死者の日、というとメキシコの祭りが思い浮かぶでしょうか。


ディズニー映画の『リメンバー・ミー』で日本でも有名になったように思います。

 

 

(リメンバー・ミーよりウン・ポコ・ロコ(英語ver)。楽しさが伝わってきて好きです )

 

 

メキシコの伝統の祭りと習合したのだったと思いますが、

キリスト教(カトリック)でも同日に死者の日(11/2)があり、11月は死者の月となります。

 

 

死者の日(ししゃのひ)または万霊節(ばんれいせつ、All Souls’ Day)は、キリスト教で全ての死者の魂のために祈りを捧げる日である。ローマ・カトリック教会では正式には「The Commemoration of All the Faithful Departed(信仰を持って逝った人全ての記念日)」と呼ぶ。11月は「死者の月」とされる

 

前の記事(奴隷の幸せから抜け出した『晴れやかな朝』を迎えるために)でも死の間際の話を展開しましたが、

死、生、悲劇、回復等について、ドクター苫米地とまといのばでの議論を見てみたいと思います。

引用で構成されています。

 

 

 

宗教は死について明快な答えを用意することが大きな役割だった

 

「死」というものを受け入れられない、身近な人の死に対して、心の整理がつかない――「死」は古来、人間が抱えてきたテーマです。特に、肉親やごく親しい人が、何の前触れもなく、突然、目の前からいなくなってしまえば、「心の整理をつけろ」と言うほうが酷だというのもわからなくはありません。 洋の東西を問わず、古来、宗教もしくは先祖崇拝のような信仰が存在するのは、「身近な人の死に対して心の整理をつけるため」や「自分が死ぬことを考えて絶望しないため」という大きな理由があったからです。もちろん、それだけではありませんが、大きな理由の一つ、もしかすると最大の理由の一つと言ってもいいかもしれません。

 

実際、宗教と名のつくものは、ほぼすべて、死についての明快な答えを持っています。つまり、心から本気で宗教を信じていれば、死に対して心の整理がつかないということはありません。 私の言葉で言えば、どの宗教でもいいから、本気で「洗脳」されてしまえば、死について思い悩むことはないということになります。 天国で楽しく暮らしているに違いないとか、あの世から私たちを見守ってくれているんだとか、宗教に洗脳されている人は、死に対してしっかりとした答えを持っていて、心の整理がついています。

 

(略)

 

本当に死後の世界を見たのなら、戻って来られるはずがないのです。戻って来られたということは、そこで見たものは死後の世界ではなく、生前の世界に決まっています。 こうした妄想を、妄想だとわかって受け入れるのはかまいません。それによって、「死」への恐怖が和らぎ、「死」に対する心の整理がつくのであれば有益です。

 

苫米地英人著 『「生」と「死」の取り扱い説明書』より

 

科学はまだ死を正確に定義できていない

 

実は、死を定義することは非常に難しいのです。それは、我々が個体と考えている体自体が、たくさんの生命の共生体だからです。 脳死を人の死と認めるべきか、どの段階で脳死と判定するかなど、議論がさかんに行われています。これは、共生体である個体の死を、法律的に無理やり定義しようとしているわけですが、議論が行われるということはきっちり定義することができないということです。生命がたくさん集まって、複雑に関係し合っている個体という組織の生と死を法律的にどこかで線引きしなければならないでしょうが、そもそも無理があるので、議論が絶えないわけです。

 

科学はまだ死を正確に定義できていません。宗教は妄想でした。 であるならば、これから私が述べる「苫米地式死生観」は、現時点で宗教も科学も超える考え方かもしれません。少なくとも、死を乗り越えて、前向きに生きていきたいと思う人たちにはかなり有効な考え方を提供できると思います。

 

苫米地英人著 『「生」と「死」の取り扱い説明書』より

 

 

生命現象は川から海への水の流れ(生と死に違いはない、自我はある一座標)

 

生命現象は水の流れのようなものです。最後は海に流れ込みます。川として流れて、死んだらみな海に行くというのが生命なのです。 そして、本当は、川だと思っていたものも、実は海と何ら変わりません。川と海とはつながっていますし、多少塩分の濃度は違うけれど、同じ水が流れています。川と海との境目はどこかと言われても、厳密には定義できません。汽水と呼ばれる、あいまいな部分があって、何となく川が海になっていきます。 こんなふうに見ていけば、生きているときと死んでいるときの差というのは、実は何もないのだと思えるようになるはずです。本当に、何もないのです。

