[コピー]コルトナの朝 | ひだまり 日常生活

ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

 
雨雲を見ては憂い 

青空を仰いでは喜び

事に触れては疑問を呈し

人の温かさを懐かしみ

期待もし 落胆もする 

日がな一日

思いを巡らすと いつも

この『真心(まごころ)』に返ってくる



[コピー]コルトナの朝 2016-06-01


   ※再生時の音量にご注意ください


 ~辻井伸行さんのことば~

 「今日は初めてやったけど

 上手く気持ちよく弾けたと思うし・・・

 ・・・とにかく皆さんに感動して頂けて

 僕も もう大満足です

 とっても上手く弾けて嬉しいです」


  *   *   *


旋律の美しさ、表現の豊かさはもちろん
素直に喜びを表わし
上手く弾けたと率直に言えることは
素敵だなと思いました。




☆平成29年6月6日追記

辻井さんの、この心こそ「真心」であると思います。「真(ま)」とは、空の青さを表現するときにいう真青(まつさを)の「真」、本居宣長のいう「真心」とは、現在使っている意味の「真心」(心のこもったという意味)とは異なり、そのままの心を意味します。

本居宣長研究ノート「大和心とは」第七回「「真心(まごころ)」とは」の巻 改定稿
こちらから引用させていただきます。括弧内全て引用。

「・・真心(まごころ)とは、「事に触れて動く心」と定義されているのです。」

「・・事に触れてありのままに動く心を、「真心(まごころ)」というのです。」

「・・心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態を、「実(まこと)」と言うといいましたが、真心(まごころ)も、心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態に外なりませんから、「真心(まごころ)とは実(まこと)にあることである」ともいえるでしょう。」


辻井さんの心と言葉と演奏という行為が一致している、この状態こそが真心(まごころ)であり実(まこと)であると思います。

「私たちがこの世において、漢意(からごころ)を取り去って生きるということは、刻々と出現する「事」に対して、常に「真心(まごころ)」を発し続け、「実(まこと)」の位(くらい)において存在していくこと」


真心(まごころ)を発し続けて生きることこそが、漢意(からごころ)を取り去って生きること。こうしたからああなる、これをしたから報われる、見返りがある、こうすべきだ、今までとらわれていた意識が何とそのままの心「真心(まごころ)」からかけ離れたものであったのでしょう。改めて辻井さんの演奏と彼の言葉を聴くと心が洗われました。