2001年4月から -9ページ目
<< 前のページへ最新 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9

日本の芸術について

今日、僕が日本の曲を全く聴いていない事に気付いた。アメリカにいるからといっても一時期日本で流行っている曲を聴いていた時もあったし、逆にアメリカにいて何でわざわざ日本の音楽を聴かなきゃいけないんだとも思った事もあった。でも今僕は、ごく自然に日本の曲を聴かない。特にアメリカの音楽が素晴らしいとも思わないが、今はジャズばかり聴いている。

正直、僕には一体どういった曲が素晴らしくて、素晴らしくないのか分からない。ただ単純に好き、嫌いで聴いているだけである。けれどもさっき日本のオリコンのランキングを見ていて日本の音楽(流行っていると言われている)って本当に下らない。僕がもし中学生であったら、高校生であったら聴くだろう。日本で大学生だったら普通に聴いててカラオケで歌ってるのかもしれない。音楽を知らない僕でも、日本の音楽と言うのは消費者をバカにしているのではないかと思う。それは音楽だけでもなくてテレビもそうだ。下らない。

「ロックは死んだ」と言う人がいるが、僕にはそれがなぜなのかさっぱり分からない。ただ最近のロックと言われている曲を聴いても、ロックをやってると言う奴を見ても、一体これのどこがロックかと吐き気がする。ただしそれをもってロックが死んだとは思えないが。

「ジャズは死んだ」と言う人もいるが、僕にはそれもなぜなのかさっぱり分からない。俺が聴いてるジャズと言うのは何十年も前のやつだから。

日本映画が面白くない、と言う人もいる。どうなのだろう?

日本文学が面白くない、と言う人がいる。僕もそれは思う。

本当に命を懸けて芸術をやっている人はいるのか?この現実を超えようとしている芸術家はいるのか?というよりも自分も含めて日本人が真の芸術を評価する感性を持ち合わせていないのかもしれない。下にレベルを合わせようとすればいくらでも出来るが、本来目指すべきは上のレベルだろう。

下にぃ、下にぃ、って。

エネルギー問題

最近自分の体力とかエネルギーについて考えている。精神的、肉体的なエネルギーについて。日本では数年前まで首都を移転するとかそういう議論が盛んだったが、首都を移転して新しく創造するというのは相当エネルギーの要ることではないかと思われる。そんな事をワシントンDCにいて考えていた。日本の場合、財政的にも首都を移転するのは不可能に近いし、日本人にそれほどのエネルギーがあるとは思われない。小泉が首相就任当初人気があったのも、彼にエネルギーがあったからだろう。けれどもその力は終始自民党内の抵抗勢力との戦いに費やされ内向きのエネルギーだと言う事が判明した。歴史を見直そうとか、愛国心を高めようとする試みも結局は内向きなエネルギーなのだろう。こんな事してても全然日本は変わらんわ、と思うのは俺だけだろうか。もちろん歴史や愛国心の重要性は認識しているけれども。今は外向きのエネルギーが必要とされているのである。内向きではジリ貧ですわ。これは日本という国のエネルギーについて。

村上龍の対談集「存在の耐えがたきサルサ」を読んでいて、彼はキューバが好きという事を知る。実は僕もキューバという国が大好きと言うかキューバに興味がある。それは高校生のとき、キューバ音楽を聴いておじいちゃんたちが愛の歌を情熱的に歌えるというのに単純に感動したからである。言い換えれば日本人には無いキューバ人のエネルギーの凄さに感動したのだ。その感動が今でも続いていてスペイン語を勉強しているんだけど。日本人にはエネルギーが無い。後退していく社会は美しいかもしれない。けれども豊かであるだけで、無気力で幸せを感じれない社会と言うのは社会として民族として危機的な状況ではないだろうか。日本人はまさにこの国が滅びるという時に一体何を真剣に残そうとするのだろうか?刹那的に徐々に落ちていくその瞬間、瞬間を楽しみながら我々日本人は生きていくのだろうか?これは日本人と言う国民のエネルギーについてである。

先学期勉強していて思ったのだが、僕でもギリギリまでいけるのだ。でもそのギリギリという限界に対し僕は決して納得していない。その限界の状態をどれだけ広げていけるのかそれがこれからの僕の課題である。よって、僕には体力と精神力が必要である。先学期の努力が運良く結果に結びついて結構自信になったが僕にはその限界を飛び越える必要がある。体力を付けて、精神力を磨こう。やるべき事は沢山ある。

運か、それとも実力か?

