「麒麟が来る。再開までの合間に。関連地図」永禄7年 

 

さあ!来週からいよいよ麒麟が来る本編再開ですね(^^)/

待ってました。こちらも番組本編に追い着かなきゃ!というわけで前回の続き。永禄7年の信長周辺を見てみます。

 

○永禄7年(1564年)

 2月6日 竹中半兵衛と安藤守就。稲葉山城を乗っ取る。

 2月28日 家康、三河一向一揆を平定。

 5月 黒田城の和田定利・於久地(小口)城の中嶋豊後守の調略に成功し味方にする

 7月4日 三好長慶が病没

 8月 丹羽長秀、犬山城を攻撃し包囲。犬山城の織田信清退去。

 

2月には尾張周辺諸国に動きがありました。

まずは美濃です。天才軍師として黒田官兵衛と並び称される竹中半兵衛が歴史舞台に現れます。

今回の「麒麟」は秀吉はサブなのでもしかしたら出てこないかも?

 

安藤守就は稲葉一徹、氏家卜全とともに美濃の有力な国衆「西美濃三人衆」の一人で、過去には斎藤道三の言いつけで信長が村木砦を攻撃した際、名古屋城の留守を守るなど信長を結構前から熟知してそうな一人です。(今回の麒麟には出てこない?)

竹中半兵衛は安藤守就の娘婿。伯父と一緒に稲葉山城を乗っ取るのですが、あの難攻不落の岐阜城をたった16人(17人?)で乗っ取ってしまうのでした。やり方も用意周到で、実弟(竹中久作)を決起日を決めたうえで人質として送り込み、決起にあわせて内から崩壊させる。何とも天才軍師的なやり方です。しかも若干20歳そこそこ!。天主を乗っ取った後、伯父の安藤守就が2000の兵を連れて稲葉山城を占領しました。反乱の名目は堕落した城主、斎藤龍興(義龍の息子)の政治を質すということでしたが、同時にさんざん嫌がらせを受けた斎藤飛騨守を討つこと。そしてもしかしたら本当は国盗りも目的だったのかもしれません。しかし、半年後に条件交渉に応じた龍興に城を返還して、竹中半兵衛は浅井に身を寄せ、安藤守就は隠居しました。

竹中半兵衛。稲葉山城乗っ取り地図

詳しい地図へ

 

一方、東方では2月下旬に松平家康が三河の一向一揆を平定しています。

三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並び、家康の三大危機とされる重要な局面でした。

※ちなみに松平元康は永禄6年7月6日に今川義元の「元」の字を捨て、家康に改名し、今川と明確に断交しました。

 

事の発端は松平家康が信長寄りになったことで、家臣の酒井忠尚が反旗を翻したことです。それまで元康の領国経営に不満が蓄積していた一向宗門徒がこれに連携して蜂起。三河全体に波及していきました。

三河一向一揆。戦況地図

詳しい地図へ

 

永禄7年1月15日の馬道原の合戦で、家康は水野忠重軍とともに一揆勢主力を打ち破り、一気に形勢を逆転し一揆の平定に進みました。この頃の家康も非常に難しい状態でした。のちに家康は天下を平定後した後、バテレンを追放しますが、この時宗教門徒の結束力の恐ろしさを思い知ったのかもしれません。

 

そして5月。 尾張でも動きがありました。

信長に反旗を翻す織田信清の犬山城の支城、黒田城の和田定利と、於久地城の中嶋豊後守が寝返ったのです。これで信清は窮地に。そしてついに8月。丹羽長秀が犬山城を攻撃し包囲。犬山城を奪取し、織田信清は甲斐の国に落ち延びていったのでありました。

黒田城、於久地城寝返るの地図

永禄7年はその後を占う重要な年だったわけですね。

 

次回もお楽しみください!