2001年4月から -7ページ目

自衛隊問題?

友達が「自衛隊問題」とのテーマで日記を書いていたので、それに対し思った事を書く。


僕も「国防」や「軍事」、「戦争」について詳しく知っているわけではないのだけど、本当に日本人は「軍事」を論じれないなぁ、と思う。それも敗戦のショックのせいだとおもう。


我々日本人は敗戦から軍事力を否定する事を学んだ。僕はそれは短絡的で間違っていると思う。我々はシビリアンコントロールの重要性を学び、軍隊のあるべき姿を考えるべきだった。友達は自衛隊が軍隊として成立して欲しくない、と書いたが、それは一昔前の日本の議論である。昔、ある政治家が「自衛隊は軍隊である」と言って批判された時代を思い出す。


国家として成立するのに「自衛力」をは不可欠なものであって、力によって国を対外勢力から守る組織をなぜ「軍隊」と呼んで悪いのか、と思う。彼らの「軍隊」の定義を知りたい。非常に日本的な議論であり、言葉遊びである。


日本には「国連信仰」というものがあり、国連は正義の組織みたいに誤解しているが、現在の国連なんて重要な問題に直面したら結局は「五大国」に支配されている組織と言う現実が露呈してしまう組織でしかない。そういう組織に我々の自衛隊員の命を預けて良いのだろうか?


「国防」を論じるのならシビリアンコントロールを論じるべきだろう。それから我々はなぜ先の大戦に参戦し、敗北したのか歴史から学ぶべきだろう。


日米安保のあり方、など重要なトピックがあるのに、なぜか「非暴力」と言う概念に結論を持っていくのは思考力の欠如、または思考の柔軟性が足りないのではないだろうか。国を守るという現実に直面した場合、はたして国家として「非暴力」なんて貫き通せるのか?それから政治家はもしもの時のために今のうちから「国防」を論じ、その体制を整備するのであって、決して戦争を始めるために憲法を変えたり法整備をしているわけではない。


「自衛隊は軍隊か」なんて議論しているなんて、世界がこれほど激変しているのに日本人はその変化に対応できていないなぁ、としみじみ思う。

あるあとがき

 「あるべき文学とは」

 中原中也が詩人になろうと決心した時、彼は「何を歌うか」という問いに対して確かな答えを持っていた。答えるべきは「如何に歌うべきか」という問いだった。果たして僕は何を歌うべきなのか。そして如何にして。深く突き詰めれば突き詰めるほど、距離は遠ざかる様だ。

 僕たちの生きる社会には余りにも情報が氾濫している。感情も垂れ流しである。どの情報を手に入れるかを選択するのは個人であるが、その個々人のレベルが過去と比べて向上しているとは決して言えない。下に合わせようとすれば、いくらでも合わす事ができる、そんな社会が生み出す芸術。「原体験」が圧倒的に不足している。自分を見ればよく分かる。

 あるべき文学とは、読者に初体験の様な新鮮な衝撃をもたらすものだ。これって良いよね、面白いよね、そんなものは自分の延長上でしかない。一体自分というものがどれほどのものなのか、と僕は自分と人間を疑う。真の芸術とは自分をはるかに超えた存在であり、または己と全く違った存在であるべきだ。初体験の衝撃はそういうものからもたらされるんだろう。個人的な楽しみとしての芸術など、僕の言う芸術では決してなくただの趣味、自己満足でしかないだろう。しかし、僕たちは作家として生きることを望み、真実を求め、その結果生まれた文章は「個人の感情の垂れ流し」でないことを僕は願いたい。


兵庫県尼崎市の電車事故

兵庫県尼崎市の電車事故は僕の当初の予想を超えてひどい惨劇となった。

 

どうしてこういう事故が起こるのか?

 

どうしてこれほどまで多くの人々が亡くならなければいけないのか?

