頼朝再起の浜を歩く! | ちゃちょのブログ

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こんにちは~。ちゃちょの東京歩きブログへようこそ!いつもありがとう!

今回の夏休み版は、内房総・勝山の源頼朝が漂着した再起の浜や、海の幸を巡ります。

一介の流人が、わずか10年で武士政権の頂点に立つ、人生・起死回生の地です。

 

またここは、日本武尊の妻が海の荒れに身を投げ夫を救った海峡です。俳人小林一茶も

勝山のクジラ漁元締で、名句を残しました。房総海水浴発祥の地で、夏目漱石や西条八十も、

保田海岸で遊び、随筆や童謡かなりやで、作家・作詞家で世に出るきっかけをつかみました。

 

出かけた6月30日(日)の練馬は、梅雨前線が再来しつつある最低22.9℃、最高29.0℃。

 

千葉県鋸南町・勝浦では、最低21.6℃、最高27.4℃ですが、日の光は白く強く反射しました。

 

千葉県安房(あわ)郡鋸南町(きょなんまち)は、JR内房線の安房勝山駅と保田(ほた)駅が

海沿いにあります。45.17㎢、6312人。人口減少率は、千葉県54市町村の中で最も激しいです。

 

観光都市で南房総国定公園。日本三大水仙群生地(他は越前、淡路)。町名は北部327mの

鋸(のこぎり)山から。町名は観光協会サイトにリンク。

 

太赤字は、タッチすれば、リンクしたオリジナルのサイトに飛びます。

 

東京都区部(東京都心)から60~70㎞圏内です。神奈川県川崎市と千葉県木更津市を結ぶ

東京湾アクアライン15.1㎞(川崎側は海底トンネル、千葉側は橋)があり、所要30分。

 

房総の買い物客は、安価な高速バスで都内や横浜へ流出しましたが、2009年森田健作

知事が、普通車通行料を3000円から800円へ下げたところ、君津側が回復しました。

 

ただ、JR内房線は、蘇我~館山間の利用者が減り、2015年特急廃止・本数大幅削減で

今は、JR安房勝山駅も保田駅も、単線2両編成の各駅が1時間に1本停まるだけです。

鋸南町イメージキャラクターは、みかえりちゃん。地元生まれの浮世絵師の祖、菱川師宣

(ひしかわもろのぶ1618-1694)の代表作・見返り美人図から.。もう1つは、よりともくん。

 

今回のコースは、展望良好の安房勝山の大黒山から、頼朝上陸地や、道の駅きょなん

を通り、保田駅へ。最短6km、2時間表示です。

 

実際には、22,577歩、3時間30分歩き、14.45kmでした。滞在4時間。

自宅の石神井公園に戻ると小雨でしたが、現地は降らずに済みました。

都心を歩くときと違い、昔の旅人と同じ1時間4km歩きます。

 

地元・練馬区の西武池袋線・石神井公園駅快速池袋行き発7:20、池袋着7:32。乗換わずか4分、

乗車の中を移動して、先頭ドアで走り、東京メトロ丸の内線池袋発7:36、東京着7:52。

 

JR東京駅8:04発快速君津行きは「地下4階」?すぐ脇のエスカレーターで降りるのでした。

地下4階ホームは成田エクスプレスも入線。8:04発快速君津行き。11両編成。

 

木更津着9:21。ホームで9分待ち、内房線各停ワンマン2両編成に乗り換えです。

総武本線は蘇我まで。9つも内房線へ乗り入れています。ここまでが通勤圏。

 

2両と知って、あわてて大勢の人がホームの中心へ移動。9:31上総一ノ宮行き。

上総一ノ宮は、内房線から外房線まで乗り入れた35つ目の駅です。安房勝山は

木更津から9つ目。上で紹介した、川崎から15km30分の東京アクアライン接続地。

 

千葉県は、6月7日の成田山のように、街中をはずれると、田んぼです。ちゃちょが

小さい頃、坂の下の石神井川両脇は田んぼでした。カエルをいっぱい取って懐かしいです。

 

2両編成でも、真ん中の向かい合わせ席は寝そべっています。2両編成用の新規開発車両。

 

