大河ドラマ「麒麟が来る」第21回「桶狭間の決戦」の関連地図。今回はその4です。

 

前回までの投稿では本陣位置が「桶狭間古戦場伝説地にあった」仮定で進軍図を作成してみました。

今回は本陣位置が桶狭間公園東の「おけはざま山」にあったとした場合の展開を考えてみることにします。

(これやらないと次にいけないです(;・∀・))

 

本陣位置が異なった場合、どのあたりから違いが出てくるのか?

まずは善照寺砦信長が着陣するあたりから確認してみます。

おけはざま山に本陣があったパタン地図

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おけはざま山⑫に本陣があると、桶狭間古戦場伝説地➂よりもかなり奥まった位置となり、遠江勢が壁にもなるため中央突破はかなり苦しい状況となります。。

 

下は実際の善照寺砦から南向きに撮った写真です。鷲津砦丸根砦生山が良く見えます。反対に見ればこのあたりに陣取る今川方からもこちらは良く見えていたはずです。信長公記にある佐々政次千秋末忠の突撃を、義元「見ていた」のならこの生山かな?とも思いました。本陣から少し前に出て戦況確認に来ていたのでしょうか?(おけはざま山からは戦場は直接見えません)。いずれにせよ戦場が見渡せるこの生山には誰かが陣取っていたのではないかと思います。(上図では駿河勢を布陣させてみました。)

佐々・千秋の突撃は善照寺砦からも良く見えたはずです。今川勢の実力と陣立てを確認するための決死隊。。信長はこの突撃を見て鉄砲の配置やどの軍団が強いかなども確認できたことでしょう。それらを見た信長は家老が止めるのを振り切って中島砦へ移動します。中島砦はこの写真では右に坂を下っていった先にあります。馬なら5分もかからないでしょう。

以下、信長公記の文面を振り返ってみましょう。

 

信長は戦況を見て、中島砦へ移動しようとしたところ「中島への道は両側が深田で足を踏み込めば身動きが取れず、一騎づつ縦隊で進むしかありません。軍勢少数であることを敵方にはっきり見られてしまいます。もってのほかでございます」と、家老衆が信長の轡(くつわ)にとりついて口々に言った。しかし信長はこれを振り切って中島へ移動した。この時信長勢は2000に満たない兵数であったという。

佐々千秋突撃と中島砦に移動
中島からまた将兵を出撃させた。この時は無理にすがりついて、信長自身の出撃を止めたのだが、ここで信長は言った。「皆、良く聞け!今川の兵は、宵に腹ごしらえをして夜通し行軍し、大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛労して疲れておる者どもだ。こちらは新手の兵である。しかも『少数の兵だからと言って多数の兵を恐れるな。勝敗の運は天にある』ということを知らぬか。敵がかかって来たら引け、敵が引いたら追うのだ。何としても敵を練り倒し、追い崩す。たやすいことだ。敵の武具など分捕るな。捨てて置け。合戦に勝ちさえすれば、この場に参加したものは家の名誉。末代までの巧妙であるぞ。ひたすら励め!」

こう話しているところへ、前田利家毛利長秀、毛利十郎、木下嘉俊、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人、これらの者が手に手に敵の首を取って持ってきた。これらの者にも、右の趣旨をいちいち聞かせた。

 

この「大高へ兵糧を運び入れ、鷲津・丸根に手を焼き、辛労して疲れておる者どもだ。」の部分から、信長は丸根の三河勢方面へ出撃しようとしたことが推察できます。もしかしたら「麒麟が来る」の描写にもあったように水野信元の家康への工作が功を奏していることも考えられます。仮に工作が成功していなかったとしても、この方面以外に突破の可能性は低いと思っていたのではないでしょうか。

 