 

何かがおかしい、と思う。

 

別に予期せぬ事故などで人が亡くなることは別におかしいとは思わないけど、なぜこんな事故が起こるのか。電車ってだれも事故にあうと思って乗ってないと思う。しかも100人ぐらいが亡くなる大事故になるとは夢にも思ってない。誰もが安全であると思っている、その電車がこんなことになるなんて。通勤や通学って日常なのに、こんなことが起こりうると言う可能性というか運命と言うか、何なのかね、これは。理解できないね。

 

こんな事故があるたびに、自分の命と運命について考える。寝る前に「今日も生き抜いた」と思う。人間なんていつ死んでもおかしくない。

 

でも、この事故はおかしい。

 

数人の友達が尼崎にいるはずなんだけど、彼らの無事を心から願う。

図書館と読書

著者: 中上 健次, 柄谷 行人, スガ 秀実
タイトル: 中上健次発言集成〈4〉―対談〈4〉

今考えると恐ろしい事だが、三冊と思っていた読書だが、結局もう一冊読んでしまった。「中上健次発言集成4」。今日勉強していたら、「俺、昨日四冊も読んでしまった」と思った。贅沢な一日の過ごし方と言えるかもしれないけど、他にやる事無かったのかと自問。

 

 

今朝、学校の図書館に3番乗り。日曜日なのに月曜日かと思うほど人がいた。友達もクラスメイトも沢山。こんなにナードどもがいやがって、と思ったが、俺もその一人。明日のテスト上手く出来るかなぁ。

三小説

来週テストが2つあると言う事でスペイン語のレッスン後に図書館へ。なぜか結局、3つ小説を読んでしまった。

 

 

まず、堀江敏幸の「熊の敷石」。芥川賞受賞作と言う事は知っていて、もしかしたら文芸春秋に掲載されたときに読んでいたかも、と読み終えてから思った。良く書けている小説だと思う。僕の好みではないけど。

 

 

 

著者: 堀江 敏幸
タイトル: 熊の敷石

 

それから平野啓一郎の「一月物語」。この人の作品は良くも悪くも「若い」と言う感じがする。作品は面白かったが、著者のこれからの成長を切に望む。

著者: 平野 啓一郎
タイトル: 一月物語

 

最後に水上勉の「雁の寺」。水上勉は僕の故郷福井出身の作家なのだが、今まで一作品も読んだ事が無かった。読みながら禅のお寺の話と言う事で三島由紀夫の「金閣寺」を想像。これもまた面白かった。水上作品をこれから読んでいきたい。

著者: 水上 勉

タイトル: 雁の寺・越前竹人形

 

 

今日は本当はテスト勉強をしなければいけなかったが、3作品とも上質な小説で良かった。

幸福論

最近、中上健次関係の話か日中関係についてしか書いていないのでちょっと嫌に。やはり僕はここで「幸せ」について書きたいと思う。

 

今、ヒルティの「幸福論」を読んでいて、幸せとは何か、と考えている。昔から考えていたのは幸せの大小。この世には小さな幸せと大きな幸せがあると思う。小さな幸せとは、例えば、好きな女の子とデートするとか、美味い物を食べるとか、言ったら、マスターベーションをして気持ち良いとかもその類の幸せだと思う。翻って、大きな幸せとは目標を達成するとか、夢を実現するとかそういう瞬間に感じる幸せだと思う。小さな幸せとは小さな欲求に基づき、また大きな幸せとは一種の使命感に基づくものと考える。僕は昔から出来るだけ大きな幸せを追求してきたつもりだが、現状の自分を見ているとまだまだ、としか言いようが無い。

 

さて、僕の小さな疑問なのだが、小さな幸せを犠牲にして大きな幸せを求める生き方とは本当に幸せなのか、と言う事である。おそらく日常レベルではそうではないと思う。小さな幸せを求めないとは、現状に満足していないと言う事であり、また自分を責めるから。けれども、僕は成長の過程に幸せを感じるのだ。

 

ま、今の僕はしっかり「踏まれる」ときだと思う。成長したらひっくり返してやる。

著者: ヒルティ, 草間 平作
タイトル: 幸福論 (第1部)

日中関係

「歴史 反省とお詫び」表明へ 村山談話踏襲し首相演説、との新聞の見出し。小泉首相は先の大戦に対する真摯な反省を表明するのだが、これで本当に最後にしてもらいたい。これでも問題が解決しないのなら別の方法を我々は考えなければいけない。さてこの演説に対してどう中国は反応するだろうか。

 

By Playing at 'Rage,' China Dramatizes Its Rise

 

 

New York TimesNYT)でも連日のように関連記事が掲載されている。現代中国の特徴としては人民が情報を自由に入手する事が出来ない、と言う事だろう。いくら日本が謝罪し、反省を表明してもそれが中国人民に伝わらなかったら意味がない。あたかも日本人が一回も謝罪していないかのように思っている人も多いはず。同じ情報を共有できなければ(どう解釈するかは個々人の勝手だが)コミュニケーションしようが無い、と思う。NYTは日本の教科書だけでなく、中国の教科書にも問題はあると指摘。そんな国に文句言われたくないよなぁ。

 

 

ちなみにNYTで村山談話についても記事に書かれていた。

 

 

…Prime Minister Tomiichi Murayama spoke of the “tremendous damage and suffering” his country had caused, adding, “I regard, in a spirit of humanity, thses irrefutable facts of history, and express here once again in my feelings of deep remorse and state my heartfelt apology.”