おっ、これも2023年8月25日の羽村(青梅線)みたいに、ドアがボタン開閉式ですね。

閉めるときは運転手が一斉に閉めます。開けるときもそうすればいいのに。

電車外側にも、乗る人が自分でドアをあける黄色いボタンがありました。

 

安房勝山駅10:18着。1969年に貨物が廃止されて、2014年に貨物線撤去、2017年緑の窓口廃止、2020年棒線化(島ホームですれ違わず、本当に片線だけ)、2021年2両編成へ。ホーム片方は柵。枕木は残ったままでした。ああ、かつて特急が走り、停まった駅!

 

内房線ローカル化で、館山駅以北では、最初に棒線化した安房勝山駅です。

1日乗降客数2022年で574人。人口減少率が、千葉県54市町村中、最も激しい町です。

 

安房勝山駅は、地面へ下りる階段脇の柵に駅名の旗が!写ってないけど、左側は、

スロープ状にU字型にバリアフリーに。地面へ下りる5段。無人駅。

 

通路手前にキップ入れの段ボール箱。通路脇に、簡易Suica改札機の「出場」「入場」のみ。

駅券売機スペース完全撤去。2時間59分乗って2409円で自動チャージされました。

 

乗車駅証明発券機が、隣の赤?これなら、全国、JRの最低乗車区間券を買って、出られます。

近所なら最初から買わなくても。SuicaやPASMOは、乗降記録必要。券売機なしSuica持参設計。

 

トイレも簡易式です。

2024年7月17日から、駅併設の安房勝山駅前郵便局が、駅窓口兼務で開業予定でした。但し、9:00-16:00、平日のみ。今、工事現場のような通路も、ここを通るのかな。

 

駅前広場には、観光案内処だけ。頼りにしていたのに「日曜休みます」。水休のはず。監視がないと、自分の都合で休むようです。

 

頼朝桜まつり」が、2月中旬から3月上旬まで佐久間ダム親水公園で。駅から町営循環バスで

30分(東へ7.7km)。1万数千本の早咲き・河津桜(伊豆・河津で発見。沖縄の寒緋桜似の赤花)。

町は「日本一の桜の名所にしよう」と保田川沿いに、一生懸命、植えています。

 

前半の安房勝山駅付近の歴史散歩マップです。リンク先は町作成の鮮明なpdf.ファイルです。

このプリントアウトを持参しましたので、それを頼りに歩きます。

 

安房勝山駅から、まず南へ佐久間川を越えます。川沿いに大黒山やふもとに神社仏閣が

ありますが、先に南の商店街を歩きます。漁協直営の「なぶら」を覗き、再び佐久間川を

渡って海沿いに北へ(国道127号線沿い)行くと、頼朝上陸地です。

まず、東の佐久間ダム親水公園側から流れてくる佐久間川を、南へ渡ります。

 

ほとんど何もない駅前です。菓子のコンピラ。日用品も書いてあります。軒先のビニールが破けて読めます。海が近いと、暴風とか塩害があります。本来はたばこ屋。

 

町唯一のスーパー、明石丸?近寄ってみると、コミュニティーサロン明石館カフェ。

11:00-16:00。2019年9月30日の台風被害でスーパー業務は終了。勝山140。

 

下佐久間739に、まともなお店発見。ランチだけ11:00-14:30、夕凪

 

3種の中落ち丼1200円。金目鯛・サワラ・太刀魚。金目鯛代わりにメジ鮪の日も。海老味噌汁。

 

これから回る大黒山や海に見える浮島やみさご島、そして頼朝上陸地まで写しています。

説明が少ないですが、空撮で全部見えるので、先にイメージ作りにどうぞ。

町作成PR動画は、水仙や桜や旅館や温泉ばかりで、実感と違うので割愛。

 

さあ、佐久間川側から、安房勝山駅前にそびえていた、大黒山を登ります。標高75mですが、展望良好。名主が鯨漁で、頂上から手旗信号で指示した場所。江戸時代まで、鯨漁で栄えていました。

 

これから登ります。まだ安房勝山駅から500m。

 

