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ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

一人の作家による伝記小説は読みやすさはあるが作家の想像の限られた世界で、筋書きがなされた印象を受ける。一方、本人の日記やその人に接した人々の話、エピソード等を綴り合わせたものは、自分の中でその人物像を描く。それは労力を必要とするが少しずつ人物に迫る愉しみがある。

そして、和歌からもその人物像をうかがいしることが出来る。

武士(もののふ)の腕をし鍛う太刀風に
秋の枯葉も散りつくすらむ

月清く故郷に似たる山何処
二度春を迎ふる歳の忙しさ

惜しからぬ老の身一人永らへて
行く末永き若人の散る

私がこの人物を知りたいと思ったのは、私自身が「軍の暴走」と歴史にレッテルを貼って思考停止してしまったのではないかという疑問と反省からである。知らずして自分の頭に整理されてしまった怖さからである。

私の理解が足りないと痛感した一文を挙げたい。
この人物と同期、沢田茂氏の話。
「尊皇は明治維新の精神である。日本陸軍はこれを建軍の精神として、堅持発展せしめた。そして、この精神の窮る所は遂に形而下の生死成敗を度外視し、ひたすら悠久の大義に生きんとし、七生報国の激情となる。終戦時わが陸軍を沸騰せしめたのは、じつにこの精神であった。・・・・」

p.41 『阿南惟幾伝』講談社 より引用

つづく 予定
※重い話ですから、負担に感じられる方は流してください。

この一ヶ月、はじめて医療のあり方について考えた。
医師の説明によると、脳梗塞をおこした場合、脳が腫れたり出血するという。そうして、ついには小脳や脳幹を圧迫し、生命を維持する機能を失うらしい。

脳梗塞の場合、それが自然の摂理に従った生命の終わり方だとすると残酷である。しかし、人間の業でそれをくい止めようとして生命を維持すると、結果さらなる残酷な状況を引き起こすこともある。

私は今まで漠然と延命を厭い否定していた。
感覚的に胃ろうは嫌な行為と感じていた。
けれども、他の方法が患者に苦痛を強いる時、余儀なく身体を拘束される時、一概に胃ろうを否定出来るだろうか。

仮に、科学的に生命を維持することが医療だとするのであれば、医療費の増大は自明となるゆえ、救命と延命の境界線を私達自身(国民)が決定しなければならないのかもしれない。

今の医療のもとで、人間の尊厳に重きをおき、人間らしく人生の幕を閉じるのは、こうも難しいことかと思う。
最近、自分自身の物の見方が変わってきたように感じるので、そのことについて記しておきたい。

今までは他と比べては嘆いていた。商売は各々、立地が違えば環境も違う。また、季節や時間帯によって客数に差があり、ターゲットに関しても固定客と不特定多数では大きく違う。今までそれを分っていながら比べて嘆いていた。しかし、最近は比べる事がナンセンスだと思えるようになってきたのである。

これも、ひとつひとつの物事をありのまま見るようにしようと心がけているからかもしれない。

政治とビジネスを同列に考えてはならないのであるが、昨今の話題になっている政治家からヒントを得た部分もある。

不特定多数をターゲットにするか
人脈を築いて固定客を増やすか

この視点で見てみると、不特定多数をターゲットにする場合、人々の関心事によって大きく変化する風向きにより行動せざるを得ないところがある。イメージ先行。そのイメージを広く認識してもらうべく、ことさらにある一面だけを誇張するといった行き過ぎに陥りやすい。一方、人脈を活かす場合、時間も投資も必要であるが一定の安定感を得られる。しかし、特定の人々の意向を受けたり、何かしらプレッシャーを感じて影響される。それは、「わずらわしさ」や「しがらみ」かもしれない。

今までは、固定客をつかんでいる店舗の安定した側面だけが目につき、羨ましく思っていたが、「わずらわしさ」や「しがらみ」も考えると一長一短である。

こうして、それぞれの特性を明らかにすることで、今までより、はっきりと物事を見ることができた。私は物事をひとつひとつ見ることの大切さを刻んでおこうと歌に詠んだ。




朝焼けの 淡く焼けたる その空の
またふたつとない けふの朝焼け



わたしたちは、ふたつとない後戻りの出来ない時間の世界に住んでいる。


 
雨雲を見ては憂い 

青空を仰いでは喜び

事に触れては疑問を呈し

人の温かさを懐かしみ

期待もし 落胆もする 

日がな一日

思いを巡らすと いつも

この『真心(まごころ)』に返ってくる



[コピー]コルトナの朝 2016-06-01


   ※再生時の音量にご注意ください


 ~辻井伸行さんのことば~

 「今日は初めてやったけど

 上手く気持ちよく弾けたと思うし・・・

 ・・・とにかく皆さんに感動して頂けて

 僕も もう大満足です

 とっても上手く弾けて嬉しいです」


  *   *   *


旋律の美しさ、表現の豊かさはもちろん
素直に喜びを表わし
上手く弾けたと率直に言えることは
素敵だなと思いました。




☆平成29年6月6日追記

辻井さんの、この心こそ「真心」であると思います。「真(ま)」とは、空の青さを表現するときにいう真青(まつさを)の「真」、本居宣長のいう「真心」とは、現在使っている意味の「真心」(心のこもったという意味)とは異なり、そのままの心を意味します。

本居宣長研究ノート「大和心とは」第七回「「真心(まごころ)」とは」の巻 改定稿
こちらから引用させていただきます。括弧内全て引用。

「・・真心(まごころ)とは、「事に触れて動く心」と定義されているのです。」

「・・事に触れてありのままに動く心を、「真心(まごころ)」というのです。」

「・・心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態を、「実(まこと)」と言うといいましたが、真心(まごころ)も、心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態に外なりませんから、「真心(まごころ)とは実(まこと)にあることである」ともいえるでしょう。」


辻井さんの心と言葉と演奏という行為が一致している、この状態こそが真心(まごころ)であり実(まこと)であると思います。

「私たちがこの世において、漢意(からごころ)を取り去って生きるということは、刻々と出現する「事」に対して、常に「真心(まごころ)」を発し続け、「実(まこと)」の位(くらい)において存在していくこと」


真心(まごころ)を発し続けて生きることこそが、漢意(からごころ)を取り去って生きること。こうしたからああなる、これをしたから報われる、見返りがある、こうすべきだ、今までとらわれていた意識が何とそのままの心「真心(まごころ)」からかけ離れたものであったのでしょう。改めて辻井さんの演奏と彼の言葉を聴くと心が洗われました。