 

すべての存在は、生じることも、滅することもないのです。 生命とは、時間と空間を超えてあり、その生命のある一座票を指さして「自我」と呼んでいるにすぎません。しかし、その自我は川の流れのように、あっという間に流れ去ります。流れの中から、特定の自我を汲み取ることはできません。

 

苫米地英人著 『「生」と「死」の取り扱い説明書』より

 

生命現象とは多次元世界の住人が、ある側面から見れば、物理的現実世界という奇妙な情報空間を通りすぎる、つかの間の現象です

 

フラットランドという印象的な物語の中で最も注目すべきシーンは3次元の存在が2次元空間(フラットランド)を通過する場面でしょう。

これは生命現象の不思議をあますことなく、直感的に理解させてくれます。

生命現象とは多次元世界の住人が、ある側面から見れば、物理的現実世界という奇妙な情報空間を通りすぎる、つかの間の現象です(「つかの間」と言っても、時間は物理空間の位置のことであり、他の空間では定義できないものです)。

 

(略)

それはさておき2次元世界の住人にとって、3次元世界の存在はどう見えるのでしょう?

2次元の世界に3次元の球体が通過することを考えましょう。

これはお馴染みの話しだとは思うのですが、きわめて味わい深い話しでもあります。



最初は球体と平面の接点から始まります。

すなわち小さな点、小さな染みが二次元世界に突如として現れます。

その染みはどんどん大きくなり、だんだん円を成していきます。そのまま大きくなり、球の直径と同じ円が出現したら、、、、そこからまた円は小さくなっていきます。そして最後はまた染みとなり、消えていきます。


これは人間の一生のメタファーでもあります。

受精卵から始まり、体細胞分裂し、胎児が形成され、産道を通過して新生児、幼児、児童と系統発生を個体発生の内で繰り返し、成獣(成人)となり、あるときからしぼみ始めます。

円は小さくなり、身体も小さくなり、あるときその活動は不可逆的に止まり、最後の一つの細胞がおそらくは火葬場の火で燃やされて死滅して、この奇妙な空間での存在を終えます。


しかし、それはひとつの3次元(もしくは時間を含めた4次元空間)の写像でしかありません。

我々は2次元空間を通過する球体の影を2次元人として観ているだけです。それが肉体です。

3次元空間の球体は、2次元における円そのものではなく、我々も肉体そのものではありません。


昔の人は球体にあたる部分を魂と言いました。我々は情報と見做します。

 

(まといのばブログより)

 

 

 

 

人生はただ生きるために生きる

 

あるとき、弟子が釈迦に尋ねました。 「いったい、私たちは何のために、どこを目指して歩いているのでしょうか」 釈迦はこう言いました。

「歩くために歩いている」 つまり、歩くことそのものが目的だというわけです。

 

人生の最終目的地は明らかに「死」です。「天国」という人がいるかもしれませんが、死ななければ行けないのですから、同じことです。

 

「天国に行きたいなら、今すぐに天国へ送ってやるよ」と言っても、相手には喜ばれません。それは人生の目的が、最終地点にたどり着くことではないからです。ドライブをする目的がドライブそのものなのと同様に、人生の目的とは「人生を生きること」なのです。せっかくドライブするなら、その時間を目一杯楽しんだほうがいいのと同じで、せっかく生まれてきたのなら、生きているその時間を目一杯楽しんだほうがいいということになります。

 

苫米地英人著 『「生」と「死」の取り扱い説明書』より

 

自由に機能(役割)を付加して生きることができる

 

人生は、ただ生きるために生きるわけですが、実はもう一つ、生きるということについて重要な視点があります。それは「機能」という視点です。簡単に言えば、社会とか宇宙に対するその人の「役割」と言ってもいいでしょう。

(略)

存在には、必ず機能が備わっています。ただ、その重要性はさまざまです。イエス・キリストが生きているうちに果たした機能によってキリスト教が生まれ、二〇〇〇年も経ったいまでも、世界の人口の半分ほどに強い影響を与えています。これはキリストが、生きている間に果たした機能です。