今日Public Policyのクラスで、社会における平等の実現について勉強した。政策として二つに分けられる。機会における平等を促す政策と結果における平等を実現する政策の二つである。

 

どう税金をとるかも社会的平等を実現するのに重要なのだが、個人の成功がその人の能力のみによるのならお金持ちだからと言って高い税金を払わせるのではなく、個人の成功が運によるものならお金持ちから高い税金を取って不運で貧しい人にお金を再分配する。どちらかと言えばビルゲイツの成功は彼の能力によるのもか、それとも彼の幸運によるものか、という話になって先生が生徒にどう思うか決を採った。結果は彼の成功は運によるものが大きいと答えた生徒の方が多かった。余談で先生はこれはあなたが共和党員か民主党員かを知る方法だと冗談ぽく言っていた。運と答えれば民主党員、実力と答えれば共和党員の傾向があると言う事。

 

ちなみに僕は実力と答えた。いくら運が良くても彼が努力しなかったら今の成功は無いと考えるから。だからといって僕が運命や運を信じないと言うわけではない。運と実力については最近の僕の興味のあるトピックだから今度じっくり書いてみたい。

韓国人の反発

大韓民国との国際問題

 

島根県議会議員が「竹島の日」を制定しようとしている事が国際問題と化した。また、韓国大統領が「三・一独立運動」記念式典演説で日本にさらなる「反省」、さらなる「謝罪」、そしてさらなる「賠償」を求めた。背景には竹島問題、歴史問題によって韓国内で反日感情が高まりがある。これで日韓両国間にさらなる亀裂が入り、これまでの友好関係、未来志向の二国間関係は難しくなるだろう。本当は日本と韓国がけんかしている場合ではなく、北朝鮮問題などもっと重要な国際問題に協力して取り組まなければいけないのではないか。

 

少なくとも日本政界は冷静な対応をしている。韓国大統領のこの発言に過剰に反発してこれ以上日韓関係を悪化させてはいけない。

 

在韓日本大使が竹島は日本領土と言ってそれがどれほどの問題なのか。彼は日本人として、日本政府を代表する立場の人間として当たり前の事を言ったまでではないか。島根県議会の「竹島の日」制定の動きに対しても、韓国人はそれほど過剰に反応する必要は無いではないか。日本には日本の主張があり、韓国には韓国の主張がある。実質的に竹島を支配しているのは大韓民国であって、「竹島の日」が制定されたと言ってそれに直接的な変化があるわけではない。日本には武力で竹島を奪回しようとする意図も無く、平和的に解決しようとしている。問題を解決したいのならぜひとも国際法に照らし合わせ、証拠を提示し、議論しようではないか。

 

また、植民地時代の賠償問題であるが、これは日韓基本条約で解決済みではないか。韓国政府がその条約に調印した以上、もっと賠償金をくれと言うのは話が良すぎないだろうか。韓国人は文句があるなら韓国政府を責めるべきで、日本政府を非難する場合ではないだろう。つめが甘かったのは韓国政府の非であり、それに調印した以上(しかも40年も前に)、いまさら日韓基本条約を反故にして再協議を始めるなんて、国際政治上非常識で恥ずかしい事である。これじゃ北朝鮮の金正日と同じじゃないか。そういえば、韓国を合併するときも韓国政府の承認があってやったこと。過去から学ばず同じ間違いを現に繰り返しているのは我々日本ではなく大韓民国の方ではないか。

 

韓国大統領の発言は日本の常任理事国入りに反対したのも同然だ。日本人全員を自分たちが悪いと洗脳し、日本国総理大臣が土下座でもして謝罪したら良いのだろうか?国のサイズ、レベルからして決して常任理事国にはなれないことを知っている韓国人は日本が常任理事国になることにそれほど嫉妬を感じているらしい。過去の問題を蒸し返し、国内では親日派の子孫までも失脚させて自分の立場を強化してきた現韓国大統領がいつかこのような発言をする事ぐらい、日本政府は予想できなかったのだろうか。

 

韓国人の素晴らしいところは現代の日本人と違って愛国心が非常に強いところである。なのにその自国、自国民に対するプライドが日本に対する嫉妬に変化すると非常に醜いものになる。