土嚢を積み上げ、コンクリート製の既製品の杭打ち。よく崩れたんですね。

 

中腹に、名主で房総捕鯨の祖、醍醐新兵衛の墓があります。墓石は新しいですが、

祠は岩屋形式です。江戸時代、初代新兵衛(1630~1704)は、漁師たちをまとめ、57隻に及ぶ

世襲制の3組に分け、夏場、勝浦沖に回遊してくる鯨を仕留めました。

墓の脇に、1805年、鯨漁見学に来た、有名な狂歌師・蜀山人が歌った碑があります。

 

「いさなとる 安房の濱辺は、魚篇に京といふ字の都なるならん」

いさな=クジラ・勇魚、魚篇に京=鯨、京=兆の上の単位で大きい意、都なるならん=

都のようににぎわった。勝山の醍醐家の繁栄ぶりを詠んだものです。

 

慶長年間(1596-1615)、勝山に漂着した紀州の捕鯨船が技術を教え、以後200年、勝山は

捕鯨基地で繁盛しました。名主だった醍醐新兵衛が57隻・500人で里見水軍の子孫を、

世襲で鯨組を組んで当たりました。上図は、歌川国芳(1798-1861)の捕鯨の図。

 

途中から、昔の登り道をそのまま登山道にした階段続きです。

 

やっとコンクリート製の展望台に着きました。大黒山は、豊穣の神さま、大黒天が

いました。安房勝山のシンボルは、大黒山展望台ということで、1988~1989年竹下登内閣が、

各市区町村に地域振興のために1億円を交付した、ふるさと創生金が使われました。

展望台の頂上の瓦屋根は、巨大なクレーンで釣り上げて、造りました。

 

展望台からは、南は、勝山港や勝山城址が見えます。

 

東部の内陸部です。約8km先に、頼朝桜まつりを行う佐久間ダム親水公園が見えます。

 

実によく内房の海が見えます。鯨の泳ぐ方向を指示するのに最適だったことでしょう。

海に浮かぶ台形の島が浮島で、左に小さい三角形が、みさご島です。日本武尊の妃が、

身を投げてまで荒海を沈めた際の亡骸が漂着した神話があります。共に無人島。

 

一旦、大黒山を降り、勝山海岸入口バス停から西へ大黒山ふもとの神社仏閣を訪ねます。

 

まずは、1722年、2代醍醐新兵衛によって再建された、勝山319の可知山神社です。

ご祭神は、素戔鳴尊(すさのおのみこと)です。1706年の元禄大地震で天王塚が流され、

近隣の浮島神社、八幡神社のご神体(景行天皇、日本武尊等)が合祀されています。

 

鯨塚があります。漁が終わると、解体担当の出刃組3組12人が1年1基で、鯨への感謝と

供養のため、小さな石のほこらを建てました。鯨から油をしぼり、肉は干して食べました。今は風化して52基ですが、日本最大規模の鯨塚です。明治以降、鯨は浜に来ません。

可知山神社本堂です。注連縄が新しく結ばれ、中には折畳みイスが見え、靴が脱いであります。

大きな声で和尚さんの念仏や銅鑼をたたく音が響き、日曜午前は、地元の講話時間です。

 

道を隔てた、勝山315-1に、浄土真宗・華王山浄蓮寺があります。開山は1616年。

ご本尊は阿弥陀如来です。1703年の元禄地震で一度流失しています。

 

本堂です。小林一茶(1763-1827)は、寛政~文化(1790-1817)4代醍醐新兵衛を訪れています。

 

「わざわざに 蝶も来て舞う 夏花(げばな)かな」わが墓に夏の草花を供えていると蝶が来て

その夏花に止まった。夏花がご先祖さまの霊を呼び寄せたのだろうか。ありがたいことだ。

一茶は、房州の名主クラスを中心に集まった葛飾派の俳人です。

 

さらに西へ進むと、大黒山の海側に出ます。左手手前と、大黒山中腹に寺が見えます。

右端で座りんでおしゃべりしているおばあさん二人に、大黒山展望台は町のシンボルとして、ふるさと創生金で建てたのを教わりました。どこで買物してるか、聞くべきでした。

 

