イングランド軍は、フランス軍本隊に押し寄せ、多くの貴族及び、騎士を捕虜にした。
戦闘は、1時間程度で、大勢が決したが、フランス軍の1部隊が、イングランド軍の背後に回り込み、輜重車輌を略奪したために、ヘンリー5世は、降伏した、フランス軍の捕虜が、再度、戦闘に参加しないように殺すことを命じたのである。
その後は、虐殺となり、アジャンクールの戦いは、イングランド軍の完勝に終わった。
アルマニャック派の幹部は、戦死、または、捕虜となり、過酷な扱いを受けて、長期間、イングランドに幽閉された。訓練された、平民の射手が、貴族の騎士を圧倒したことは、中世的な騎士道の没落及び、軍事戦術の転換点を示す、象徴的な出来事となったのである。
神聖ローマ皇帝ジギスムントは、イングランドとフランスの和平のためヘンリー5世の許を訪れた。
ヘンリー5世は、皇帝を歓待し、ガーター勲章を授与し、ジギスムントは、返礼にヘンリーをドラゴン騎士団に登録した。
1416年8月15日、イングランドのフランスへの賠償請求権を認めた、ジギスムントは、カンタベリー条約を締結したのである。
1417年、ヘンリー5世は、再度、フランスに大規模な進攻作戦を開始した。
カーン等のノルマンディー地方の沿海部は、瞬く間に占領され、ルーアンは、パリから、分断されて、攻め立てられた。
フランス政府は、ブルゴーニュ派とアルマニャック派の抗争によって、機能しおらず、ヘンリー5世は、巧みに両派を争わせていたのである。
1419年8月、イングランド軍は、パリ城外へと達した。
フランスの王太子のシャルル、即ち、後のシャルル7世とブルゴーニュ公ジャン無怖公は、イングランドに共闘すべく、和解の交渉を開始したが、9月10日に王太子の支持者が、ジャンを暗殺した。
そのため、ブルゴーニュ派は、ヘンリー5世のイングランド軍と協同することにしたのである。
イングランド軍、ブルゴーニュ派、フランス王室を交えた、3者は、6ヶ月の交渉の末、1420年5月21日にトロワ条約が結ばれた。
トロワ条約では、ヘンリー5世が、フランスの王位継承者及び、摂政となることが、遂に認められた。
そして、6月2日、ヘンリー5世は、シャルル6世の娘、カトリーヌと結婚したのである。
その結果、ヘンリー5世は、フランス王シャルル6世の娘婿となり、シャルル6世の死後、ヘンリー5世が、フランスの王位を継承することが、確定したのである。
1420年12月1日、ヘンリー5世は、シャルル6世とブルゴーニュ公のフィリップ3世と共にパリに凱旋した。
そして、パリ大学及び、フランスの三部会は、トロワ条約を支持したのである。
1421年6月10日、ヘンリー5世は、南フランスに抵抗の拠点を移していた、元王太子のシャルルとアルマニャック派を討伐するため、再度、フランスに遠征した。
ヘンリー5世は、10月には、ドルー及び、モーを攻略した。
しかし、同年8月31日、ヘンリー5世は、パリ郊外のヴァンセンヌの森で、モー包囲戦中に感染した、赤痢にて、崩御した。
享年、34歳。
ヘンリー5世は、トロワ条約の締結の時、病弱な義父のシャルル6世よりは、長生きする、自信があったため、「次のフランス王」と取り決め
たが、結局、わずか、7週間ではあるが、シャルル6世が、長生きすることになった。
その結果、「イングランド・フランスの王」は、誕生することなく、両国は、各々の「王」を戴く道を歩んだのである。