いつもぼうっとテレビばかり見ている人は、テレビの前の壁と何ら変わらない機能しか果たしていないことになります。

(略)

こんなふうに、機能にはさまざまなものがあるのですが、少なくとも人間は、自分自身の機能をある程度、自分自身でコントロールすることができます。重要な機能を果たしたいと思うのであれば、生きている間が、唯一最大のチャンスなのです。 生きている間の機能は死後も続きます。影響の大小はありますが、消えてなくなることはありません。

(略)

本質は、「生きるために生きる」わけですが、そこに機能を付加する自由も私たちにはあるのです。

 

苫米地英人著 『「生」と「死」の取り扱い説明書』より

 

機能を果たすと縁起が生まれ、縁起は死後も続く(その人の宇宙は消えず、自我も消えない)

 

あなたは宇宙のたった一人の主人公であり、その主人公の役割、主人公にどういう人生を送ってほしいかは、あなたが決めることができるのです。 ただし、それを決められるのは、あなたが生きている間だけです。生きている間に決め、機能を果たすことで、縁起が生まれます。これには、物理的縁起だけでなく、情報的縁起も含まれます。情報的縁起は死後も続きます。

 

情報的縁起とは、単にあなたの名前が後世に残るということとは違います。 あなたの果たした機能の航跡が、後世の人たちにも影響を与え、あなたの果たした機能そのものが生き続けるということです。

 

この情報的縁起が続けば、あなたの宇宙は消えません。 あなたの宇宙が消えなければ、あなたの自我も消えません。

 

苫米地英人著 『「生」と「死」の取り扱い説明書』より

 

 

死生観

 

子どもの疑問1位が「人は亡くなるとどこへ行くの?」というもので、その質問に対するドクター苫米地の答えです。

 

人は生きている時は自分の心の中、

亡くなると親しい人の心の中にいる。

 

一念三千 止観明静

(苫米地英人)

 

 

そして、これに続けて「実は全世界も私たちの心の中にある」とおっしゃっています。

 

美しい入れ子構造です。

 

このことをコーマック・マッカーシーが描くと、またシニカルな感じになります。

 

あんたが死んで存在しなくなれば世界も存在しなくなる。

 

もちろんそのほかの世界が沢山残るわけだ。

 

でもそれは全部ほかの人たちの世界であって、それを理解するといっても幻として受けとめるだけのことだ。

 

唯一あんたにとって意味のある世界は消えてしまう。そして二度と戻ってはこない。

 

ただ僕自身はこれほどシニカルではなく、アンナ・カリーナを書いたトルストイが言うように、自分とは思えないようなものが本来は自分なのだと思っています。
他の人たちの世界、それも「親しい人」の心の中こそが、自分の終の棲家であると。
それが「利他」という概念の中に、T理論では集約されていると思っています。
これは混乱する体験で、そのような私は「全部ほかの人たちの世界」でしかなく、「あんたにとって意味のある世界は消えてしまう」と感じざるを得ないからです。

 

(まといのばブログより)

 

 

以下では残された人の悲しみへフォーカスします。

 

 

悲しみ・苦しみ → 痛みを持ったまま抽象度を上げて癒やす

 

娘を亡くして泣き叫んでいる母親に対して釈尊はこう語りかけます。



『テーリーガーター』の第51偈です。
ジーヴァーという娘を亡くして泣き叫んでいるウッピリーという母親に向けてこう言います。

(引用開始)
母よ。
そなたは「ジーヴァーよ!」といって、林の中で叫ぶ。
ジーヴァーという名の八万四千人の娘が、この火葬場で荼毘(だび)に付せられたが、それらのうちのだれを、そなたは悼むのか?
(引用終了)(『尼僧の告白』p.19)

ここに「抽象度を上げる」ことの肝があるように思います。
単純に視点を上げていくだけにとどまらず、必ず具象的なものとの強いリンクがあるのです。
ふわふわと遊離したカタチの抽象概念をもてあそぶのではなく、カタチも重さも重力もある具象的なものとの強い関係が残るのです。

