劉邦が、景駒に兵を借りに行った途上、同様に、景駒に従おうとして、留に赴いた、張良に出会った。

 劉邦にとって、張良との邂逅は、景駒に兵を借りるより、遥かに重要であった。

 張良は、劉邦と出会うと、劉邦に従うことに決めたため、張良は、景駒と会見しなかった。

 劉邦と張良の出会いが、中華世界の歴史の運命を変えたと言える。

 劉邦と張良の関係は、『三国志』の劉備玄徳と諸葛孔明と同様、「水魚の交わり」である。

 中国史上において、「王佐の才」、即ち、王の補佐役としては、周の文王及び、武王の太公望、斉の桓公の管仲等、多数、存在するが、劉備と孔明の次に、劉邦と張良が、有名であろう。

 劉邦は、張良を得たことによって、その覇業への道を開いたのである。

 張良は、祖父の張開地が、韓の昭侯・宣恵王、襄王の相国を務めて、更に、父の張平は、釐王・桓恵王の相国を務める等、韓の名族の生まれである。

 父の張平の死の20年後、即ち、紀元前230年、秦の始皇帝は、内史騰を派遣し、10万の軍勢により、韓を責め、韓王安は、捕虜となって、韓は、戦国七雄の内、最初に滅亡した。

 韓の滅亡時、張良は、未だ、年若く、官職に就いていなかったとされるが、張良の生年は、不明である。

 張良は、祖国を滅ぼした、秦への復讐を誓った。

 張良の家は、家童が、300人の裕福な家であったが、弟が死んだ時に、葬式を出さず、全財産を売り払って、秦の始皇帝に対して、仇を報ずるための客士を求めたのである。

 張良は、河南の淮陽で、礼を学ぶと、更に東へと旅をして、倉海君という人物と出会い、話し合って、屈強な力士を借り受けることができた。

 紀元前218年、始皇帝が、第2回巡幸の途中にて、博浪沙を通った時、張良は、始皇帝の暗殺を企て、力士に重さ120斤の鉄槌を始皇帝の乗る、馬車目掛けて、投げさせた。

 しかし、鉄槌は、副車に当たってしまい、暗殺は、失敗に終わった。

 前述した、始皇帝の第二回暗殺未遂事件である。

 始皇帝は、激怒して、天下を探し、賊を捕らえるよう命じた。

 張良は、偽名を使って、下邳に逃れ、任侠の徒となった。

 なお、下邳で身を隠していた頃に、人を殺して、逃亡中であった、項伯を匿まっている。

 項白は、楚の将軍、項燕の息子で、項梁の兄弟である。

 項梁が、項燕の末子とされるため、項白は、項梁の兄と考えらえる。

 前述の通り、項羽の父の名は、不明であり、項羽は、項梁に育てられたため、項白より、項梁に従った。

 項白は、張良に匿われた、恩があったため、後の鴻門の会において、張良を助けようとして、結果的に、劉邦を救ったのである。

 張良には、名軍師になる、過程において、黄石公の伝説がある。

 張良が、始皇帝の暗殺の失敗後、下邳に身を隠していた時、一人の老人と出会った。

 老人は、履を橋の下に落として、袂を歩いていた、張良に「拾え」と命じ、張良は、怒らず、従った。

 老人は、一度、笑って、去ったが、後に戻ってきて、五日後の朝に同じ場所での再会を約束した。

 五日後、老人は、同じ場所に先に来て、待っており、張良は、日が昇ってから、現れた。

 老人は、張良に対し、「目上の者との約束をしておきながら、遅れてくるとは何事か」と、また、五日後に会う約束をする。

 張良は、次の五日後に、日の昇ると同時に約束の場所へと行ったが、老人は、既に来ていて、以前と同じことを言った。