大河ドラマ「麒麟が来る」第21回「桶狭間の決戦」の関連地図。今回はその2です。

前回の投稿大河ドラマ「麒麟が来る」第21回「桶狭間の決戦」関連地図その1

 

 

大河ドラマ「麒麟が来る」第21回「桶狭間の決戦」。見ごたえありましたね!

 

信長も、元康も、義元も。それぞれ長所短所。個性がはっきり出ていて役者さんの演技も素晴らしかった♪

引き算で無謀な戦いでなかったとイメージさせる斬新な演出もわかりやすくて今風でした(*^-^*)

一時中断はほんとうに残念!早く再開できますように。

 

さて。今回のドラマの感想は色々な人が書いているので、まずは先日の続きから整理してみたいと思います。

 

「信長公記」首巻36信長は丹下砦から善照寺砦に移り、佐久間信盛と合流。軍を集め戦況を見極めた。

 

あとからです。

信長経路。丹下砦・善照寺砦

 

以下つづき。

 

敵、今川義元は45,000の兵を率い、桶狭間山で人馬に休息を与えていた。5月19日正午頃、義元は北西に向かって陣を張り、「鷲津・丸根を攻め落とし、満足これに過ぎるものはない!」と言って謡を3番謳ったそうである。

 

45000人といえばナゴヤドームの野球開催時の収容人数グラサン。豊臣の小田原攻め時は100石あたり5人程度の軍役が目安だったようなので、今川義元の領国約60万石から算出すると総兵力は最大30,000人。「今回は総力戦じゃ。各領主100石あたり8人出せ!」とお触れを出したなら最大48,000人換算なので近い数字になります。作者の太田牛一「総兵力でそのくらい動員できる今川義元が桶狭間山で人馬に休息を与えていた」と書きたかったのかもしれません。「麒麟が来る」では20,000人の設定でしたが、動員できる全兵力のうち20,000人程度を率いてきたというのはと妥当な数字だと思いました。

 

さて。今川義元はどこに陣を張ったのか?これには諸説あります。陣所の位置は「どこに行く予定だったのか?」「どこから来て陣を張ったのか?」によっても想定場所が変わります。「信長公記」以外にも「家忠日記」他、書物ごとに食い違いがあるので、何を根拠に物事を見るかでかわってきますが、ここでは引き続き「信長公記」をベースに読み進めていきます。

 

この度の合戦に、徳川家康(この時は松平元康)は、朱塗りの武具をつけ今川の先陣を務めた。大高城へ兵糧を入れ、鷲津・丸根攻めに手を焼き苦労したので、人馬に休息を取らせて大高に陣を据えていた。

大高城。松平元康、朝比奈泰朝、井伊直盛、鷲津砦・丸根砦攻め

 

ご覧の通り。三河衆は今回も危険な先鋒。矢面に立たされます。援軍は遠江勢です(この時は朝比奈泰朝おんな城主直虎

 

 

で敗死するシーンがあった井伊直盛が援軍に行きます)。「麒麟が来る」では、こき使われる三河衆の不満を松平元康(のちの家康)が代弁する形で鵜殿長照に不満をあらわにするシーンがありますね(鵜殿長照駿河勢。あれは良いシーンだったなあ~)。「麒麟が来る」第20回放送で水野信元於大の方が信長の命を受け調略を仕掛けましたが、背景的に裏切る可能性は十分にあったろう推察されます。そういえば今回忍者が出てきましたね!菊丸も三河の(しのび)っぽい。「麒麟が来る」後半は忍者がキーになる前触れでしょうか。家康は伊賀越えで手柄を立てた服部半蔵を引き上げます。もしかしたら菊丸が服部半蔵だったり。。「信長公記」には「鷲津・丸根攻めに手を焼き苦労した」と書いてあるので忍者が活躍したかどうかは分からないものの、織田軍はかなり奮闘したのでしょう。

 

さて。鷲津・丸根両砦が落ちたのは午前8時くらい。信長が善照寺砦に来たのが午前10時くらい。義元が北西に向けて陣を張ったのがお昼頃。その間も各々の思惑で動いていたと思われ、義元が陣を張るまでの動きを想定して図にしてみました。