山際まで軍勢を寄せた時、激しいにわか雨が石か氷を投げ打つように振り出した。北西を向いて布陣した敵には、雨は顔に降りつけた。味方には後方から降りかかった。沓掛の峠の松の根方に、二抱え三抱えもある楠の木が、雨で東へ降り倒されたあまりにも幸運なことに、「この合戦は熱田大明神の深慮による戦いか」と皆が言った。

信長本軍進路。桶狭間の戦い

北西に向けた陣には顔に、信長軍には背中からというのであれば上図のような進軍方向でおおよそ間違ってないと思います。

 

空が晴れたのを見て、信長は槍を押っ取り、大音声を上げて「それ、掛かれ、掛かれ!」と叫ぶ。黒煙を立てて打ち掛かるのを見て、敵は水を撒くように後ろへどっと崩れた。弓・槍・鉄砲・幟・指し物、算を乱すとはこのことか。義元の朱塗りの輿さえ打ち捨てて、崩れ逃げた。

 

井伊直盛陣地と言われる巻山あたりに突如、横槍で突撃したのではないか?と推定しています。巻山の下には沼地が今でも広がっているのでここに嵌ってかなりの人が討たれたのかもしれません。そして巻山を東に下れば義元本陣は目の前。おそらくは義元本陣からもすぐ目前に迫る信長軍を確認できたでしょうし、自分たちは後方にいるという油断を持っていたのだとすれば「算を乱すとはこのことか」というような阿鼻叫喚な図になるでしょう。

 

桶狭間の戦い。義元の最期

 

「義元の旗本はあれだ。あれにかかれ!」と信長の下知。午後2時ごろ東に向かって攻めかかる。敵は始めは三百騎ほどが丸くなって義元を囲んで退いたが、二、三度、四度、五度と引き返し、打ち合い切り合ううちに、次第次第に人数が減り、ついには五十騎ほどになった。

 

信長も馬を降り、若武者どもと先を争うように、突き伏せ、突き倒す。頭に血が上った若武者ども、乱れ掛かって鎬を削り、

鍔を割り、火花を散らし、火焔を降らす。乱戦だが、敵味方の区別は旗指し物の色で知れた。ここで信長のお馬廻り、お小姓衆の歴歴、負傷討ち死にしたもの数も知れない。

 

服部春安(小平太)は義元に打ち掛かり、膝口を切られて倒れ伏す。毛利良勝(新介)は義元を切り伏せ首を取った。後日「これもひとえに先年、清州の城で守護が攻められたとき、毛利十郎が幼君を一人保護して助けた、その冥加がここに現れて、義元の首を取れたのだ」と人々は噂した。

 

今川勢は運の尽きた証拠だろうか。桶狭間というところは深く入り組んで深田に足を取られ、草木が高く低く茂り、この上もなく難所であった。深い泥田に逃げ込んだ敵は、そこを抜け出せずに這いずり回るのを、若者どもが追いかけ追い着き、二つ、三つと手に手に首を取り持って、信長の前へ持参した。「首はどれも清州で検分する」と信長は言い、義元の首だけはここで見て、満足この上もなかった。

 

信長公記には「首は3000あった」と書かれていますが2000名で3000を討ち取るって。。桶狭間が深田・沼地で身動きがとりにくかったとはいえ無抵抗ではないのでしょうから。桶狭間は今川勢にとっては死地だったのですね。三国志の馬謖は自らの未熟な策に溺れ大敗を喫しますが、今川義元馬謖のように油断と慢心によって自らを死地に追いやったのでしょうか?「策士策に溺れる」という故事はいつの世も繰り返されるということの教えなのですね。

 

さて、今回のルートはいかがでしたでしょうか?前回とは真逆の方向への逃走になりましたがさて。

真相はどうだったのでしょうか?

以上。本陣位置を「おけはざま山」と仮定した時の桶狭間の戦い予想戦図でした。

 

よかったら別パタンの「桶狭間の戦い」もどうぞ。

https://ameblo.jp/haruurara0624/entry-12602405412.html