Hardnutのブログ -85ページ目

遊びをせんとや生まれけむ

『沈まぬ太陽』の原作が出版されたときからだけれど、あの中の「地の果てアフリカ」という言い方が何度となく使われているのが気になっていた。


30年以上前のことだが、かつてアフリカに駐在していた大使館員・商社マンなどの間では「ラゴス地獄、ナイロビ天国、ヨハネス極楽」と言われていた時期があった。南アでの日本人は名誉白人と呼ばれ被差別人種とは別の扱いとなっていた頃のお話。

そんなことが言われていた一方で、彼らの顔は常に日本の本省なり本社を向いていて、はやりアフリカからは一日も早く立ち去りたいと思っているようだった。やはり彼らにとってアフリカは地の果てだったのだろう。


どちらがいいかというのはあまり意味のない問いかけかもしれないが、日本の生活とケニア、特にナイロビあたりの生活を比較すると、ケニアの暮らしやすさ居心地のよさが頭に浮かび文字通り甲乙付け難いところがある。

しかし、かつてケニアで生活していたときに、日本にいる人がとても羨ましいと思ったことある。

正確に言うと、東京圏に住んでいる人と云うことになるかも知れないが、それは遊べる機会と、遊びの質と量が圧倒的に東京は恵まれている。


今朝、ちょっと遅くに起きてそのまま上野へ行き、国立博物館で開催されている「皇室の名宝」展を見てきた。

伊藤若冲の30巾の掛軸、応挙、大観などなど見ごたえがあった。

帰りには上野の森美術館で「チベット-ポタラ宮と天空の至宝」展というのも覗いてきたが、こういうことはケニアでは体験できない。


明日は午後から福井の友人を訪ね晩には酒宴、明後日はゴルフの予定。遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ。


映画『沈まぬ太陽』

『沈まぬ太陽』を観てきた。

山崎豊子の原作は出版されてすぐに読んだのでもう10年以上前のことで記憶が定かでない部分もあるが、映画を観ていて「こんな場面あったかなぁ?」と思ったところはいくつかあった。それでも主人公のモデルになった故小倉寛太郎氏のことが懐かしく思い出される。


昭和が終わろうとしていた正月に、キリマンジャロの麓のロッヂにご家族と来ていた小倉さんに会った。

ナイロビとモンバサのちょうど中間地点にMutito Andeiという町があり、そこからキリマンジャロへ向かって30kmほど行くとKiranguni Lodgeという宿泊施設がある。ここはキリマンジャロの眺望も素晴らしいけれど、このロッジからほど近いところにキリマンジャロからの地下水が爆発的に噴き出すMzima Springという大湧水があり、その下流の水中展望施設からカバが間近に見られるので有名なところだ。

ナイロビで何度か会っていたので挨拶を交わす程度だったが、もちろんその時点では小倉さんがなぜナイロビにおられたのかも御巣鷹山との関わり合いも知らなかった。

『沈まぬ太陽』の単行本が出版された直後の1999年に、旅行で単身ナイロビを訪れていた小倉さんとナイロビの某氏宅で夕食をご一緒し、その時、この小説を絶賛する文芸春秋だったかの書評の話になったとき、小倉さんがふいに涙をうかべられたのが忘れられない。


1988年の頃、小倉さんの二度目のナイロビ勤務のときにはもっぱら動物写真を撮っておられ、当時ナイロビ市内の日本食レストランでその写真を展示したりして得意満面でまわりの人に説明していた氏を「大して忙しそうには見えないし、気楽でいいなぁ」と思って見ていたけれど、人の内なる苦悩は端からは分からない。





太宰治『満願』

太宰治の短編作品に『満願』というのがある。

病弱な亭主が長いこと胸を悪くしていて、その奥さんは医者から夫婦生活を控えるよう言われていたが、病状回復とのことで禁が解けた。それを告げられた奥さんは病院を出ると小躍りし日傘をくるくる回しながら帰って行くというそれだけだけど、なんともほのぼのとしたいいお話。


ここ一週間、飲酒を控えていた。

酒を飲んでも飲まなくてもかまわない人には理解不能だけれど、ほぼ毎日飲んでいるいる人が一週間酒を止めるというのは、これは大きな出来事だ。

まして禁酒を始めたとたんに、ある人からニッカのシングル・モルトの詰め合わせを頂いたりしたものだから、そんな訳はないのだけれどなんとなく意地悪をされているように感じてしまった。

当初の予定通り一週間控えたので満願成就。

ハナ金。さっ、飲みに行こう。