ここで母親が自分の娘の名を呼んでいることは自明です。

しかし母親の言動だけを虚心に観るならば、84,000人のどのジーヴァーに呼びかけているのかは決定不能です。我々が分かったつもりになれるのは、そのコンテキストを深読みしているからです。

そして釈尊の指摘によって、84,000人の娘がここで荼毘に付され、そしてその娘の死を悔やみ、泣き叫ぶ多くの母親がいて、父親がいて、兄弟姉妹がいて、友人や知人がいたことが容易に想像できます。その悲痛の総体が重くのしかかってきます。

特に自分が苦しんでいる最中だけに、彼らの苦しみを自分のものとすることができます。

そのときに84000通りの哀しみの共同体を俯瞰し、俯瞰しつつも、その一つ一つの痛みを感じることで、自らの抽象度が一気に上るのです。

そのときの抽象世界というのは、ダイレクトに物理世界と結びついています。

 

(まといのばブログより)

 

 

物語でしか臨場感が持てず、その時初めて涙が流せる(mythosの力、芸術の力)

 

我々は自分に起きた悲劇を悲劇として体感し泣くことができるのでしょうか?
サイコパスたちと同じように実は我々も物語にしか臨場感が持てないのかもしれません。
だからこそ、我々は肉親が死んでも、恋人が死んでも驚くほど涙が出ず、それを誰かに話す時にはじめて号泣するということがあるのかもしれません。
話すとはStoryにするということです。

 

(略)

 

彼はクラシック音楽を広めることに情熱を燃やし、紛争時期のアイルランドにも行きました。
その地で対立するカトリックとプロテスタントの子どもたちにショパンの演奏を聞かせます。
おそらくTEDレクチャーでやったような感じで。

そうしたら、翌日その少年の1人がやってきて、指揮者のベンジャミン・ザンダーに言いました。

「俺はさ、いっぺんもクラシックは聞いたことがなかったんだけど、あんたがあの―ショッピング(ショパン)の曲を弾いた時は…」

「俺の弟は去年、撃ち殺されて、その時も俺は泣かなかったんだけど昨日、あんたがピアノを弾いたのを聞いた時、俺は弟のことを考えてたんだ。その時涙が流れているのに気づいて、それでさ、弟のために泣くのはほんとにいいもんだ、って感じたんだ」

"You know, I've never listened to classical music in my life, but when you played that shopping piece ..."
"My brother was shot last year and I didn't cry for him. But last night, when you played that piece, he was the one I was thinking about. And I felt the tears streaming down my face. And it felt really good to cry for my brother."
TEDより引用)


紛争の最中にあって、弟を撃ち殺され、しかしそのときは涙を流せなかった少年が、ベンジャミン・ザンダーのピアノでショパンを聞いた時に、はじめて弟を思って涙を流したという話です。

芸術の力を感じさせる美しいエピソードです。

 

(略)

 

では、なぜ悲劇の追体験がカタルシスにつながるのでしょう。
安心して、激情に身を任せ、怒りにふるえ、哀しみにひたることで、その怒りと哀しみの炎がエゴを燃やす尽くすというのは分かりやすいようで、わずかにカラクリには迫りきれません。

「まといのば」としては、こう考えます。


我々はフィクションなり創作なり、悲劇なりという、そういうものにしか臨場感を覚えられないのではないか、と。
現実はリアルではなく、フィクションがリアルだということです。
古代ギリシャの人はそれをミュトス(Mythos)と言いました。


俺の弟は去年、撃ち殺されて、その時も俺は泣かなかった」のは実はアイルランドの特殊な事態でも、彼の体験に特化したものでもないのではないでしょうか?


昨日あんたがピアノを弾いたのを聞いた時、俺は弟のことを考えてたんだ その時涙が流れているのに気づいて


芸術にはそのような力があり、ピアノにも、演劇にも、そしてバレエにもダンスにも舞踊にも、そういう力があり、それが芸術の本来の役割だと思います。

 

(まといのばブログより)

 

(大切なものというが)そもそも何も失っていない

 

セネカは『書簡集第Ⅳ書』でこんな話を書いている。スティルポーンの国が、攻城王と呼ばれたデーメートリオスに占領された。スティルポーンの妻子は殺された。どんなものを失ったかと問われたスティルポーンはこう答えた。Nihil Perditi 何も失ってはいません。Omnia mea mecum sunt! 私のものはすべて私の中にあります。

