大河ドラマ麒麟が来る。第14回「聖徳寺の会見」の関連地図を作ってみました!

 

今回の見どころは染谷翔太扮する信長と、本木雅弘演じる斎藤道三との会見。

そして、日本で初めて戦で組織的に鉄砲が使われた村木砦の戦いでしょう。

 

聖徳寺の会見関連マップ

聖徳寺会見関連地図

聖徳寺

 信長公記によると、道三側が「ここまでいくから会ってほしい」と申し入れしたようで、信長はドラマのように渋々でなく「OKす!」みたいな二つ返事だった様子。道三が信長の行列をのぞき見したのは信長公記にも書かれています。ただ、面会時の着物は「褐色」と書いてあり、会見はお茶漬けを食べながら滞りなく済んだようなのでドラマのような緊張した押し問答があったのかはわかりません。ただ、道三が非常に気に入ったことはその後の史実をみても事実でしょう。

 

比良城 

 会見の途中で紹介された佐々成政の本拠地。成政といえば極寒のなかの「さらさら越え」は有名。

晩年は酷使された上に捨てられた感があり、ちょっとかわいそうな武将ですね。

現在の光通寺一帯が城跡と伝わり、東西75メートル、南北80メートルの規模であったらしい

 

荒子城

 ドラマの会見途中で信長から紹介された前田利家の本拠地。花の慶次では腰抜けじじいみたいに描かれてますが、若いときは利家自体が歌舞伎者で、猛者中の猛者だったのがわかります。聖徳寺の会見は天文22年(1553年)なので利家の武勇は萱津の戦いでの活躍を指しているものと思われます。一説ではこの当時、信長とは童衆の間柄だった、とも記録があるようなので、この会見時にそば仕えしていてもなんら不思議はないです^^;

 

村木砦の戦い

 信長公記の記述を図面に落としました。道三からの援軍は安藤守就がきて⑥那古屋城下に布陣した模様。道三からこの砦攻めを毎日報告しろと指示はあったが、その役を光秀がやったという記録はない(^-^;

 戦いは天文23年(1554年)1月24日早朝より。東の大手門から水野信元軍が、西の搦手(裏門)からは信長の叔父、織田信光軍が、堀が深く最も攻めにくい南からは信長が攻めたという。この布陣からも信長が非凡な大将であることが感じられる。自らの鼓舞で兵が何倍も勇猛に戦うのを理解してた上の布陣と思う。記述から鉄砲の弱点を知った上での使い方をしており、のちの長篠合戦での鉄砲活用の下地はこの時から作られていたのでしょう。ただ、予想外に多くの見方が死んだのかもしれません。戦が終わり亡くなった家臣の前で涙を流した。というくだりは信長公記にもあります。自分の誤算で多くを死なせてしまったことに対する自責の念か。いずれにせよ、この時点の信長は人間味あふれる頼れる大将だったのでしょう。

 

村木砦の戦い布陣地図。信長が初めて鉄砲を使用した戦

 

緒川城

信長公記には「小河」と記載されている。この時点で那古屋城からは村木砦と寺本城とで分断されており、やむなく暴風のなか熱田から海上を南に移動し知多半島南に上陸して入城。その日(1月23日)の夜に軍議をし翌早朝から移動して戦うという、かなりハードな戦い方。兵士もしんどかったかもしれない。現代社会なら結構ブラック企業(^-^;。

 

村木砦平定翌日には、西に転戦し寺本城を叩き(疲弊しているだろうに何という働き。。(^-^;)、那古屋に帰還。21日に那古屋を出て27日に帰城する!これだけ激烈に戦って1週間で戻る!信長の非凡さ半端なし!

 

報告を聞いた道三が「恐るべき男だ。隣国にはいてほしくない人物だ」といったのは本心と思う。ドラマの最後、深芳野が河原で死んだ場面より、この報告をきいた道三が「じゅうべえ。信長はわしの想像をはるかに超えるたわけじゃ~。どわっはっは。(これはますますヤバくなってきたわ)」なんてくだりを挿入し「俺は隠居する。あれにはかなわん。義龍。お前に家督を譲る」とかしたほうがよかったかなあ~。道三があんな感じで愛人に涙流したりするかな~。なんて ^ ^

 

ま。それも大河!道三イメージアップがあっても面白い!

 

また次回楽しみにしてます!