左手、勝山409に、臨済宗建長寺派の法典寺があります。1406年前後に足利尊氏が開山。

ご本尊は、釈迦牟尼仏です。2021年建て替え。階段上の長谷寺の本堂です。

 

大神山中腹の長谷寺観音堂を目指し、階段を登ります。さっきのおばあさんたちは、

緩やかな女坂を教えてくれたのですが、言語不明瞭だったので、目の前を登ります。

 

勝山409に、臨済宗 建長寺派の海光山・長谷寺観音堂があります。4代足利義持が開創。

丸に横2本の線は、足利家の家紋です。ここも1703年元禄大地震のよる津波で全て流失。

1871年,台風でも崩壊。醍醐新兵衛は観音様に津波のお告げを聞き、助かりました。

 

1703年の元禄大地震の津波による水難者の慰霊碑です。

 

1881円、2013年と法福寺の改修に合わせて、十一面観音像も修復されました。

鎌倉長谷寺で745年、開眼した霊像で足利尊氏が深く帰依し、1347年、当山に奉還しました。

 

勝山234に、勝山漁港直営の、なぶらがあります。11:00-15:00,火水休。9:28-1120まで既に

22名受付済み、実際は1145開始。券売機の事前購入は8種のみ。狭い50席です。駐車場なし。

展望なし。席空きまで下で待つ、コロナ対応です。

 

赤鯛の煮つけ単品2100円2名のみ、写らなかった右側黒板も4~5種類のその日の

単品が2~4名先着限定。正午売り切れ。早めに行ってみないと本日のお勧めは不明です。

券売機の8種とは、刺定、フライ定、天ざる、メンチ定、あんみつなどです。

 

イチ押しは、海鮮なぶら丼8種1500円。鰺、マグロ、太刀魚、イカ、鯛、なめろう、桜でんぶなどです。量は多くご飯は少ない。本日の単品はツーカーでおばあさんへ伝えます。地元お得意向き。

 

さて、海岸沿いを大黒山ふもとを歩きますが、青いハマヒルガオはジャングル状態。

 

道と海の間の家は、シャッター内が丸見え。千葉県54市町村で、人口減少率が最高でした。

 

大黒山の海側の急斜面絶壁は、「大黒山急傾斜地崩壊危険地域」の看板。近頃の集中豪雨や台風を思うと、道沿いの多数の民家が心配です。

 

ハマヒルガオに次いで多かったのが、ピンク色の額アジサイでした。

塩分が多く、鉄や亜鉛などミネラルが吸収されにくいアルカリ性土壌なんですね。

 

次に多かったのが、だいだい色のコオニユリです。球根は、甘く食べられます。

ネット検索したら1株1000円でしたので、庭に、少し採ってくるべきでした。

 

勝山海水浴場は、梅雨前線が近く荒れていて、磯釣り数名のみ。波が穏やかだとエメラルド色に澄んで、サーフボードで泳ぎに行けます。先に見える三角小島が、みさご島です。日本武尊の妃の亡骸が漂着した島です。

 

東征を、父の12代景行天皇から命じられた日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は、神奈川県

横須賀岸から、内房総へ向かって海を渡ります。急な荒海を鎮めるために、妃の弟橘姫(

オトタチバナヒメ)が、海に自らの身を投げます。弟橘姫の遺骨や遺品はさまざまな

ところから上がっています。実在する天皇は16代仁徳天皇(紀元前257~399)から後です。

 

遺品の袖が流れ着いた横須賀の走水(ハシリミズ)神社に、二人が一緒に祀られているのは、

2023年8月11日のブログに紹介しました。辞世の句は、夫を思う愛の詩でしたね。

 

勝山沖には、もう1つ台地状の手つかずの原生林が残る無人島、浮島もあります。

浮島の回りの海はきれいで、今も関東では珍しい江戸前銀鮭が養殖されています。

 

東征で病に倒れたわが子・日本武尊を思い、景行天皇は浮島まで来て滞在し、

採れたカツオ料理をほめ、日本料理発祥の地になります。景行天皇と日本武尊は

浮島神社に祀られていましたが、今は、勝山319の可知山神社に合祀されています。

 