 

国王であったのに、国を滅ぼされ、妻子を殺されたスティルポーンに、「あなたはどんなものを失ったのですか?」と残酷な質問がなされます。

 

それに対して、スティルポーンはこう答えます。

 

何も失ってはいません。

 

私のものはすべて私の中にあります。

 

と。

 

ストア派の用語で言えば、アパティアです。

(ἀπάθεια/apatheiaとは、pathos(情動)の否定です。まさにストイックw)

 

これを言い換えて、タレブいわく「彼は奪われるかもしれないものは自分のものだとは考えない」と言います。

(略)

 

ただ、「主が与え、主が取られたのだ。」とヨブが言うときに、そこには創世記の「あなたは、ちりだから、ちりに帰る (創世記3:19)」を思い出します。アダムとは土という意味でした。土塊であり、我々はそもそもちりなのです。

 

ですので、奪われるかもしれないもの、失うかもしれないものは自分のものでは無いと言ったときに、それは自分自身の生命も含まれます。

 

セネカは日々、すべてを失う覚悟をしており、そこには自らの命も含まれます。実際にネロの命令で自死します。

 

ジョブズも「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と毎朝、鏡の自分に問いかけたと言います。いやいや、そもそも西洋にはメメント・モリ(死を忘れるな)と言われてきています。哲学は死の練習とも。

 

(まといのばブログより)

 

 

一瞬一瞬を必死で生きる

 

さておき、小林秀雄です。

アランが書いたことをぼんやりと覚えていると切り出します。
すなわち、アランがある歴史家のトルストイ伝を批判します。
歴史家は歴史を過ぎ去った固定されたものとして見る、と。しかし歴史とはその瞬間瞬間に生起するものであり、トルストイも自分の人生をすべて知っていて演繹的に人生を送ったわけではないということです。

自分の人生を振り返ると当たり前のことですが、他人や偉人となると我々の目は曇りすぎてファンタジーを見てしまいます。

トルストイであれ、アインシュタインであれ、一瞬一瞬を必死で生きただけです。我々と同様に。

 

(引用開始)
 アランが、ある著名な歴史家の書いたトルストイ伝を論じたものを、いつか読みまして、今でもよく覚えていますが、ほぼこういう意味のことを書いていた。ここに書かれていた事柄は、一つ一つ取り上げてみれば、どれも疑いようのない事実である。ところが全体としてみると、どうしてこう嘘らしい臭いがして来るか。三途の川をうろついているようなトルストイが現れるか。いや、確かにアランは、三途の川と書いておりました。なぜ、確かな事実を描いたはずなのに影しか描けておらぬのか。トルストイの生涯は、実に烈しく長い生涯であった。まず、己の情熱の赴くままに生きた。次に、すべてを自分の家庭に捧げて生きた。次には、公衆のために。最後には、福音のために。これらの花や実や収穫は、ことごとく私たちの糧である。私たちが食い尽くすことのできない糧である。しかし、彼自身は食い尽くしたのである。彼自身は、花は萎れ、実は落ちるのを見たのだ。彼の命は、もはや取り返しのつかぬ里程標を一つ一つたどったのだ。

(略)

トルストイも私たちと同様、常に未来を望んで掛け替えのないその日その日を前進したのだ。
(pp.110-111 小林秀雄「私の人生観」)
 

 

(まといのば)

 

 

身体と心は表裏一体(ストレスなど精神的なものは物理に影響を及ぼす)

 

このことはこのブログを読むくらいの人は気功を知っているので「当然そうだ」となるかと思います。

 

ちなみに、あるライフイベントの衝撃がどのくらいのものなのか研究したものもあります。

 

精神的な衝撃が交通事故のような大怪我だったり出産と同じように身体にダメージを与えるというのは、

まだ現代社会では通説となっておらず、ショックを受けている人に対して有効なお話かと思います。

 

(私事で恐縮ですが「精神的な衝撃でダメージを受けるのは自分がおかしい・弱い」という考え方をこの物語で書き換えてもらって救われました。 交通事故に遭って怪我した人に「なんで交通事故程度でダメージを受けているのかと問う人はいない」と。)