 

桶狭間今川義元本陣位置

 

信長が善照寺まできたことを知り、佐々政次と千秋末忠が兵300ほどを率いて今川勢に向かい勇躍して突き進んだところ、敵方からもどっと攻めかかってきて、槍の下で千秋末忠・佐々政次をはじめ50騎ほどが討ち死にした。これを見て義元は「義元の矛先には・天魔鬼神もかなうものか。よい心地だ」と喜んで、悠々と謡い、陣を据えていた。

 

この文面どおりだったとすると、突撃した理由は3つ考えられます。

  1. 佐々と千秋の先走り
  2. 事前に言い含められた言伝を実行した
  3. 太田牛一の聞き違い

寡兵で主君の指示も待たず功名心だけで突撃するとは考えにくい。戦後の報奨も2名とももらっている。なので1の線は薄い。では2か?2だった場合「我が着陣したら敵先鋒に試しにあたってほしい」というような事前指示があったのか。これはありえる。「ああ。我無駄に兵を失ってしまった。。」と思った信長はこのあと中島砦に皆の反対を押し切っていったのか?

もう一つ可能性がある。それは太田牛一の聞き間違い。今回の戦には太田牛一は参陣してなさそうなので(伝聞体の文面が多い)、伝聞なら聞き違いや漏れがあってもおかしくはない。斥候の情報収集の結果、決まった役回りだった可能性もあります。もしそうなら信長本陣突撃前の遠江勢の引きつけ、駿河勢の今川本陣からの引き剥がし狙いの囮でしょう。はたしてどうでしょうか。

 

信長は戦況を見て、中島砦へ移動しようとしたところ「中島への道は両側が深田で足を踏み込めば身動きが取れず、一騎づつ縦隊で進むしかありません。軍勢少数であることを敵方にはっきり見られてしまいます。もってのほかでございます」と、家老衆が信長の轡(くつわ)にとりついて口々に言った。しかし信長はこれを振り切って中島へ移動した。この時信長勢は2000に満たない兵数であったという。

 

普通に読むと信長は中島砦に2000に満たない兵を連れていったと読めます。しかしこれは「信長は中島に移動した」「兵力が2000に満たなかった」とを独立した文として見ると、必ずしも中島砦に兵2000全部を連れていったとは限らないでしょう。家老たちは当然大将を守るために兵を連れていくと思っていますし(それが仕事ですから)「そんな!命の危険がある中島の前線にいくなんてもってのほかです」と言うのは普通の感覚です。この時も止めたのは林秀貞家老^^; 林さんは村木砦出陣前に信長が岐阜から安藤守就を呼び寄せた際、大反対して離反。という前科があります。ドラマでも佐久間信盛が何やら「ニヤリ」と不敵な笑みを浮かべるわけです。

過去記事:「正徳寺の会見」(ページ後半に村木砦の戦いの開設があります)

 

 

中島からまた将兵を出撃させた。この時は無理にすがりついて、信長自身の出撃を止めたのだが、ここで信長は言った。「皆、良く聞け!今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜通し行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛労して疲れておる者どもだ。こちらは新手の兵である。しかも『少数の兵だからと言って多数の兵を恐れるな。勝敗の運は天にある』ということを知らぬか。敵がかかって来たら引け、敵が引いたら追うのだ。何としても敵を練り倒し、追い崩す。たやすいことだ。敵の武具など分捕るな。捨てて置け。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加したものは家の名誉。末代までの巧妙であるぞ。ひたすら励め!」

 