2024年7月13(土)14(日)と、南房総の夏祭りでは先陣を切って、勝山祭礼を挙行。14日には、年に1度上陸できる原生林の浮島神社へ入れます。「世界の中心で愛を叫ぶ」では、「夢島」として登場。

 

ここらへんは、サーファーの店やボードの貸し倉庫があります。

 

そして、ここが、1180年、一介の流人だった源頼朝が、平氏打倒の兵を挙げた直後、

一度だけ敗れた石橋山合戦で、岩窟に身を潜め、地元の手引きで真鶴岬から渡海し、

上陸した安房竜島の浜です。8月29日、わずかな供でした。

 

ここで再起を誓い、東国武士を巧みに結合させ、十年足らずで対抗する勢力を全て倒し、

武士政権の頂点へ立つ、流人の奇跡を生みました。再起の浜です。

 

上陸したとされる場所は千葉県指定史跡に指定され、「源頼朝上陸地の碑」が

建っています。竜島165-1。安房勝山駅から歩10分です。

 

頼朝は誤ってサザエを踏んでけがをし「竜島のサザエにつのなどなくなってしまえ」

というと、竜島のサザエの角はなくなったそうです。

 

もてなした村民に感謝した頼朝が「天下を取ったら安房一国を与えよう」というと、

村民たちは粟一石より姓を求めました。欲のなさに「そうか、馬鹿だなあ」というと、

村民たちは「左右加」「馬賀」と名乗るようになったそうです。

 

1180年、平氏打倒の兵を挙げた直後の頼朝軍に、味方の三浦軍が追い付かず、石橋山の戦いで、8月23日夜に仕掛けた大庭軍に、24日、頼朝は敗走します。矢を射られ、岩窟に身を潜ませ大庭軍の探索を辛くも逃れました。

 

頼朝は、人生で再三、死の淵を覗いています。石橋山を③とすると、

①1159年、平治の乱で父敗死、兄処刑の中、平清盛の乳母の嘆願で13歳に免じて伊豆へ流刑。

②配流先の伊豆で、監視していた伊東氏に殺されかけたが、伊藤氏の次男に救われる。

 

その分、仲間だった人にも、疑い深くなったようです。政権は頼朝20年の後3代で、短命でした。

 

石橋山の戦いで洞窟に潜み、徐元の土肥実平の案内で、五真鶴岬、岩の浜から脱出しました。

 

伊豆半島の付け根の真鶴から、相模湾を房総半島安房竜島へ東に60kmです。8月29日でした。

 

1319年作者不明。山梨県甲府市善光寺にある源頼朝坐像が、本人の面影を伝えている可能性

がある唯一の像です。東国武士同士の衝突を巧みに回避し、降伏者には寛容な態度を明示、

平家打倒で結合させ、軍団は急速に膨れ上がりました。

 

逃れた房総で、同じく平氏の圧迫で苦しかった上総介広常が、平家家人を各個撃破し、

広常が糾合した軍勢は2万騎とされ、頼朝勝利の最大の功労者です。

 

房総半島の勝利で頼朝軍優位は決定的になり、富士川合戦も平氏追討軍は潰走し、

東国の平氏家人は全滅しました。河内源氏所縁の地の鎌倉へ入府できたのです。

 

竜島の浜の東200m、竜島165-18に、ダイアパレス内房勝山があります。1992年築14階885戸。

売りに出ていた12階94㎡、2LDK5000万円です。ガラス張りの1階は潮風でベタベタ。法福寺前にいたおばあさんたちは、「あんなマンションが」でした。コンビニ2軒ずつも安房勝山駅か保田駅に行く必要があり、夜中はまっくらになるでしょう。

 

第六港の漁船も、梅雨前線到来に備えて、浜へ船を上げています。

 

昭和30年代、アコヤガイを養殖して真珠を採っていた真珠等です。今は、渡れません。

波が荒れてなければ、浅瀬はエメラルド色にきれいで、サーファーたちが絶えません。

 

ひたすら海岸沿いの国道127号線を北上します。

 

