。


名古屋での練習参加の際には元日本代表DFの秋田豊に「早く契約したほうがいい」と言わしめた。


2005年に名古屋グランパスエイトに入団。


開幕戦において先発出場、アシストを決めるなど華々しいプロデビューとなった。


翌2006年からは完全に左サイドのレギュラーに定着し、今や同クラブの中心選手へと成長。


2006年には、日本代表(A代表)にも飛び級で召集される。


左足から繰り出される強烈なフリーキックは、見る者に鮮烈な印象を与える。


その姿を同じく左足でのプレーが得意で、元グランパスエイトの小倉隆史と重ね合わせ、時にメディアはレフティーモンスターと称する事もある。


ちなみに、現在ガンバ大阪所属の家長昭博とはガンバ大阪のジュニアユース時代の同期で、左利きと言う部分に加え生年月日も全く同じである。


スルーパス、ロングパス、シュートの能力はすでにJリーグのMFでもトップクラスであり、余り得意ではない守備も献身的にこなすなどオールマイティな能力も併せ持つ。


また、頑強な体で接触プレーにも強い。


しかし前述の通り、それらの部分が霞む程フリーキックの精度が高い。


大きくカーブするフリーキックもさることながら、ジュビロ磐田戦で川口の真正面にボールがきながら、急激にゆれながら落ち、得点を許してしまった無回転のキックは特筆ものである。


またロベルト・カルロスが得意としている逆回転のキックも練習中であり、タイプは違うが中村俊輔のあとを継ぐキッカーとして期待されている。


また、闘争心の熱い選手でもあり、マッチアップする相手が代表選手などのときは闘争心を前面に押し出した熱い守備をみせる。

本来は攻撃的なMFで、中央でもサイドでも関係なく高い能力を発揮する選手であるが、2006年はチームの事情などから左サイドバックを多く務め、守備能力が大きく成長した。


そのため、全ての中盤のポジションとサイドバックまで務めるユーティリティ性の高い選手でもある。



★所属チーム★


ガンバ大阪ジュニアユース
星稜高校(2002年 - 2004年)
名古屋グランパスエイト(2005年 - )