三浦春馬という感動。 | 春馬街道を疾走する馬.新参者/春馬さんへの想い

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春馬くんはみくびれない男。
天晴れ春馬。
偏愛ブログです、ご了承下さい。
seasonⅡは、はてなブログから。

 

昨年末の29日か30日だったか
知人の家でランボーのポスターを見た。
 
 
「ランボー最後の戦場」
 
無駄に生きるか何かのために死ぬか ・・・
お前が決めろ
 
と、ある。

 
表現は極端だが、
その知人はいかにもそういう事を
信条にしていそうなひとだ。  
まあ、好きだけど。。
 

なんだか私もそのポスターとその知人に
おまえはどうなんだ。。と
問いかけられているような気持ちになる。
(苦笑)
 
 
やけに心に残る。
 
 
 
新年をむかえ、春馬さんに出会い
深い深い悲しみに溺れていった。
 
 
そしてなぜか
あのセリフがよみがえり
記憶からはずれない。
 
  

生きていてほしかった。
 
これからの三浦春馬を観たかった。
 
春馬さんに人生を謳歌してほしかった。


心からそう思った。
 
 


 
でもいずれは、皆終わる。
 
 
 
 
そして残った人間が、
後に続く若者が
その人となりを見た時に、
長さでは判断しない。。。
 
 
 
結局はどう生きたのか
その人の生き様にひかりがあるか
心揺さぶられるものがあるかをみる。
 
そしてその中に
自分の道しるべを見出したりする。
 
 
 
頑固ともいわれていたようだ。
頑固でなければ、あんな世界で
自分を貫けないだろう。
 
貴方はブレることなく
最後まで自分の信条を貫き生きた。
 
 
 
 
そう、もう
貴方の生き様自体が、芸術であり感動だ。
 
 
 
だから不在にもかかわらず
あとからあとから
貴方を想うファンが増えるのだろう。
 
 
もういない人間を推す。
しかも新たにだ。
 
あり得ない現象だ。
 
 
こんな現象は貴方しかおこせない。
 
 
 
 
 
 
 
 
ファンに望むことは聞かれ
 
何もありません。
僕はファンの“ひかり”になりたい。
 
と語っていた貴方。
 
 

貴方の生き様は間違いなく
今も
ファンの“ひかり”となっている。
 
 

三浦春馬が不在なのは
耐え難い悲しみでしかないが

彼が残した
三浦春馬の生き様という芸術は永遠だ。
 
 
芸術的な生き方をした三浦春馬。
 
 
 
私達には
三浦春馬というひかり、感動を
後世に伝えていくという役目がある。
 
 
 
 
見えていたところで
なんの感動もないモノもある。
 
見えていなくても
心揺さぶられるモノもある。
 
 
 
無駄に生きるか何かのために死ぬか ・・・
お前が決めろ
 
だから
これが私の気持ちにひっかかるのだろう。
 
 
 
三浦春馬はみえなくなった今もなお
つよい“ひかり”を放っている。
 
 
 
 
 
私事で恐縮ですが
本投稿で100投稿になります。
 
 
ひとつの目標にしたきた100投稿。
馬並みに走りました。(笑)
 
 
そしてたいした投稿ではありませんが
100投稿すべて、
筆に迷うことなく書くことができました。
私にそんな能力は本来無いのです。
 
 
もうこれは
三浦春馬のしわざとしか思えません。
(笑)
 
 
 
私は、このしわざのおかげで
貴方に手紙を書くという
幸せをもらいました。
 
 
 
そしてその手紙に皆さんが
お付き合いして下さった事も
予想していなかった幸せです。

皆さん、心より感謝申し上げます。
 本当にありがとうございます。
 
 
 
もし宜しければ、今後も
見守って頂ければ幸いです。
 
また伴走を宜しくお願い申し上げます。
 
 
 
春馬さん、ありがとう。
春馬のしわざ
これからもお願いしますよ。。。

まだまだ、褒めちぎりますからね。