ここから先は、鋸南町のもう1つのJR駅の保田に近い地区を見て回ります。

赤字には、この地図が鮮明にアップする、歴史散歩マップpdf.がリンクされています。

 

道の駅きょなんの入口です。見返り美人の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)記念館もあります。

 

ここや、保田駅から北東へ5km先にある旧保田小学校を利用した、道の駅保田小学校

(ホテル、食堂、温泉等)や上陸地で、毎年10月中旬に、頼朝まつりが行われます。

吉浜517-1に、道の駅きょなんがあります。9:00-17:00、月休。パンフレットがあり、係のおばさんがおしゃべり。何か、旬の地元野菜とか魚が運び込まれている訳ではありません。

 

道の駅の脇の物産センターは3軒だけで、シャッター、ラーメン、地ビール。

鋸南麦酒は、350ml680円。ラベルが5色あって、白は甘夏と山椒、黄はコシヒカリ、

赤は苦みレモン風味、橙は苦み生姜の香り、黒は鋸南の珈琲入りです。ここが本社。

 

見返り美人のブロンズ像です。後ろに回って撮りました。

 

道の駅きょなん並び、吉浜516に、菱川師宣記念館があります。9:00-16:30、月休。

道の駅割引券で、100円安い400円。浮世絵が100枚くらい並んだ部屋が2つあるだけでした。

 

菱川師宣(1630-1694)。見返り美人図の本物は、上野の東京国立博物館。1693年作。

日本美術の代表作で、ふっと振り返った瞬間的な動き、髪は当時流行の玉結び、

生地には紋と父伝授の刺繡縫込み。帯も流行の吉弥結び、裾を引きずるお金持ちです。

 

江戸初期、芸術は支配階級のものでした。師宣は、地本の挿絵で人気を得て、独立絵画の

レベルに高め、浮世絵の祖と言われました。一人の女性のみを描く流れを作った先駆者です。

 

師宣の美女こそ江戸女、と称され、庶民は手頃な版画で美しい芸者を見ることが

できました。現代のアイドルのブロマイド写真です。面長で切れ長な目、鼻筋が

通り、小さな口ときめ細かい白い肌が強調されて描かれています。

 

外に出ると浜辺に、小ぶりなリュウキュウ月見草がたくさん、咲いています。

 

保田漁港から500m先、吉浜99-5に、保田漁港直営ばんやがあります。9:30-18:00、不定休。

勝山~保田と歩いて、ここだけ人があふれていました。駐車場も満杯。

 

本館は、左右に3~40名ずつ。順番待ちも20名以上で料理が出る時間もかかるようです。

テーブルメニューと、勝山なぶら同様、白板にその日のお勧めメニュー。いくつも頼むことになります。食べログの15品目と値段が違いました。その日の「時価」なのかも。

 

ばんやにぎり1400円。食べログでは、朝どれ寿司9種850円、ばんや寿司は有頭エビ、煮貝がついて1600円。ネタが違うようです。

 

左、刺身3点盛800円、右、さんが焼850円。食べログでは630円。サンガ焼とは、房総発祥のナメロウにねぎを加えて焼き上げたものです。ナメロウとは、アジ、サンマ、イワシ、トビウオなど青魚の三枚おろしを、味噌・酒・ネギなど混ぜ、粘り気が出るまで細かく叩いたものです。

 

イチ押しの漁師のまかない丼は、1430円。白板には、10種の大量御前が人気No.1で、2980円。食べログでは、地魚海鮮丼が1150円。地元の人は、この区別を知っているのかな。

目の前に直営干物店があります。

 

まぐろのカマは、500円。店でマグロのカマ焼きは1760円。干物セット1500円、煮カレイ500円。

 

アジ350円、サバ500円。コノシロ10匹500円、ウルメイワシ1パック300円。

 

外に出て、保田川近くまで600m北上すると、大帷子417に、磯料理山田屋があります。

11:30-15:00、17:00-19:00、水木休。水槽にイセエビ、犬連れOK。イセエビ定食は5170円。

 

イチ押しの浜定食は、サザエのつぼ焼き付きで1980円。サザエを天ぷらに替えても同額。

 

