王建は、自身、都の外に敬順王を迎えに行き、最高の礼遇により、敬順王を迎え入れた。
王権は、敬順王を、高麗の最高の官職、「太師」に任命し、王族以上の最高待遇を与えた。
更に、慶州の地方の税収を敬順王の財産として認め、豊かな生活を保証した。更に王建は、自分の長女の「楽浪公主」を敬順王に嫁がせたのである。
同時に、王建自身、新羅王室の女性、神成王后を妃に迎え入れた。
その結果、高麗王室と新羅王室は、血縁的に一体となった。
新羅は、992年の歴史の幕を閉じた。王建は、新羅の王位を簒奪ではなく、敬順王から、正式に禅譲を受けた。
その結果、高麗は、名実共に、「新羅の正統な後継者」の権威を手に入れ、半島の統一へと向かったのである。
翌年の936年9月、王健は、十万の兵を率いて、後百済の討伐に向かった。
高麗の軍勢の先頭に立っていたのは、後百済の建国者であり、前王、そして、王の神剣の実父である、甄萱であった。
両軍は、一利川で、激突したが、後百済の兵達は、建国の英雄、甄萱が、現れたのを見て、次々と高麗軍に降伏し、後百済軍の士気は、完全に崩壊したのである。
王建の本隊が、後百済軍に猛攻を仕掛けると、瞬く間に潰走し、高麗軍は、黄山付近へ攻め込んだ。
神剣は、王建の陣営へと出向き、正式に降伏した。
後百済は、建国、わずか、36年にして、滅亡し、王建による、「後三国統一」が、完全に達成された。
甄萱は、自身の手により、我が子を打ち破り、自身が、建国した国を滅ぼすことになったのである。
甄萱は、黄山寺に入ると、後百済の滅亡の数日後に死去したとされる。
王建は、後百済の政変を主導した、能奐達、朝廷の重臣を処刑し、神剣の弟の良剣及び、竜剣を流刑にし、その後、処刑したが、神剣のみは、助命し、官職を与えた。
王建は、半島を統一すると、豪族の連合体であった、高麗の中央集権国家の構築を目指したのである。
王建は、豪族との婚姻政治を進めて、自身に協力的な、豪族に対しては、王室と同じ、「王」の姓を授ける、「賜姓制度」を行った。
更に、豪族を制度的に統制するため、事審官制度により、中央の高級官僚の人物に、出身地方の治安、統治の責任を持たせた。
また、王権は、其人制度によって、地方豪族の子弟を人質として、開城に住まわせたのである。
王建は、自身の政権の正統性を補強し、人々の心を一つにするため、思想の融和を図り、仏教を国教化した。
更に、国家の安寧を祈る、仏教の儀礼の「燃灯会」及び、「八関会」を国家行事として、定着させることによって、民心の安定を図った。
王建は、風水地理説を重んじて、西京を「国運を盛んにする聖地」とし、大規模な開発を行ったのである。
943年、王権は、自身の死期を悟ると、後継者の未来の国王達が、守るべき、絶対的な、政治遺訓として『訓要十条』を書き残した。
その8条には、後百済の領土、即ち、現在の全羅道地域について、風水地離接を用い、その地域の出身の人物を重要な官職への登用を禁じており、20世紀末まで、1000年間続いた、地域差別の負の遺産となったのである。
王建は、943年7月4日に病死した。享年、67歳。
死後、王権には、「神聖大王」という、諡号及び、王朝の創始者を意味する「太祖)」の廟号が贈られた。
王建は、唐の力を借りた、新羅の不完全な統一を越え、「半島における、真の統一」を実現した。
王建の高麗により、半島の人々は、「一つの民族」としてのアイデンティティを確立したのである。
