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アレッサンドロ・デル・ピエロ




アレッサンドロ・デル・ピエロ
(Alessandro Del Piero、1974年11月9日 - )

イタリア・トレビゾ(コネリアーノ)出身のサッカー選手。ポジションはフォワード。

カルチョの国イタリアの歴史にその名を刻むファンタジスタのひとり。

現在は一連のカルチョ・スキャンダルでセリエBに降格したユベントスでプレーしている。

http://www.youtube.com/watch?v=27N9AOdZfAc&mode=related&search=

決して恵まれた体格とは言えないが、テクニックに優れプレーに豊富なバリエーションを持つFW。

左サイドからゴール前にドリブルで切れ込むプレーを得意としていて、特に彼が無数の美しいゴールを決めた、ゴール前左45度は「デル・ピエロ・ゾーン」と呼ばれている。

この聖域から右足のインフロントで放たれたボールが、ゆるやかな弧を描いてゴール右隅に吸い込まれる様子は多くの観客を魅了してやまない。

また短中距離のフリーキックも得意としているほか、トラップ技術も一級品で、次のプレーに最適な場所にワンタッチでボールをコントロールできる。



1991年にセリエB(当時)のパドバでキャリアをスタート。

1993年からセリエAのユヴェントス(2006-2007シーズン現在セリエB)に所属し、ミシェル・プラティニやロベルト・バッジョといった名選手たちが背負ったユベントスの背番号「10」を若くして引き継いだ。

靭帯断裂などの負傷とスランプに度々悩まされるがその度にこれを克服し、センセーショナルな復活劇を見せて観客を魅了する、華のある選手である。

ユヴェントスでは1995-96シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ制覇のほか、2004年までに5度のスクデット獲得を経験している。(2004-2005、2005-2006は没収されている。)

2006年1月10日に行われたコッパ・イタリアの対フィオレンティーナ戦でハットトリックをマーク。

これがユヴェントスでの185得点目となり、ジャンピエロ・ボニペルティの持つクラブ歴代最多得点記録を塗り替えた。

イタリア代表デビューは1995年3月25日のエストニア戦。

FIFAワールドカップには1998年、2002年、2006年と3大会連続で出場している。

不調に苦しむ間にフランチェスコ・トッティの台頭もあり、2000年代からは背番号「10」をトッティに譲っているものの、今も「アズーリ」に欠かせない選手のひとりである。

2006年のドイツ大会ではフォワードのバックアッパーとしてメンバーに名を連ねる。



準決勝のドイツ戦では延長戦から途中出場し、アルベルト・ジラルディーノからのパスを受け、十八番「デル・ピエロ・ゾーン」から2点目となるダメ押しゴールを奪った。

「ユベントスに籍を置くには、高望みをしてはいけない。希望額より少なかろうが、それで満足しなければならない。」

トッティに背番号『10』を譲ってほしいと言われた際も「僕は『7』の方が合っている」と言って快く譲るなど性格、人間性なども優れた人格者でイタリア国内での人気も高い。

なお何故7番かといえば「初めてもらった背番号がこれだったから」、とのこと。

元日本代表の中田英寿と公私に渡って親交がある。

2006年7月の中田現役引退のニュースを聞いた際には、ワールドカップの試合前にもかかわらずインタビューで中田に対してのコメントを残している。

ユベントスが八百長事件によりセリエBに降格する可能性が取り沙汰される中、マンチェスター・ユナイテッドなどの誘いを断って真っ先に契約を更新。

チームに残る決意をした事で、改めてファンの心を掴んだ。

アメリカ合衆国にも憧れがあるといい「選手生活を終えたら、まず英語の勉強に取り組むつもりだ」と語る。

サッカー界のご意見番でカルチョには特に痛烈な批判をするヨハン・クライフもデル・ピエロに対しては「私はどんなイタリアのプレイヤーよりもデル・ピエロを好む。彼のプレーはとてもファンタスティックだ。ただ強いて言うなら彼はイタリアに生まれるべきではなかった。イタリアサッカーは彼がそのプレースタイルのままでいようとすることを許さないだろう。」と賛辞を送ると共に彼のプレースタイルをもっと生かせる国に生まれていたら、という意味深なコメントをしている。



