『史記』は、他に無数の「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。

 劉邦が、赤龍の子であるとする逸話があり、漢が、火徳の帝朝と称することに繋がっている。

 また、前述の通り、劉媼が、劉邦を出産する前、夢の中で、神に逢い、劉太公は、劉媼の上に龍が乗っている姿を見たとの逸話は、赤龍の子とする、逸話の補完であろう。

 ある時、劉邦は、亭長の役目を任ぜられると、人夫を引き連れて、咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた、人夫達は、次々と逃亡した。

 秦は、法が厳しいため、人夫が、足りなければ、その引率者が責任を取らされた。

 劉邦は、浴びるように酒を飲み、酔っ払って、残った全ての人夫を逃がしたのである。

 劉邦は、行く宛てがないと残った、人夫達と共に沼沢へ隠れた。

 噂を聞きつけた者達が、劉邦の子分になりたいと次々と集まったため、劉邦は、小規模な勢力の頭となった。

 人夫の引率に失敗し、秦の処罰の対象となった点は、劉邦と陳勝は、同様である。

 紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し、反乱軍の勢力が、強大になった。

 沛の県令は、反乱軍に協力するべきか、否かで、動揺した。

 蕭何と曹参が、「秦の役人の県令が、反乱しても誰も従わない。

 人気のある、劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。

 沛の県令は、一旦は、二人の進言を受け入れた。

 しかし、県令は、劉邦の元に使者が向かった後に考えを翻すと、沛の門を閉じて、劉邦を締め出そうとした。

 劉邦は、一計を案じて、絹に次の様な手紙を書き、城の中に投げ込んだ。

 その手紙には、「今、この城を必死に守っても、反乱軍が、何れ、沛を攻め落とす。

 そうなれば、沛の人々に災いが及ぶ。

 今の内に県令を殺し、頼りになる人物を長に立てるべき」と。

 劉邦の手紙に応えた、沛の城内の者は、県令を殺して、劉邦を迎え入れた。

 沛の長老達は、劉邦に新たな県令に就く事を求めた。

 劉邦は、当初は、「天下は乱れて、群雄達が争っている。

 自分等を選べば、一敗地に塗れることになる。

 他の人を選ぶべきだ」と辞退したが、蕭何と曹参までが、劉邦を県令に推薦したために、劉邦は、県令となった。

 以後、劉邦は、「沛公」と呼ばれるようになる。

 劉邦は、蕭何、曹参、樊噲等と共に地元の若者、2,000~3,000人達を率いて、武装集団を結成し、秦に服属する、胡陵及び、方与等の周囲の県を攻めに行った。

 劉邦は、故郷の豊の留守を沛の豪族の雍歯に任せたが、雍歯は、陳勝から、自立して、旧魏の地に割拠していた、魏咎の武将の周巿に誘われて、寝返ってしまったのである。

 劉邦は、激怒して、豊を攻めるが、落とすことができず、仕方なく、沛に帰った。

 当時、陳勝は、秦の章邯の軍に敗れて、逃れたが、配下の呂臣によって、殺害された。

 前述の通り、陳勝の傘下に属した、楚の公族の末裔である、景駒が、同じく、陳勝軍の甯君と秦嘉により、陳勝に代わって、楚の王に擁立されていた。

 劉邦は、豊を落とすためには、更に兵力が、必要だと考えると、景駒に兵を借りに行った。

 劉邦は、碭を、3日で、攻め落とすと、6千の兵を収めたため、元の兵と合わせ、9千人の兵力となった。

 同年3月、劉邦は、下邑を攻め落とすと、豊を攻めるが、落とせなかった。

 そして、劉邦は、前述の通り、項梁の許に赴いたのである。