バス停で、「ぐるっときょなん」鋸南町循環バスを見ました。

 

55の停車所。右回り、左回りの赤バス、青バスがあります。

 

ただ、一番下の便数は、1日5便、2~4時間おきです。7時台~19時台。

また、国道127号線沿いは、海抜4,4mにすぎず、津波がもろです。

 

保田182に、千葉県指定史跡、菱川師宣(1630-1694)生誕地があります。ここで、父は縫拍刺繡をしていました。師宣は1673年から江戸に出ました。烙印は「房陽」「房国」で、地元に梵鐘寄進。

 

保田駅西200m、保田127に房州海水浴発祥地の碑があります。日本最初の海水浴場は

医師松本良純が、1885年に神奈川県大磯の浜に開きました。1889年の夏目漱石の

保田海水浴を、房総における最初だったとして、この発祥の碑が建てられました。

当時は、軽い水浴びや、浜辺の甲羅干しでした。

 

1889年、22歳の東大生だった夏目漱石が友人数人と、東京霊雁島から汽船で保田へ行き、

10日滞在し木屑録(ぼくせつろく)という紀行文集を出します。仲良しの同級生、正岡子規は、木屑集に刺激され、保田へ寄ります。「七草集」を出し、各自、作家と俳諧師の道を目指します。2人を精神形成した保田海岸と鋸山です。当時は電車がまだでした。

 

西条八十(1892-1970)も、保田の一人の少女を見て、1918年、「赤い鳥」に「かなりや」を発表、初めて歌もつけ、童謡作家の地位を確立しました。「唄を忘れたカナリヤは]」早稲田大学校歌末尾に「早稲田早稲田早稲田早稲田早稲田」と5回母校名のリフレインを付け校閲しました。

 

今の保田海岸は、直接、浜へは降りられません。流木やボトルが打ち寄せられています。内房なぎさラインは、暗雲が、前方(北)の鋸山を覆います。さあ、雨の前に帰ります。駅まで東へ200m。

 

駅への路地には、エンジェルトランペット(ダチュラ)、モントブレチア、ゲンノショウコも、

見かけました。途中の家の玄関は塩害でさびれていたり、不在も見受けられました。

駅前には、蕎麦屋、洋菓子風パン屋、干物屋がありましたが、看板がくすみ、品数が少ないです。

 

保田駅に着きました。無人駅です。中央に簡易Suica改札機があるだけです。島式ホームが残っていて、架線橋を昇り降りしてホームへ行きます。電車は上りは朝5~7時、15~16時、下りは夜の20~23時の2本を除いて、基本1時間1本です。上りは木更津駅で快速と乗換できます。

 

ドイツ人の中年夫婦がディープな旅をしています。保田発14:06、君津着14:46。快速久里浜行きに乗り変え14:50発、東京地下4階着16:22。東京メトロ丸の内線東京16:29発、池袋着16:45。

西武池袋線池袋発急行16:48、石神井公園着16:58、自宅着17:08。生け垣外落ち葉広い、シャワー、うがい、洗濯。

 

曇りだったのに、1日で腕時計の跡が付きました。顔も真っ黒。ちゃちょはすぐ焼けます。

 

文鳥・新太郎君も、「どこ、行ってたの~?さあ、遊ぼう」と遊ぶ気まんまんです。

くちばしが真っ赤なのは、健康的に血液が流れている証拠です。

 

庭中に、ヤブカンゾウのだいだい色の花が咲いています。

 

室内越冬した日日草とJAで買ってきたもの(150円)、ペンタナ(350円)をプランターに植えました。

 

つたないブログを、ここまで、読んでいただき、ありがとうございます。お疲れさまでした。

ゆっくり休んでくださいね。暑くなってきたから、日陰でこまめに水分補給、無理せず、十分な睡眠をとってね。みなさまに良いことがありますように。

 

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東京散歩や健康のことで、またアップするね。東京で歩いてほしいお勧めコース、教えてね。

12(金)0時は、「馬事公苑を歩く!」アップ予定です。それまで、元気でね。じゃ、またね。