 

    But China’s state-controlled madia have usually focused on finding fault with each Japanese pronouncement, sustaining the belief that Japan has indeed never apologized.

 

 

とにかく、未来に向けて建設的な会談が日中トップの間で実現しますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

教養

好きな小説家は誰か、と訊かれたら僕は坂口安吾、中島敦、三島由紀夫、それから中上健次と答える。どうやったら文章上手く書けるの、と訊かれたら「そんなもん知らない」と答える。俺の文章が上手いかどうかは知らないが、書くのが好きなのは、読んできたからであり、書いてきたからである。けれども、今日また中上健次の対談集を読んでいて思ったのは、今まで一体何を読んできたのか、と言う事だ。おそらく、今まで何百冊と本を読んできたのに、自分の教養の無さ、無知、力量の無さが思い知らされた。まだまだ勉強しなきゃいけないことは沢山あって、読みたい本は膨大な量だ。そういう意味で本当に焦った。経済なんて勉強している場合じゃない、と。日本の大学生だったら思いっきり好きな本を読めるのに、と甘えてみたりする。

 

 

中上と三島と天皇(と中島)

中上健次発言集成2
著者: 柄谷 行人, スガ 秀実
タイトル: 対談
中上健次発言集成3
著者: 中上 健次, 柄谷 行人, スガ 秀実
タイトル: 対談

 

 

昨晩、中上健次の対談集を読み終える。僕は中上健次が大好きになってしまった。「中上健次発言集成2」の中で、三島由紀夫について語っていた。三島由紀夫と天皇は切れない関係だから、読んでいてすごく面白かった。僕は、中上健次と三島由紀夫と天皇が大好きである。中上自身が三島の次は俺だ、みたいに意識しているのは興味深い。

テスト勉強の合間に、「中上健次発言集成3」を読んでいたのだが、その中で天皇と日本文化について語っていた。日本文化の中心は日本語であって、日本語と天皇とは切っても切れない関係であると言っている。今、天皇継承が論じられているが、そもそもなぜ天皇が日本に必要なのかと言う議論が余り行われていないように思われる。この対談を読めば、答えは分かるだろうと思う。天皇無き日本は日本ではない、僕はずっとそう思ってきた。さすが、中上健次と言えるのではないだろうか。

 

 

ところで文学好きの友達と中上健次について話していると、ついつい「中上アツシ」と呼んでしまう。なぜかなぁ、と思っていたら、僕の好きな「中島敦」と混同しているからそう呼んでしまうんだ、と納得。ちなみになぜ僕が中島敦の小説が好きなのかと言えば、それは彼の小説の命題が「自尊心」だからだと思う。人間にとって、特に若者にとって、自尊心とはやっかいなものであり、考えさせられるものでもあるから。

 

 

誤解

僕が政治家を夢見始めたのは子供の頃からでこれほど政治家に対して悪いイメージがあるなんて知らなかったし、考えても無かった。夢を語っただけで、悪い印象を与える事も。いろんな質問を受けました。

 

質問1

政治家に成りたいなんて言って、汚い事して金儲けでもするきか?

 

読んだ話だけど、孫正義が学生の頃、将来政治の道に進むかビジネスの道に進むか悩んだらしい。結局、孫さんはビジネスの道に進み、成功しているんだけど。僕は孫さんぐらい能力があって、運が良いのか知らないけれど、単純にお金儲けがしたいなら政治家なんてからずにビジネスやりますね。金銭的に儲からない「職業」だと思うから、政治家って。

 

質問2

政治家に成りたいなんて言って、君は結局「権力」が欲しいのか?

 

政治家=権力、っていう構図をその時まで考えていなかった、僕の無知と言うかナイーブな部分が露呈して、それは違うよ、としか言えなかった。しかし、なぜ僕が政治家を目指すのかと言えば、それは権力を手にするためである。誤解を恐れず言えば。だって、日本を変えるといって政治家に成っても、権力なし、つまり力が無かったら、何も実行できないから。もちろん、権力の前にいろいろ思いや考えは必要なわけですが。