 

ぜひとも日本政府・日本国民は冷静に対応し原理原則を貫いて、決して妥協はしてはいけない。

人間ならば誰にでも全てが見える訳ではない。多くの人は自分が見たいと欲する事しか見えていない。

 

これは塩野七生氏の「ローマ人の物語」と言う歴史シリーズのどこかで目にとまった格言だと記憶している。

 

これは真に真実だと思う。自分も多かれ少なかれそういう一面は決して否定は出来ないのだが、常に気を付けている。視野の狭い、偏狭な人間にだけは決してないりたくない。

「絶望」のすぐとなりに「希望」がある。

 

これは日本の一番の親友がかつて手紙に書いてきた言葉である。

 

「絶望」とは結局は思考の結論である。だから考え方、見方をちょっと変えただけで「絶望」は「希望」に変わる。ただし、人が絶望を感じた時、考え方を意図的に変えようとするのは結構難儀な事である。

 

ディズレーリの言葉に「絶望とは愚者の結論である」がある。愚者か賢者か、その違いを決定するのは要は考え方の違いなのかもしれない。単純に頭が良いか悪いかではなく。

 

けど、人間の面白いのは、本当に些細な事で「絶望」が「希望」に変わってしまうと言う事である。意図的に思考を変えようとするなんて無駄な努力なのかもしれない。

 

嗚呼、俺にも小さな幸せのきっかけが沢山あったら良いのになぁ。

才能は孤独のうちに成り、人格は世の荒波に成る

これはゲーテの言葉である。

僕が高校生だった時、叔母さんが家に遊びに来た。その時、僕の部屋を見たいと言い出し、「部屋見せて」といきなり入ってきた。僕は夏だったのでパンツ一枚で机に向かって勉強していた。部屋にはこのゲーテの言葉が大きく書かれた色紙が威風堂々と掲げられていた。それを見た叔母さん達は一体どう思ったのだろうか。

「何やこの子?ほんとに変わった子やねぇ。」

とでもかなぁ。

僕は昔から孤独を好んできた。一人でいても寂しくは無い。だから読書も好きで、書くのも好きだ。(インターネットは余り好きじゃないけど。)勉強や読書、それは一人でするものだから今の自分があるのだと思う。また、人付き合いに関して、一緒にいて面白いと思う人はいるけど、大半の人は一緒にいるよりは自分一人でいた方がましだ、とそれは今でも思う。


けれども、人間分からないもので、下らない奴だと思っていてもそうじゃない時は多々ある。また、人は一人で生きていく物ではないから人との関わり合い、それから得るもの、感じるものは大切にしなければいけない。

唯我独尊と考えている訳ではないけど最近、人付き合いが面倒くさい。(人付き合い、と言う言葉は好きではない。)人格を鍛える為に、どんな人間とでも付き合わなければ。

政治家の条件

昔行ってた大学で政治学の教授のアシスタントとして働いていた。その先生が言った「政治家になりたいなら、ゾウのようになれ」と。

ゾウ?

先生が言うにはゾウは皮が厚くて(我慢強い)、頭が良いからだそうだ。

そう政治家は我慢強くて、頭が良くなくてはならない。

けれども日本で政治家になる必要条件とはなんだろうか?

「地盤」、「看板」、「かばん」の3Kがよく言われる。これだけあれば誰でも政治家になれるのなら、政治家のレベルは低いとしか言えないだろう。なぜなら政治家を志す者の人間性や人格なんて関係ないから。


またある人はこう言う。

「金」、「顔」、「声」、「家業」、「経歴」、「潔白」、の6Kだと。お金持ちで、テレビうつりの良い顔をして、声はでかく、お父さんも政治家で、留学でもして学歴に箔をつけて、きれいなお金の使い方をしていれば、あなたも当選間違いなし。

僕はお金もなく、格好良くないし、父親はただの公務員で、汚く使うお金もない。留学しているからといってすごい学歴があるわけでもないし。もちろん地盤なんて無い。あるのはでかい声ぐらいだ。

僕が一人前になる時には、一体僕たちの国の政治はどう変わっているのだろうか?