 

※ホームズの社会的再適応評価尺度

https://www.niph.go.jp/journal/data/42-3/199342030005.pdf

 

※ ライフイベントよりも日常的なストレスの方がダメージが大きいなど、その後の研究もあるようです

 

 

 

 

以上、です。

ありがとうございました。

 

Hare

 

 

 

【個人的な話】

 

外国の血、貧困、障がい、セクシャリティといったマイノリティへの差別に対して、

当事者として作品を作り続けた青年がいました。


環境と親への憎しみと愛情を併せ持ち、

周囲への毒舌の裏に確かな親しみがあり、

不条理へ怒るだけではなく笑い飛ばすユーモアを持っていました。

 

四半世紀に及ぶ彼の物理宇宙の通過は昨日終わってしまいましたが、

最後の瞬間が苦しみでなかったことを祈ります。

同じ時間を友人として過ごせたことを感謝し、

残された生命時間を生きていきます。

 

 

以下はmythosと芸術の力を借りた備忘録です。

曲が映画やアニメ・ドラマの物語全体にアンカリングされているものが多いことに気付きます。

 

 

 

 

夢ならばどれほどよかったでしょう
未だにあなたのことを夢にみる
忘れた物を取りに帰るように
古びた思い出の埃を払う

 

(略)

 

あの日の悲しみさえ あの日の苦しみさえ
そのすべてを愛してた あなたとともに
胸に残り離れない 苦いレモンの匂い
雨が降り止むまでは帰れない
今でもあなたはわたしの光

 

米津玄師 『Lemon』

アンナチュラル、とても面白いドラマでした(石原さとみ主演)

 

 

 

 

流れる季節の真ん中で
ふと日の長さを感じます
せわしく過ぎる日々の中に
私とあなたで夢を描く

 

(略)


新たな世界の入口に立ち
気づいたことは 1人じゃないってこと

 

瞳を閉じれば あなたが
まぶたのうらに いることで
どれほど強くなれたでしょう
あなたにとって私も そうでありたい

 

レミオロメン 『3月9日』

沢尻エリカ主演ドラマ『1リットルの涙』での挿入歌です。

 

 

 

 

これ以上何を失えば 心は許されるの
どれ程の痛みならば もういちど君に会える
One more time 季節よ うつろはないで
One more time ふざけあった 時間よ

 

いつでも捜しているよ どっかに君の姿を
向かいのホーム 路地裏の窓
こんなとこにいるはずもないのに
願いがもしも叶うなら 今すぐ君のもとへ

 

山崎まさよし One More Time, One More Chance

いま、秒速5センチメートルの実写映画放映中ですね。

 

 

 

 

And you alright? Can you hear me?
誰もいない線路沿いをなぞってく
大袈裟に泣いて
笑ってほしくて
鮮明でいたい思い出を抱きしめている
さよならよりずっと大切な
言葉で伝えたいんだ
ありふれて でも特別で

ほら この目じゃなければ
見えなかったものが
どうして? 溢れてく

だからもう一度生まれ変わろうとも
また私はここを選ぶんだろう
だからあなたとまた巡り逢ったら
もう離さない今を選ぶんだろう

 

約束なんてなくても
孤独に迷う日々でも
その涙だって大丈夫、きっと夜が明けるよ

 

millet 『Anytime Anywhere』

葬送のフリーレンのEDでした。

 

 

 

 

 

 

走りなさい 疾く もっと疾く
哀しみに追いつかれないように
探しなさい 明かりの灯る道を
それはそれは眩いでしょう

挑みなさい 君の美しさや
尊さを傷つけるモノに
眠りなさい 疲れたら眠りなさい
神話を持たないあの星座のように

 

(略)

 

踊りなさい 誰に笑われても
淡雪を払う枝のように
叫びなさい 心から叫びなさい
ここに確かにいたんだと響かせて

 

(略)

 

高らか鳴らせ その心臓は
最後の一打ちまで君の物だ
涙涙 溢れるがいい
降る雫が君の森を育てるだろう


Ado エルフ

 

 

 

 

I am God's child.
この腐敗した世界に堕とされた
How do I live on such a field?
こんなもののために生まれたんじゃない

 

鬼束ちひろ 月光