菩提樹下の悟り 後編 『釈迦の本心』より

 

 

 

いつもブログをお読みいただきありがとうございます。

 

人生の疑問、「悩み」「苦しみ」「問題」が仏法真理を知ることで解決できれば幸いです。

 

 

 

この3次元世界(魂の修行の場)を超えた、4次元以降の実在界ついて、4次元精霊界・地獄界、5次元善人界、6次元光明界、7次元菩薩界、8次元如来会についてご紹介して参りました。

 

 

 

経典『釈迦の本心」より

「釈迦は出家してよりのち、いかにして悟りを開いたか。そして、数十年の伝道期間をいかに生き、いかに考えたか」ということを、順にご紹介させていただきます。

 

 

第一章 菩提樹下の悟り

第二章 八正道の発見

第三章 六波羅密多の思想

第四章 「空」の思想

第五章 縁起の法

第六章 人間完成の哲学 

 

 

 

この3次元世界に生きているうちに、天国とは呼べない4次元世界 精霊界・地獄界を知り、5次元善人界以上の天国と呼ばれる世界へ戻れる心境、悟りを得ることができれば幸いです。

 

 

 

霊界の基本構造観

霊界は悟り(心の境涯)に応じた、多次元の階層に分かれています

 

3次元:地上界

4次元:精霊界、地獄界

--------------------------------

5次元:善人界(ここからがいわゆる天国)

6次元:光明界(各界の専門家達の世界)

7次元:菩薩界(ここからが天使の世界)

8次元:如来界

9次元:宇宙界

 

 


地獄界の増大と悪のまん延のなかで

 

 

今、地獄界の増大と、地上世界における、生きている人たちの心の在り方の、悪のまん延に、たいへん心配を重ねています。

 

 

どうか、人々に、強くあってほしいと思うし、「目に見えない世界が本当の世界で、目に見える世界が仮の世界だ」という、実に、この世的に足場を置いている者にとっては、分かりにくいことではあろうけれども、

 

 

「この世で目が見えている者が実は見えていなくて、この世のものでないものが見えている者が、本当に目が見えている者である」という、逆説的な真理を学んでいただきたいと思います。

 

 

これさえ分かれば、すべての宗教の根本にあることが、その意味が分かると思います。

 

 

この世のあらゆる苦しみや悲しみも、来世以降の幸福のためにあるものです。ですから、この世の苦しみや悲しみを、そのまま、自分の人生と同一視してはなりません。

 

 

経験は経験―。しかし、そこから学び取ってこそ、真実は光ってくるものだということを、忘れないでいただきたいと思います。

 

 

これから、真実への戦いの時代に入っていきます。まだまだ、私の思いとはるかにかけ離れた現実が維持されております。

 

 

どこまで我慢できるかは分かりませんけれども、ただ、危機は近づいているし、現に今、起きている。

 

 

今、危機のなかを走っているのだということを、知っていただきたいと思います。

 

 

本当に尊いものを尊いものとして、尊くないものを尊くないものとして、見分けていくことを望みたいと思います。

 

 

Happy Science『地獄の法』救世主からのメッセージ より


 

 

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菩提樹下の悟り 後編 『釈迦の本心』より

 

 

目次

⑥生命への意欲

⑦心の調和

⑧己心の魔との闘い

⑨偉大なる悟り

⑩大いなる第一歩

 

 

 

⑥生命への意欲

 

 

村娘スジャータと会ったゴータマは、「自分を立て直していかねばならない」と強く感じました。ほおを伝う涙は、ある意味では、過去への惜別だったかもしれません。

 

 

ゴータマは、ミルク粥が胃のなかを伝わっていくとき、なんともいえない力強さ、おいしさを感じ、「食物を否定することは、必ずしも真理に至る道ではない」ということを知ったのです。

 

 

そして、「人間に食べられ、人間の高度な活動に昇華されていくことは、食物にとって喜びとなるのではないだろうか。人間に食べられることは、食物にとって無駄ではないのではないか」と考えました。

 

 

「結局、この世のありとあらゆるものは、より偉大なるものへの奉仕の材料として存在しているのではないのか。その材料を、材料だけでは意味がないと見捨ててしまうことは、修行者の名において、傲慢の罪を犯しているのではないだろうか。

 

 

確かに材料だけではどうにもならないが、材料があって初めて料理ができるのであり、素晴らしい料理をつくることを、仏神は願っておられるのではないのか」

 

 

こうしたことをゴータマは感じたのです。「よし、もう一度、生まれ変わって生きてみよう。新生してみよう」と思い立つことができたのは、みずからのほおを伝う涙、内臓にしみ渡っていく食物のありがたさ、スジャータの光り輝く生命力 ― そうしたものの力によってでした。

