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ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                

空翔ける 鳥に習ふる心ばへ
まねび したへど 瞬く間かな


 ※大津皇子が眠る山を仰いで
さくら花 はるかかみより 流れきて

あてなきゆゑに 川藻に揺らん






阿南惟幾は表向きは陸軍大臣として本土決戦に持ち込んでまでも、徹底抗戦を主張した。しかし、決して人命を軽んじていたわけではない。

(昭和十九年 日誌)
「刀折レ矢尽クル迄 任務ヲ果シテ後 始メテ玉砕アリ。 近時玉砕ニ急ギ大局ヲ失スルハ惜シムベシ。死ハ易シ、死二処スルハ難シ。・・」※1

また、徹底抗戦を主張したのは陸軍大臣の立場上、軍の統制を保つ為そうせざるを得なかった。加えて、出来る限り有利に講和をもっていきたい、国体護持を確実にしたいとの考えがあったようである。

・・「もし、国体の維持のみを条件としてポツダム宣言を受託すれば、国体の維持自体が保証しがたいではないか。これらの条件をつけてこそ国体を守ることができる。・・」※2

これらの条件とは、
一、占領は小範囲かつ短期間であること
二、武装解除は日本側で行う
三、戦争犯罪人の処罰も同じく日本側で行う ※3

「武装解除を自主的にさせてくれることが、平和を速かにする道ではありませんか。保障占領問題においても、当方は艦もなく飛行機もないまる裸の状態になれば、少数の監視者でたりるはずであり、それこそ連合軍にとっても、勿論わが国にとってもよいことであり、これを条件として提示することは、少しもおかしくないと思います。」※4

戦争犯罪人の処罰を自国で行うことについては、一見妥当な判断ができるだろうかと疑問に思わないわけでもない。しかし、「東京裁判」そのものや「平和にたいする罪」「人道にたいする罪」について考えると、これこそどうなのかと思う。改めて考えてみれば、私にはもっともな条件に思える。ただし、戦局、時期を考えた場合、どうなのだろう。

「だからいうておるではないか。あとの三条件を放棄することは、すなわち大和民族の滅亡なのだ。生き残る者がいるとしても、その者たちは精神的に死んだも同然である。敵のいいなりに奴隷国家となるよりは日本人は死をえらぶ。国民にはその覚悟がある。」梅津と阿南が代わる代わる東郷の追及を押し返した。※5

戦争の早期終結を望みつつ、強硬路線、徹底抗戦を主張してきた阿南惟幾。「尊皇は明治維新の精神である。・・(中略)・・終戦時わが陸軍を沸騰せしめたのは、じつにこの精神であった」これを礎とした上の国体護持。私たちは彼の葛藤をどれくらい想像できるのだろう。

遺書に書き加えられた一文、この心情を、重みをどれほど理解することができるだろう。

『神州不滅ヲ確信シツゝ』



※1 p.164 『阿南惟幾伝』 沖 修二 著 講談社
※2 p.310 『阿南惟幾伝』
※3 p.400 『東郷茂徳』 阿部牧郎 著 学陽書房
※4 p.317 『阿南惟幾伝』
※5 p.403 『東郷茂徳』
中略 人物伝(1)


4月4日追記:酒場でDABADAさんのブログにてこの記事のテーマと関わりのある貴重なコメントの返信をいただきましたので引用させていただきます。(了承済)


ひだまりで紅茶さん

>けれども、私たちは普通に「安心」という言葉を使って、「安心」を求めている。
>不思議ですね。安心というのは心の状態であるのに、唯物論的な感覚で捉えてるんじゃないかって。

↑安心は物的なものの安全までを保証しているわけじゃないですからね。

「戦争など起こるはずがない」「いざとなったらアメリカさんが護ってくれるに違いない」と、自分に暗示をかけて得るものが安心です。

科学的根拠のない未開の土人の呪術のようなものでしょうね。

平和の念仏を唱えてさえいれば戦争は起こらないと。

翻って、国民と政府の信頼(trust)と言いますのは、空想科学ではなく、歴史的な実践の積み重ねから出てくるものですから、現実的、実際的です。

それを体現していたのが大日本帝国でしょう。

「事件はデスクじゃなく、現場で起こってるんだ」と(笑)。

結果は大敗北でしたが、つまり、物質的には国民を守れませんでしたが、負け戦を覚悟で起ったことでかろうじて形而上の価値としての国体だけは護持できたはずでした。

「はず」と言わなければならないのが何とも歯がゆいですが、北朝鮮の拉致問題にせよ、核開発問題にせよ、沖縄の地位協定問題にせよ、この国の首相には言葉でなく体で示せよと言いたいですね。

***

>作用反作用という表現が適切かわかりませんが、目先の事(作用)にとらわれて、反作用をフォローすることを怠ったか、もしくは、予測する気がなかったとしか考えられないのですが、どうでしょう。

↑予測する気がなかったかどうかは分かりませんが、戦後行われてきた「カイカク」とは、なべて前近代的なものへの「反動」であったということは確かでしょう。

あなたの「作用、反作用」理論をお借りして言えば、自由を放置すれば放埓となり、次にその反作用として抑圧が来る。

平等を過剰に求めれば画一となり、その反作用で差別に転じる。

博愛を普遍的とすれば偽善に陥り、偽善に嫌気がさした後には酷薄がやってきます。

合理とて、それを人間理性に頼るを専らとすれば、単なる技術的合理、つまり、簡便性や利便性だけが目的となる。

「思想の平衡棒」を持たない者による変化は、こうした幼稚園のシーソーごっこと何ら変わらない児戯に等しいものとなっていきます。

そこで登場するのが、「プレスクリプション(予めの規定)」です。

自由が放埓に転じないために予め適度な規制をかける。平等が平板化しないために、予め緩い位階制を設置しておく。博愛が偽善に堕落しないよう、他国(人)との間に適当な距離を置く。

その具体的なやり方は既に繰り返し言及してきた通りです。

https://ameblo.jp/dentou-hosyu/entry-12364367869.html
          
前述(人物伝)の“尊皇は明治維新の精神である”、このことは誰もが知り、また容易に想像も出来るが、これに続く“日本陸軍はこれを建軍の精神として”という箇所を読んで、私は何か頭の中の絡まった糸がほどけた気がした。そして、当時の意識を少しでも逸話からつかみたいと思う。

「・・九月十五日は、大帝の御遺骸を永遠に桃山に鎮座しませる日であった。幼年学校では全校生徒に対し、丸山教官殿の『明治大帝を偲び奉りて』と題する謹話と、樋口教官殿の『君に捧ぐるの命』という題目のもとに、乃木将軍の殉死についての講話が行われた。乃木将軍夫妻の殉死の状況を詳細にご覧になって来られた樋口教官の、二時間にわたる講話は、舌端火花を発する熱情と気概があった。われわれは悲哀と感激に興奮した。」※1

― 阿南の教え子 故野末氏の手記「阿南生徒監を憶う」―
しかし、野末氏はその日の日記に“講演拝聴”などと簡単に記してしまった。

「『感激あふるる講話を拝聴し、なんら所信の記述なし、子は日本人なりや』と(阿南生徒監から※3)書いて返された。・・・・『子は日本人なりや』の、この一言は骨身に徹してこたえた。・・・・日本人なりや、日本人としての責務を果たしているや否や、日本人としての矜持をたもっているや否や、このような反省をたえず繰り返してきた、・・」※2

※1=p.81 ※2=p.82 『阿南惟幾伝』より引用
※3=引用者補筆

つづく 予定