★所属チーム★

パトバ 1991-1993
ユヴェントス 1993-

カカ




カカ
(Kaká, 本名:リカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチ, Ricardo Izecson Dos Santos Leite, 1982年4月22日 - )

ブラジル、ブラジリア出身のサッカー選手。ポジションは主にミッドフィールダー(オフェンシブハーフ・トップ下)。ごくまれに、セカンドトップなどFW的なポジションも任される。

http://www.youtube.com/watch?v=_rSGhMufm50

父がサンパウロFCのクラブ会員だったので、9歳でサンパウロFC(ブラジル)のクラブ会員用のチームに加入。

当時から、カカのテクニックは卓越していたが、フィジカルが極端に弱かったため、常に補欠だった。

しかし、コーチのフィジカルトレーニングメニューにしたがってトレーニングをしていると、戦術面・フィジカル面で大きな成長を見せる。クラッキへの第一歩である。

18歳の時、プールで遊んでいた際に頭部を強打し頸椎を損傷する重傷を負う。

あわや下半身不随寸前の怪我だったものの、幸いにも運動能力にはほとんど影響は見られなかった。

一方、この事故の影響で極度の近視が残った。

トップチームデビューは2001年2月のボダフォゴ戦。

途中出場ながら2得点を決める活躍を見せる。

プールでの事故からわずか4ヶ月後のことだった。

以降サンパウロFCのトップチームに定着したカカは、程なくブラジルA代表メンバーにも選出。

2002年にはワールドカップ日韓大会のメンバーにも選ばれ、出場機会は少ないながらも優勝を経験した。

翌年、850万ユーロ(約11億円)の移籍金でイタリアセリエAの強豪・ACミランへ移籍。

移籍初年度、チームの司令塔であるマヌエル・ルイ・コスタのバックアッパーとしての働きを期待されていたが、蓋を開けてみるとリーグ戦2試合目からレギュラーを奪い取り、逆にルイ・コスタをベンチに追いやって期待以上の働きを見せる。

2006年現在、ACミランの中心選手であると同時に、ブラジル代表のレギュラーメンバーとして活躍中。

2005-2006シーズン終了後にかねてから付き合いのあった婚約者と結婚した。

2006 FIFAワールドカップではロナウジーニョ、ロナウド、アドリアーノとカルテットマジコ(「魔法の四人」)を形成したが思うような活躍ができずベスト8で敗退するが、4人の中で本来のプレースタイルに一番近かったのはカカであろう。

当初2009年6月までの契約であったが、2005-2006シーズン終了後にはACミランの八百長疑惑によりクラブの降格が騒がれ、さまざまなクラブから移籍オファーがきた。

FAプレミアリーグ・チェルシーからは7000万ポンド(約152億6000万円)という超破格のオファーが来たが、クラブは首を縦に振らなかった。

本人も「ACミランが降格しないなら、クラブに忠誠を誓う。」と発言。

7月15日には、チームがセリエB降格を免れるという判決を下された。

チェルシーの監督であるモウリーニョからは「世界の中で自由に選手を獲得できるとしたらカカを選ぶ」と言われたほどである。

また、レアル・マドリードのラモン・カルデロン会長はカカの獲得を公約に掲げている。

従来ブラジル人サッカープレーヤーが持つテクニックに加え、身体能力の高さも際立っている。

ボールを持ってからの判断力、ドリブルスピードは世界でも指折りの実力。

また、得点感覚にも長けており、正確なシュートでゴールも演出する。

ミドルシュートも得意。

パスはロングパスよりもショートパスを好み精度も非常に高い。

攻撃に関してはほぼ弱点は無いがフリーキックはあまり得意ではない。

守備でもチームに貢献している。

所属のACミランではそれまでシェフチェンコがPKキッカーをしていたが、2006-2007シーズンにシェフチェンコがチェルシーへ移籍したため、主にカカがPKキッカーを務めている。