 

 

このとき感じたことがもう一つありました。それは、スジャータの歌にある、「琵琶の弦は、中ほどに締めると音色がよい」という文句でした。

 

 

「なるほど、中ほどに締めればよいのか。確かに、強く締めれば、弦を弾くと切れてしまうことがある。反対に、ゆるみすぎては音色がよくないし、音がでないかもしれない。

 

 

現在の自分は強く張った弦であり、少し触っても切れてしまいそうだ。こんなことでは、よい音は出ないのだ。

 

 

自分は、悟りだとか修行だとか言って肩をいからせていたが、それは、ごく自然なふるまいのなかで生きていく少女にも見劣りがするのでないか。

 

 

いま天国の門が開くとして、スジャータと私と、どちらを迎え入れるかと言えば、天国の門は間違いなくスジャータのほうに開くだろう。

 

 

私の姿は、おそらく地獄的なる容貌となっているだろう。こうしたみすぼらしい姿でもっては、天国の門は開かないだろう。

 

 

さすれば、あと数年でもよい、私にいま少しの生命があるならば、もう一度、肉体をつくり直し、この世について、消極的なる意味のみならず、積極的なる意味をも見いだしていこう」

 

 

こうした生命への意欲が湧き上がってきましたが、この瞬間こそが、実は悟りへの第一歩だったのかもしれません。

 

 

「極端な修行をするだけでは悟れない。このままでは死んでいくだけであり、死んでいくために生まれてきたのならば、今世に生命を持ったことの意味がないではないか」という思いを否定することが、ゴータマにはどうしてもできなかったのです。

 

 

ゴータマはスジャータに合掌して礼拝すると、彼女と別れました。

 

 

そして、さまざまな風景を眺めていくと、そこもかしこも生命があふれている姿がありました。草花も木々もすべてが生命にあふれているのに、自分ひとりだけが、「修行、修行」と言いながら、そうした生命の存在に気づいていなかったことを感じ取ったのです。

 

 

「たとえ道端に咲いている一本の花であったとしても、その花が、自分が枯れていくこと、この世から消えていくことばかりを願っていたならば、この世はどうなるのか。

 

 

また、動物たちがみな、この世で生きることを厭い、一日も早く死ぬことばかりを願っていたならば、どうなるだろうか。

 

 

牛や馬が、やせることばかりを願って、えさをたべなければ、どうなるのか。子供を産まなければ、どうなるのか」そうした思いが心をかすめていったのです。

 

 

 

⑦心の調和

 

 

こうして、ゴータマは「布施」を受ける決意をしました。そして、毎日、一定の時間、托鉢に出ることに決めました。

 

 

居住場所はウルヴェーラの森(といっても、木が涼しい木陰をつくっているぐらいの林ですが)だったのですが、一日のうち、早朝と夕方の二回、托鉢に出て、人びとの家を回り、心からの布施を遠慮なく受けることにしたのです。

 

 

布施を受けることを決めたとたん、ゴータマは心に一つの調和が生じるのを感じました。

 

 

それまでは、何ごとも「自分が、自分が」と思い、自分ひとりで解決しようとして、「食べ物の調達であろうが何であろうが、すべて自分でやるのだ。他人の世話は受けない」と考えていました。

 

 

しかし、そうした心は強く締めた琵琶のようなものだと考え、「中ほどで良いのだ。生活能力のない自分であるならば、力まず、見栄を張らず、『食欲がない』などと自分をごまかしたりせず、修行者として人びとの布施を乞おう」と決めたのです。

 

 

当時のインドでは、「出家者たちに施しをすることは、天の蔵に宝を積むことだ」と言われていたので、信仰深いインドの人びとにとって、布施をすることは一つの慣習であり、功徳を積むための在家修行でもありました。

 

 

そうした事情もあって、ゴータマは快く布施を受ける決意をし、残りの時間を使って、一生懸命、「悟りを得る」ということに打ち込むことにしたのです。

 

 

「自分が、自分が」という気張り、緊張した思いが去ったことによって、自分の顔に一つの余裕が生まれてきたことを、ゴータマは感じました。

 

 

顔に笑みが戻ってきたのです。そして、肋骨が透けて見えるような身体にも肉が戻り、次第に力がみなぎってきました。

 

 

そして、「今までの自分が、いかに弱気で消極的であり、否定的な思いに囚われていたか」ということを知り、また、「生きていくことに余裕が出てくると、いろいろな人のことが良く見えるものだな」ということを感じたのです。

