エネルギー問題 | 2001年4月から

エネルギー問題

最近自分の体力とかエネルギーについて考えている。精神的、肉体的なエネルギーについて。日本では数年前まで首都を移転するとかそういう議論が盛んだったが、首都を移転して新しく創造するというのは相当エネルギーの要ることではないかと思われる。そんな事をワシントンDCにいて考えていた。日本の場合、財政的にも首都を移転するのは不可能に近いし、日本人にそれほどのエネルギーがあるとは思われない。小泉が首相就任当初人気があったのも、彼にエネルギーがあったからだろう。けれどもその力は終始自民党内の抵抗勢力との戦いに費やされ内向きのエネルギーだと言う事が判明した。歴史を見直そうとか、愛国心を高めようとする試みも結局は内向きなエネルギーなのだろう。こんな事してても全然日本は変わらんわ、と思うのは俺だけだろうか。もちろん歴史や愛国心の重要性は認識しているけれども。今は外向きのエネルギーが必要とされているのである。内向きではジリ貧ですわ。これは日本という国のエネルギーについて。

村上龍の対談集「存在の耐えがたきサルサ」を読んでいて、彼はキューバが好きという事を知る。実は僕もキューバという国が大好きと言うかキューバに興味がある。それは高校生のとき、キューバ音楽を聴いておじいちゃんたちが愛の歌を情熱的に歌えるというのに単純に感動したからである。言い換えれば日本人には無いキューバ人のエネルギーの凄さに感動したのだ。その感動が今でも続いていてスペイン語を勉強しているんだけど。日本人にはエネルギーが無い。後退していく社会は美しいかもしれない。けれども豊かであるだけで、無気力で幸せを感じれない社会と言うのは社会として民族として危機的な状況ではないだろうか。日本人はまさにこの国が滅びるという時に一体何を真剣に残そうとするのだろうか?刹那的に徐々に落ちていくその瞬間、瞬間を楽しみながら我々日本人は生きていくのだろうか?これは日本人と言う国民のエネルギーについてである。

先学期勉強していて思ったのだが、僕でもギリギリまでいけるのだ。でもそのギリギリという限界に対し僕は決して納得していない。その限界の状態をどれだけ広げていけるのかそれがこれからの僕の課題である。よって、僕には体力と精神力が必要である。先学期の努力が運良く結果に結びついて結構自信になったが僕にはその限界を飛び越える必要がある。体力を付けて、精神力を磨こう。やるべき事は沢山ある。