大河ドラマ「麒麟が来る」 再開!(祝)

第22回「京よりの使者」 関連地図

 

大河ドラマ「麒麟が来る」ようやっと再開しましたね笑い泣き!。この日を何カ月待ったことか。

とにかく再開うれしい!

 

さて。再開1回目は桶狭間の戦いの4年後。永禄7年(1564年)の冬という設定。光秀宛に将軍義輝から使者(細川藤孝)が来て、光秀は京に向かう意思を固める。というところからでした。将軍義輝が亡くなったあたりまで短縮されるかな?と思っていたのでこれはうれしい誤算でした。前回「永禄7年の出来事」までをまとめていたのでこれは何たる偶然!といったところです。

 

「桶狭間の戦い」「永禄7年の出来事」については過去記事もご覧ください。

永禄7年

・桶狭間の戦い:合戦前「清州出発から善照寺砦まで」

・桶狭間シュミレーションその1:今川本陣「桶狭間古戦場伝説地」想定

・桶狭間シュミレーションその2:今川本陣「おけはざま山にあった」想定

 

ドラマを振り返ってみましょう。

>公方(将軍、足利義輝)は三好長慶一派に政権を牛耳られ、本来将軍の職務である改元さえも三好に奪われようとしている。意気消沈する義輝。見かねた側近は光秀を呼び寄せる

>京より細川藤孝が光秀のあばら家に訪ねてくる。ここで次女の(後の細川ガラシャ)が妙に藤孝になついている、という後々への伏線が描かれる(長じて玉が出てくるのかな?グラサン

光秀は京へいく意思を固める。家族に別れを告げ、朝倉義景に謁見。上京の意向を伝えお暇する

東庵と丸薬のことで喧嘩をし、東庵の元を去り伊呂波太夫のところにいく。するとそこに関白の近衛前久(さきひさ)がおり松永久秀の元に行くという。同行する

は大和で後の将軍義昭「覚慶」に出会う。(今回の義昭は良い人設定?)

>大夫は多聞山城に入り松永久秀と面談。後妻に誘われるが軽くあしらう(笑)

光秀上京。将軍義輝に三好長慶の暗殺計画を漏らされるが思い直す。光秀の勧めで信長を味方に引き入れようと意志を固めた義輝光秀を尾張の信長の元に派遣する

>道中、東庵のところに寄り、これから向かう運命の大きさについて気持ちを吐露する

三好長慶が病死しほくそ笑む将軍義輝

 

後の本能寺の変の黒幕の一人とも言われる近衛前久(このえ さきひさ)は本郷奏多君(!)。彼は実写版「キングダム」の成蟜(せいきょう)役を熱演していましたね。そのためか時々成蟜っぽく見えましたが、なかなかお似合いの役だと思いました爆  笑 裏で何か悪だくみしてそうな人相役をやらせたら、いま一番うまい若手かもしれませんね。

近衛前久邸と足利義輝邸とはそんなに離れていませんでしたから、ちょくちょく交流を持っていた設定はアリでしょう。

 

【近衛邸と足利義輝邸の位置関係地図】

近衛邸と足利義輝邸の位置関係地図

地図を拡大してみる

 

駒は東庵と仲たがい。駒の役回りは文字通り盤上の「駒」なのでしょう。

将棋の駒。成って「成金」になるのでしょうか?

 

覚慶(後の15代将軍足利義昭)は滝藤賢一さん。雰囲気は出てます^^。でも兄(義輝)よりどうみても歳行ってるでしょ!とかツッコんじゃだめです口笛 配役から、今回の将軍義昭は良い人役に描かれるような気がします。

 

松永久秀多聞山城は一度見に行ったことがあります。北から興福寺を見下ろすようにそびえ立っています。北側に立てた時点で喧嘩売ってます^^; 久秀の性格もあり非常に豪華壮麗だったようです。市内からも興福寺からも近い北山に贅をつくした迫力あるお城がデーン!とそびえたっていれば、奈良の民も威光を感じたでしょうし興福寺勢も「むむーん。。」と、うなったに違いありません。久秀は定期的にお祭りのようなものを催したようで、時には興福寺の僧も招いて市民の心を取りこんでいったようです。人心掌握、「ハロー効果」で自分をより大きく見せるやり方は信長や秀吉をはじめ当時の戦国武将の手法として通じるものがありますね。後に久秀は三好三人衆との戦いで東大寺大仏殿を消失する事件を起こしますが、興福寺の半ば自治領みたいな奈良をうまく統治したなあと思います。

 

【多聞山城と興福寺、東大寺、駒が義昭と出会った市街地の場所】

多聞山城と興福寺、東大寺の地図

上記の詳細地図へ

 

そして将軍の命をうけ尾張に向かう光秀。

この頃、信長はどうだったかというと、前回投稿の「永禄7年の出来事」を見ていただいてもお分かりのように小牧山城から東美濃を虎視眈々と狙い。邪魔をする織田信清の犬山城の支城である黒田城、於地城を味方に引き入れ、まさに犬山城を配下に収めようとしているころでした。

 

ここに光秀はやってくるのでしょうか?

まだ時期尚早ということになるのか。それとも一度秘密裏に上洛をする設定なのでしょうか?

 

最後に。

三好長慶。彼が亡くなったのは永禄7年(1564)の7月4日です。番組の冒頭「永禄7年冬」と出ていたのでこれは時期が全くおかしいてへぺろ。まあ大河ドラマですから細かいことはいいか(笑)

 

それではまた次回も楽しみにしてまーす!