しかし、劉太公の度重なる、口添えにより、劉邦は、劉伯の遺児の劉信に爵位を与えたが、その称号は「羹頡侯」であった。

 羹頡は、羹(あつもの)の入った、鍋を擦るとの意味で、過去に劉伯の妻が、劉邦に対して、行ったことを露骨に当てこすっていた。

 劉邦は、嫂から、受けた、仕打ちを終生、忘れることはなかったのである。

 挙兵以前の劉邦は、親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ、生活をしていた。

 幼い頃の劉邦は、魏の公子である信陵君を慕い、彼の食客だった、外黄県令の張耳を訪ねて、親交を深めた。

 その後、魏が、秦によって、滅亡すると、張耳は、姓を変え、陳に忍び込み、劉邦は、故郷に戻った。

 後に張耳は、陳余と対立し、劉邦の許に逃げ込むことになる。

 秦の天下統一後、劉邦は、沛東に位置する、泗水の「亭長」、即ち、現在の警察分署長に就いたが、任務に忠実な官人ではなかった。

 当時の沛の役人の中には、蕭何、曹参がいた。

 二人は、劉邦の挙兵後、劉邦の重臣になり、特に蕭何は、「高祖三傑」の一人に数えられる。

 しかし、蕭何、曹参は、泗水亭長の時期の劉邦を高く、評価していなかったとされる。

 劉邦は、真面目に働かなかったが、何故か、人望のある、性質であり、仕事で失敗すると、周囲が、擁護し、劉邦が、飲み屋に入れば自然と人が集まり、満席になるので、その店は、劉邦のツケ払いの踏み倒しを黙認していたと伝えられる。

 劉邦は、儒教的観点の「人徳」と異なるが、任侠の親分肌の「人徳」を備えていたのである。

 『史記』によれば、ある時、劉邦は、夫役で咸陽に行ったが、秦の始皇帝の行列を見ると、「ああ、大丈夫たる者、あのように成らなくてはいかんなあ」と語ったという。

 また、単父の有力者の呂公が、仇討ちを避け、沛へ逃げて来た。

 呂公を歓迎する、宴が開かれ、蕭何が、宴を取り仕切った。

 沛の人々は、各々、進物に金銭を持参して、集まった。

 しかし、宴に余りに多くの人が集まったので、蕭何は、進物が、千銭以下の人は、地面に座ってもらおうと提案した。

 その時、劉邦が、宴の場に来ると、進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた。

 呂公は、余りの金額に驚き、門まで、劉邦を迎えて、上席に着かせた。

 蕭何は、劉邦が、銭を持っていないことを知っていた。

 蕭何は、「劉邦は、以前から、大風呂敷であるが、実際に成し遂げたことは少ないので、本気にしないで欲しい」と言ったが、呂公は、劉邦を見て、歓待した。

 呂公は、劉邦の人相を見込みと、自身の娘を劉邦に娶わせた。

 呂公の娘こそが、呂雉である。

 呂雉は、劉邦が、漢を建国すると、呂皇后となり、劉邦の死後、呂太后として、専横を振るうことになる。

 呂太后は、後世、唐の則天武后、清の西太后と共に「中国三代悪女」の一人に数えられる。

 しかし、呂雉は、漢の建国の以前は、夫の覇業を助けた、賢妻であったと言える。

 劉邦は、呂雉と結婚後、生活は、変わらず、侠客であった。

 呂雉は、有力者の娘の生まれであるが、劉大公の農業の手伝いをし、二人の子供を育てながら、生活していた。

 『史記』によれば、ある時、呂雉が、田の草取りをしている時に、通りかかった老人が、呂雉の人相が、非常に貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝及び、魯元公主)の顔を見て、二人を貴いと驚いた。

 老人は、劉邦が、帰ってくると人相を見て、「奥さんと子供達の人相が、貴いのは貴方がいるためである。

 貴方の貴さは、言葉にできない」と言ったとされる。