ジーヴァーという名の八万四千人の娘がこの火葬場で荼毘に付せられたが、それらのうちのだれを悼むのか | 気功師から見たバレエとヒーリングのコツ~「まといのば」ブログ

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娘を亡くして泣き叫んでいる母親に対して釈尊はこう語りかけます。



『テーリーガーター』の第51偈です。
ジーヴァーという娘を亡くして泣き叫んでいるウッピリーという母親に向けてこう言います。

(引用開始)
母よ。
そなたは「ジーヴァーよ!」といって、林の中で叫ぶ。
ジーヴァーという名の八万四千人の娘が、この火葬場で荼毘(だび)に付せられたが、それらのうちのだれを、そなたは悼むのか?
(引用終了)(『尼僧の告白』p.19)

ここに「抽象度を上げる」ことの肝があるように思います。
単純に視点を上げていくだけにとどまらず、必ず具象的なものとの強いリンクがあるのです。
ふわふわと遊離したカタチの抽象概念をもてあそぶのではなく、カタチも重さも重力もある具象的なものとの強い関係が残るのです。

ここで母親が自分の娘の名を呼んでいることは自明です。

しかし母親の言動だけを虚心に観るならば、84,000人のどのジーヴァーに呼びかけているのかは決定不能です。我々が分かったつもりになれるのは、そのコンテキストを深読みしているからです。

そして釈尊の指摘によって、84,000人の娘がここで荼毘に付され、そしてその娘の死を悔やみ、泣き叫ぶ多くの母親がいて、父親がいて、兄弟姉妹がいて、友人や知人がいたことが容易に想像できます。その悲痛の総体が重くのしかかってきます。

特に自分が苦しんでいる最中だけに、彼らの苦しみを自分のものとすることができます。

そのときに84000通りの哀しみの共同体を俯瞰し、俯瞰しつつも、その一つ一つの痛みを感じることで、自らの抽象度が一気に上るのです。

そのときの抽象世界というのは、ダイレクトに物理世界と結びついています。



理性的であるものこそ現実的であり、
現実的であるものこそ理性的である。

*「まといのば」が推奨する方法は、「具体的なものを扱うときは抽象概念を扱うように、抽象概念を扱うときはあたかも具象的に」です。



これはまさに芥子種(からしだね)の喩えと同じ構造です。
芥子種の喩えとはこんな話でした。
幼い息子を亡くして悲しむ母親がその屍(しかばね)を抱いて釈尊のもとへやってきます。
死者を蘇らせて欲しいという願いに対して、どこの家庭にも必ずある芥子だねを借りてくるように言います(もしくは「芥子の実:けしのみ」ですね)
「それならば!」と喜ぶ母親に対して、釈尊は静かに「いままで死者を出したことのない家からもらってこなければならない」と条件をつけます。

結果はご承知のとおりです。
どの家に借りに言っても、死者を見送っていない家など無いことに気付くのです。
表からはなかなかうかがい知ることの難しい哀しみがどの家にも必ずあるのです。

自分だけが悲劇の底にいると思っていたのに、その底には多くの仲間がそれぞれに悲しんでいることに気付かされ、「死んだ娘を蘇らせて欲しい」という無茶な望みを自ら捨てます。



抽象度を上げるとは、気をつけないとふわふわとした妄想の世界へ移動することになります。
ヘーゲルの言う「どんな好き勝手なことでも想像できる柔軟で軟弱な境域」に移動することになります。


釈尊の問いかけによって、ウッピリーが体験したように、痛みを感じながら、視点だけを上げることこそが本来の抽象空間の移動であり、抽象度を上げることにつながります。




【書籍紹介】
中村元先生の翻訳です!
尼僧の告白―テーリーガーター (岩波文庫 青 327-2)/岩波書店

¥価格不明
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中村元先生のエピソードですが、原稿を紛失されても怒らずに再び書き始めたという話を繰り返し紹介していましたが、、、、翌日から書き始めたのではなく、1ヶ月はさすがに呆然とされたそうです。





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