「奔馬」

先日、三島由紀夫の書いた「奔馬」を読み終わった。「奔馬」は「豊饒の海」四部作の第二作品である。

三島作品を読むと作家としての力の凄さを思い知る。彼の語彙力、知識量、そして文章力など。

「春の雪」の主人公の生まれ変わりである若者は、三島自身の理想の男像であろうと察せられる。三島はこの「豊饒の海」を書き終え、衝撃的な死を遂げる。死のにおいがする作品である。

皇室典範有識者会議についての記事を読んでいて、出席者の一人が、「(GHQは占領成功のため)天皇の位は存続させておく一方で、日本が将来再び連合国の脅威とならないよう皇室を弱体化しておくという方針だった」と述べたらしい。GHQの意図はどうか分からないが、日本人の中に天皇や皇室に対する意識が強かったら、我々日本人の多くは己の命よりも天皇を愛することが出来るのではないか、と「奔馬」を読んでいて思った。

敗戦を鑑みると、天皇を自分よりも愛する事は良い事ではないのかもしれない。けれども、皇室が日本人とは何か、日本とは何か、と言う問いに対する答えの一つであることは確かではないだろうか。皇室に関心も無く、天皇なんてどうでも良いと思うような日本人は、一体何者なのだろうか?

三島由紀夫と古事記

最近良い本を読んでいる。三島由紀夫の「潮騒」を読んだ。それから同じく三島の戯曲「鹿鳴館」を読んだ。高校一年の時に「金閣寺」と「仮面の告白」を読み、それが三島との出会いだったが、高校時代にはいくつのも三島作品を読んだ。しかし、今に至るまで、三島文学の本当の素晴らしさというものに気付いてはいなかった様に思われる。もし僕が小説家になるのなら、どういう文章を書きたいという希望はある。書きたい題材もある。そして三島文学はそういった僕の希望に近いものがある。しかし、今の僕は遠く及ばない。三島は十代から本を出版し、代表作の「仮面の告白」は24歳の時に書かれた(ものだと思う)。僕たちの年齢からそう遠くは無いよね。自害という形で三島自身がもたらした死は、余りにも衝撃的で有名だが、三島文学は国家主義的、民族主義的で、復古調だと言われる。今になって思うが、僕の理想の小説の形とは表面的には「復古調」なのかもしれない。現代日本でもてはやされる文学は、僕にはどうしても薄く、軽く、そして変に読みやすく、理解しやすいので嫌いだ。それはきっと、現代文学の持つ軽薄さというものを僕自身が共有し、そして同時に拒絶しようとしているからだろう。今、四部作の「豊饒の海」を読んでいる。すごく良い。それから最近「古事記」も読んだ。今僕はスペイン語を勉強しているのだけれどその先生が「古事記」について質問してきたのだが、僕には答えられなかった。それがきっかけで読んだのだが、すごく良かった。僕には口承という術をつかって伝わった物語には不思議な力があるようにしか思えない。そして、平均寿命がはるかに短い昔から、文字も使わず、我々の先祖から伝わった物語に僕は魅了された。学校で古文を学んだが、その時には気付かなかった祖先の文学の素晴らしさというものを僕はいま真摯に楽しまなければいけないように思う。復古調ということでむりやり三島文学から古事記に話をもってきたけど、読んでなかったらぜひとも読んでほしい。決して損はないし、楽しめると思う。 もうひとつ。三島由紀夫で思い出されるのは自殺というトピックである。現代作家は自殺しない、と言われている。芥川龍之介、太宰治、川端康成と日本における偉大だと言われる作家は自殺して己の生涯を閉じている。そして三島以降、代表的な日本の作家は自殺していないのではないか。(もっとも、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎は何かの精神病を患ったが自殺するまでには至っていない。)作家が自殺しないから、素晴らしい文学が生まれない、そんな一説を聞いた。それが本当かどうかなんて分からないが。人が自殺する、しないの差は、一体何だろうか。僕の考えでは、人間誰でも自殺する精神状況まで到ることができると思う。そしてその状況において、人間の最深部に「何か」があるかないか、それが差ではないだろうか。または、その「何か」を超える別の「何か」があれば人は自ら命を果てるのではないか。これら二つの「何か」は個々人によって違うと思う。三島の自殺の理由は漠然と分かるような気がするが、なぜ太宰治や川端康成が自殺と言う道を選んだのか見当もつかない。それはともかく、はたして僕たちは生きると言うことに何を見出すのだろうか。
<< 前のページへ最新 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9