 

 

結局、このとき、ゴータマは次のように思ったのです。

 

 

「多くの人びとの生き方を見て、彼らに対して参考になる意見が述べられるような自分になりたい。また、自分自身に対しても的確な判断が下せるようになりたい。

 

 

そして、この世界や人生の意味を知り、多くの修行者たちが求めている悟りというものが何であるかを実感してみたい。悟りたる者としての仏陀とは何か。仏陀の境涯とは何か。それを体得してみたい」

 

 

やがてゴータマは旅に出ます。「古い生活と決別し、新たな道を開いていけ」という声が、心のなかから聞こえてきたような気がしたからです。

 

 

「布施に頼って生きていく以上、どこにいても困ることはない。いままでは、食するための木の実や草の根があるところで生活していたが、これからは布施を受けて生きていく以上、そうしたことを気にしなくてよいだろう。思うがままに世界を見、思うがままに人の心に触れ、悟りを深めていこう」

 

 

こう考えて旅に出たのです。そして何日かたち、ガヤーという町に憑きました。

 

 

 

⑧己心の魔との闘い

 

 

ガヤーの町というのは、ちょっとした市街であって、人口は数千人ぐらいだったでしょうか。町の中心地には商店街があり、人の行き来のけっこう多いところでした。人口が数千人というのは、当時としてはなかなかの都会だと言えます。

 

 

ゴータマはこの町で、托鉢に出て布施を受け、帰ってくると、主として夕方から明け方にかけて、自分の悟りのための時間をとることにしたのです。

 

 

そのため、日が暮れるころ、河からそう遠くないピッパラの大樹の下で禅定することを日課にしました。このピッパラは、幹の太さがひと抱えもふた抱えもあるほどの大樹であり、その下で雨露を防ぐことができたのです。

 

 

ここでゴータマは、主として「反省的瞑想」を進めていきました。

 

 

単に目をつむり、思いを一点に集中しようとするだけだと、悪霊、邪霊のたぐいから、さまざまな惑わしを受けることが多いので、自分の心を調和していくために、まず、過去に自分が思ったことや行ったことを、幼いころからの一つひとつ思い出し、良心に照らして間違っている点があるならば、素直に反省していったのです。

 

 

しかし、そうした反省が進み、やがて二十代後半の時代にさしかかってきたとき、反省しても反省しても、どうしても解決がつかない思いが、みずからの内に突き上げてきました。

 

 

それは、妻ヤショーダラ―と、わが子ラーフラのことでした。

 

 

二人の顔が思い浮かんできて、「ラーフラはもう大きくなったかもしれない。ヤショーダラーはどうしているだろうか。私のことを思い、せつない思いをしているだろか」と考えると、どうしても心が揺れるのでした。

 

 

そのころ、ゴータマは心の窓が少し開けてきており、霊界のさまざまな者たちの声が聞こえるようになっていましたが、こうしてピッパラの下で禅定していると、あるとき、胸の内から声が響いてきました。

 

 

「ゴータマよ、わしは梵天である。梵天であるわしがお前に語るが、おまえは悟りを求めて、六年間も修行してきたのだろう。六年間の修行の結果が何だ。結局、自分が平凡人であることを証明しただけではないか。

 

 

おまえは人間としての基本を忘れている。人間の基本は、結婚して家庭を持ち、子供を持ち、そのなかで幸せに生きていくことだ。

 

 

その幸せを捨て去り、妻も子も捨てて、ピッパラの木の下で禅定しているおまえなど、生きていて何の意味があるのか。おまえは間違っている。早くカピラヴァストゥに帰り、妻と子を喜ばせてやれ、そうするうちに、おまえは大悟できるのだ。

 

 

人間には、この世の喜びを喜ばずして、来世の喜びなどというものがあるものではないのだ。この世で楽しめるだけ楽しめ。喜べるだけ喜べ。その喜びの量が大きければ大きいほど、来世の喜びもまた大きいのだ。

 

 

おまえは充分に喜んでいないではないか。もっともっと家族との生活を楽しめ。もっ

ともっと優雅な日々を送れ。それがお前の今世の修行の意味なのだ」

 

 

梵天と名乗る者が、このように語りかけてきたのです。

 

 

確かに、もっともなところ、納得するところもありましたし、また、ゴータマのいちばんの弱点であるところも突いてきました。

 

 

妻や子を捨てたことへの反省や、父王や義母など、幼いころから自分を養育してくれた人たちへの愛着を、ゴータマは心のなかで深く感じていました。

 

 