中島から兵を出したのはこの方面の「当たり」を確かめるためだったかもしれません。出したのは鷲津・丸根方面でしょう。この方面に出して三河・朝比奈勢が疲労困憊していることを確認できたのだと思います。それを確認した後の鼓舞です。「この砦を死守するように!」という叱咤激励。信長いう「大軍を寡兵で破る」は、孫子の兵法で有名な孫武柏挙の戦いの故事です。勝敗の運は天にある。これは乾坤一擲項羽劉邦の戦い「鴻溝を過ぐ」の故事引用でしょう。信長だけではありませんが、この時代の戦国武将が兵書を読み漁っていたことが読み取れる一文です。今も昔も死ぬまで勉強ですね。人事を尽くして天命を待つ。です。しかし気になるのは「また将兵を」という部分。。「また」ということは2回目なので、1回目に出したのはやはり佐々と千秋だったのか。「どっと攻めかかられた」ということは待ち構えられていたとも取れるので佐々と千秋は有松方面の軍の「当たり」に行った結果の敗死だったのかもしれません。。もしそうなら有松方面の軍(遠江衆)は精強と判断したでしょう。

 

こう話しているところへ、前田利家毛利長秀、毛利十郎、木下嘉俊、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人、これらの者が手に手に敵の首を取って持ってきた。これらの者にも、右の趣旨をいちいち聞かせた。

 

これで上の「中島からまた将兵を出した」メンバーは彼らだったことがわかります。戻ってきた彼らにもう一度訓示を垂れたのだと思います。不明なのはこの戻った侍たちをどうしたのか?です。先に「討ち死に」した佐々・千秋と違い、結構な首を持ち帰ってきたようなので、こちらは三河衆・鷲津・丸根方面への「当たり」だったのではないでしょうか。彼らはかなり生還して首を持ってきたので三河衆・鷲津・丸根方面は大丈夫そうだと確信できたのかもしれません。このあたりは前線で戦ってきた信長のカンと経験でしょう。佐々・千秋の死は無駄ではなかった。戦場を肌で感じないと勝敗を予期できない。だから中島砦に行く!というのは信長からしたら当たり前でした。「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」。まさにあれです。前線に出ず後ろから指示していた義元はこの面でも及ばなかったのでしょう。信長は適切な数を中島砦に残して、残りは本隊に組み込んだと見ます。

 

山際まで軍勢を寄せた時、激しいにわか雨が石か氷を投げ打つように振り出した。北西を向いて布陣した敵には、雨は顔に降りつけた。味方には後方から降りかかった。沓掛の峠の松の根方に、二抱え三抱えもある楠の木が、雨で東へ降り倒されたあまりにも幸運なことに、「この合戦は熱田大明神の深慮による戦いか」と皆が言った。

 

この文は、時間が少し飛んでいるように感じます。主語がなく、山際まで軍勢を寄せたのは信長なのかこれではわかりませんがここでは義元本陣攻撃隊(以下信長本軍)とします。そして軍を出したのは善照寺砦からと私は考えます。中島砦で指示を終えた信長は善照寺砦に戻り軍を整えた。その時、曇り空か若干モヤがかかっていたか(海が違いので霧やモヤもありうる)、ポツポツ雨が降り始めたんじゃないかと思います。信長軍は皆、出陣準備でてんやわんやでしょうからちょっとの雨は気にならない。一方、対面の鷲津・丸根の兵は疲労困憊でポツポツ振りはじめた雨に戦意が下がり気味。「駿河衆に捨て石にされてたまるか」という気持ちも手伝ったなら無理に戦わず建物などに避難したりしたかもしれません。信長のいうように天も味方したのか、ここまで計算づくだったのか。

そのような経緯で前面の対策を終えた信長は善照寺砦から鎌倉街道を東進。姥子山の裾野に近付いたころに暴風雨に。。天も味方した。発見されることなく義元本陣近くの大将ヶ峰まで駒を進めることができた。沓掛の楠木の話は、戦後、桶狭間の一番手柄に挙げられ沓掛城主になった簗田政綱経由で太田牛一は聞いたのかもしれません。元ネタは地元民かもれませんし簗田政綱の沓掛方面を担当した斥候の1人だったかもしれません。 

 

桶狭間。信長本軍出陣

と。今回はいったんここまで。

 

【お亡くなりになった主だった遠江勢の国衆の皆様。南無阿弥陀仏】

久能忠宗

久能元宗

久能氏忠

後藤真泰(まさやす)

浜名正国

飯尾乗連(のりつら)
小野朝直