Hardnutのブログ -116ページ目

『キリマンジャロの涙』

前回がケニア山のかたい話だったので今回はキリマンジャロのソフトな話。


アフリカの部族同士の距離は、日本人が感じる外国人との距離と同じくらいの開きがあるようで、他部族の人と結婚するということは国際結婚の感覚らしい。それだけに障壁となるものも多い。

昔むし、キリマンジャロの麓に暮らすある部族の青年と別の部族の少女が恋に落ち、結婚を考えたが結局成就しなかった。嘆き悲しみ苦しんだ少女は山麓の池で入水自殺をしたが、その遺体が等身大のサファイアになり「キリマンジャロの涙」と呼ばれ、それがいまでもキリマンジャロ山麓のどこかに眠ると云う伝説がある。


それを聞いた秋田大学鉱山学部(現在は工学資源学部)出身の日本人青年K君がこのサファイアを求めてアフリカへ向かう。

このK君をモデルにした小説が1975年に出版されたのが『キリマンジャロの涙』で、楽しい物語なので一気に読めた。

約40年前の話で、K君は岩石採掘用ハンマーをリュックに入れてナイロビからタンザニア国境へカントリー・バスで向かう。辿るナマンガ街道はまだ未舗装で、途中で生きた鶏を抱えたマサイのおばさんが乗り込んで来たりする。


ちなみに、いまでもテレビでアフリカの番組が放映されると、ナイロビ近郊を走るマタツ(乗り合ミニバス)に生きた鶏を抱えて乗り込んで来るという映像があったりするが、あれは間違いなく演出だ。今どき都会でそんなことをしたら他の客から苦情が出て運転手も許可しないので、そんな光景に出くわすことはまずない。


それで、Kさんはキリマンジャロ山麓を彷徨するが、そのロマンは未完のままのようだ。

その後、Kさんは宝石・貴石の商売をしていたが、その後ナイロビ、ウィルソン飛行場の近くで孤児院を主宰しておられたようだ。あまりメディアへの露出がないので知られていないが、こちらのロマンは完遂しつつあるのだろうか。


『Facing Mt. Kenya』

ケニア初代大統領Jomo Kenyattaの著書に『Facing Mt. Kenya』というものがある。

自分の属するキクユ族(Gikuyu)の伝統・文化を語り、アフリカ人の民度の高さを主張すると同時にキクユを未開で怠惰で原始的と決め付ける英国植民地政権とそれらの人々をを批判した。さらに、キクユとケニアにとどまらずアフリカの将来がどうあるべきかを述べている。

『Facing Mt.Kenya』 - ケニア山に向かいて-という題なので当然そう云う場所で書いたものと思っていたら1935年に留学中のロンドンで聞いたのだと知った。「ふくさとは遠きにありて想うもの」か。


Kenyattaは第二次世界大戦後の1946年にケニアに帰国し独立闘争を開始、その後逮捕・幽閉となるが早い時期に独立後のアフリカ人の政治体制を考えていたようで、多部族国家をひとつにまとめる方法として一党制を主張していた。

Kenyatta自身の言葉かは不明だが、「アフリカ人にはアフリカ人の民主主義がある」ということ言い方を後で聞いた。

一党制の民主主義は中選挙区制と小選挙区制の折衷で、党員であれば党員登録してある選挙区から立候補でき、党はその選挙区内の公認候補数の制限をしないというものだ。これだと、ある部族の多く住む選挙区からはひとりだけ、多分その地方の多数派部族の候補が当選する。これが最終的に国会はケニア全国から部族構成に同じような国会議員の部族比率構成になる。

実際に独立(1963)から1987年の総選挙までは一党制下で行われていたが、1992年より時代の趨勢として多数政党制が導入された。しかし実際には野党統一ができずKenyattaを引き継いだ二代目Moi政権は2002年まで続き、2002年でやっとキバキがモイに圧勝して政権交代となった。この後2002年から2007年までは露骨なキクユ最優先政権となり次の2期目を目指す2007年暮れの総選挙ははっきりとキクユ政権vsその他全部という構図になってしまった。


結果は2007年末から2008年始めにかけての部族紛争で、Kenyattaの心配していた通りなったしまった。

アフリカ人の民度は決して低くないが、ときに欧米その他の人たちの尺度では計れない。

いざ、南アフリカへ

岡田ジャパンがW杯南ア本選出場を決めていよいよ来年の本番に期待がかかる。感慨深いものがある。


反アパルトヘイトの闘士ネルソン・マンデラが釈放されたのは1990年2月11日だった。

はっきりと日付を記憶しているのは、その政治的意義の高さを認識していたからとか云う高邁な理由ではなく、そのとき盲腸手術の後でナイロビ病院に入院していて、日本の建国記念日の日にそのビックニュースがケニアまで大きな波のように押し寄せ、さらに乾季の真っ只中の暑い病室まで届いたからだ。


あれは世界の大きな流れと呼応していたのだろう。

80年代中盤からソ連のペレストロイカ、ベトナムのドイモイ、そして東欧の民主化の動きに合わせて天安門事件が1989年6月で続いて11月にベルリンの壁の崩壊。そして年が明けてマンデラの釈放となった。


南アは超スーパースターの復帰で国がまとまり、釈放後はデクラークと協力して1994年4月に初の全人種参加選挙が実施され、その後マンデラが黒人初の大統領に就任と当然の動きとなる。


マンデラの釈放で他のアフリカの国々でも民主化運動に弾みがついて複数政党制と自由市場経済体制へと動いて行く。

ケニアでも1991年7月7日がSaba(7) Saba(7)民主化要求市民集会だった。

ケニアの初代大統領Jomo Kenyattaは、多数政党制はアフリカには馴染まないとかなり早い時期から一党制を主張し独立とともにそれを実施していたけど、ついに1992年暮れの総選挙から多数政党制が導入された。


マンデラ釈放から20年の後に、南アフリカ共和国でアフリカで最初のワールド・カップである。

みんなW杯の成功を最優先に考えるから、とりあえずは黒人3代目の大統領Jacob Zumaを支えて来年のW杯開催となるだろうが、大変だろうなぁ。