ブラジル人サッカー選手に多い貧困層出身ではなく、中流階級の育ちでどちらかというとエリートに属する。

しかし、その事を鼻にかけたりせず、誰とでも気さくに付き合うようで、人間的にも評価が高くチームメイトの信頼も厚い。

またその甘いマスクから女性からの人気が高く、ブラジル国内ではアイドル的存在である。

「カカ(Kaká)」という名前は、幼い弟が本名の「リカルド」を発音できずに「カカ」と呼んでいたことに由来する。

しかしイタリアやポルトガルなどのラテン語圏では、「カカ」と言う呼び名は発音によっては汚物(CACA)を意味する。

そのためイタリア(セリエA)の名門・ACミランへ移籍の際は愛称を変えなくてはならないというような議論もされたらしく、またミランより先にオファーしていた同リーグのユヴェントスがこのような理由で獲得を断念したという。

ちなみに「Kaká」は2番目の「á」にアクセントをつけて発音するため、「カ(ッ)カァ」という感じで聞こえることが多い。

また、ブラジルでは本名の頭文字に“K”を用いる事は神聖なものとされ、通常であればまずCakaとされる。

カカはサッカーによる実績が認められ、サッカー選手として唯一名前の頭文字にKを使う事を許可された選手でもある。

なお、イタリア語などでは、そのアクセントの表記法に従いKakàとなることがある。

用具等はアディダス社と契約している。

実弟のロドリゴも2005年にACミランへ入団した。

2006年W杯後に、同じブラジル人のカロリーネ・セリコさんと結婚している。

呂比須ワグナーとは仲がよくゴルフに行く。

現在はかなりの腕前になっていると言う。

呂比須があげたゴルフセットは今でも大事に使用している。(呂比須談)

とても敬虔なクリスチャンであって、座右の銘は聖書の言葉の「神に忠実なれ」である。

実は日本に少年時代に山形県最上町に滞在したことがある。

「もがみ国際交流協会」を通し、11歳だった1993年に来日していた。

サンパウロFCのジュニアチームと地元少年サッカーチームとの国際親善試合の第1回の招待チームの一員であり、最優秀選手に選ばれ、賞金5千円を獲得した。

このお金は大切に保管してあるとのこと。

そのときホームステイでお世話になった夫婦とは今も親交がある。

なお、このとき後にJリーガーとなる佐々木勇人と対戦した。

プロデビュー:2001年2月1日 ボダフォゴ戦



★代表★

1999年 FIFA U-17世界選手権大会優勝
2002年1月31日 ボリビア戦 ブラジルA代表デビュー
2002年 FIFAワールドカップ優勝
2006年 FIFAワールドカップベスト8

★クラブ★

2001年 リオ・サンパウロ杯優勝(サンパウロ)
2003年-2004年 セリエA・リーグ優勝 リーグMVP

★所属チーム★

2001年 - 2003年 サンパウロFC(ブラジル)
2003年 - ACミラン(イタリア)

クラシコ

バルセロナのロナウジーニョ、クラシコ欠場も

 バルセロナのロナウジーニョが、10日に行われるレアル・マドリーとの“クラシコ(伝統の一戦)”に欠場する可能性も出てきた。6日に行われた欧州チャンピオンズリーグ(CL)のリバプール戦で左足に痛みを抱えたロナウジーニョは、7日、8日と2日間連続で全体練習には参加していない。筋繊維の断裂はなく、重度のけがではない模様だが、9日午前の練習で最終的な判断が下されることになる。


 8日の練習ではロナウジーニョとテュラムが室内に残ってジムトレーニングを行い、マルケス、モッタが練習を欠席している。

-Ichiro Ozawa from Spain-

[ スポーツナビ 2007年3月9日 12:05 ]