自分が親不孝者であり、妻や子にとっては、よくない夫や親であるということは、反省しても反省しても、どうしようもないことだったのです。

 

 

そのため、心は揺れ、「そうだ。やはり、私はカピラヴァストゥに帰って、父の跡をつがなければならないのではないか」という思いも去来しました。

 

 

しかし、この梵天と名乗る者の言葉のなかで、最後の言葉がどうしても気にかかりました。「この世で楽しめば楽しむほど、あの世の楽しみも大きくなる」ということに対して、「ここに微妙なすり替えがある」と感じたのです。

 

 

そして、「これは、自分の心のなかにまだ潜んでいた、この世への執着を、あぶり出されているのではないのか。梵天と名乗る者は、実は魔ではないのか」ということを、ゴータマは見破りました。

 

 

「おまえは魔だな。梵天を名乗っているが、梵天ではあるまい。正直に白状しろ。おまえは修行者を迷わしているマーラ(魔)であろう。悪魔・波旬よ、われはおまえの正体を見破ったり」

 

 

ゴータマがこう言ったとたん、梵天と名乗る者の声は、高笑いとともに、「見破ったか、ゴータマよ。おまえもずいぶん修行が進んだものだ。まあ、せいぜい修業して、虚しい人生を生きるがよい」という言葉に変わったのです。

 

 

このとき、ゴータマは「己心の魔」というものを深く感じたのでした。

 

 

「自分を魔が惑わしているのではなく、自分自身のなかにある弱みやこだわりが魔を呼び寄せている。こうした執着を断たねば、ほんとうの意味での安らいだ心にはなれない。

 

たとえ妻や子、父や母を思う人間的な心であっても、その思いが一点にとどまって執着となったとき、それは苦しみとなって展開していく。そして、その人情の隙を突いて魔が入り込んでくる」ということを知ったのです。

 

 

こうして、「執着を断つ」「粗衣粗食で過ごす」ということとは別に、「心の世界において執着を断つ」ということを深く考えはじめるきっかけだったのです。

 

 

 

⑨偉大なる悟り

 

 

悪魔・波旬(マーラ・パーピーヤス)との対決を通じて、「どうやら、欲心を持つことが魔を呼ぶらしい」ということをゴータマは知りました。

 

 

「心の奥の世界、深層心理の世界には、守護霊や指導霊といった偉大な者だけでなく、魔も跳梁しており、心のなかに巣くう暗い想念を目掛けて魔は寄ってくる。

 

 

その暗い想念を食物とし、あわよくば、心の隙に乗じて、その人間の心を手中に収め、自由にあやつりたいという征服欲を持っている者がいる」ということを知ったのです。

 

 

こうして、反省的な瞑想がその精度をますます深めていきました。

 

 

「どのような思いであったとしても、思いが一点にとどまり、心がその思いに集中して、粘着質のごとく離れなくなると、それは苦しみの原因となる。

 

 

それゆえ、心はいつも執われずに自由でありたい。春の小川のように、サラサラと流れていく心でありたい。無執着の境地でありたい。

 

 

善念であれ悪念であれ、その思いにあまりに集中しすぎると、心の自由性をなくし、幼子のごとき自由な心を失ってしまう。その結果、思いが一点にとどまったところを魔にねらわれやすい。

 

 

しかし、そうであってはいけない。努力しなければならないという気持ちを捨てて、もっと伸びやかで、もっと開放的な、豊かで安らかな境地に入っていかねばならない」

 

 

このようにゴータマは悟ったのです。

 

 

過去三十五年数ヵ月、すなわち三十六年近い歳月を振り返り、ひととおりの反省を終え、しかも、単に反省するだけでなく、現に心に引っ掛かっているものを捨てて、無執着の境地、執われのない境地に達したとき、大いなる安らぎがゴータマの身にしみてきました。

 

 

それは先日マーラが現れたときとは大違いであり、天上界から暖かい光がサーッと胸に入ってくるのをゴータマは感じました。そのとき、梵天の声が聞こえてきたのです。

 

 

「ゴータマよ、よく悟りました。あなたがその悟りを得るのを、私たちはいままで待っていたのです。長いあいだ、私たちはあなたを見守ってきました。

 

 

よくぞ、そこまで悟りました。これがあなたの悟りの第一歩なのです。この悟りを得なくては、今世のあなたの使命ははたせないのです。

 

 

あなたが歓楽の生活のなかにいたとき、私たちはすいぶん心配しましたし、あなたが出家した当初も、『苦行のあまり、栄養失調で死んでしまうのではないか。あるいは自殺するのではないか』と、ずいぶん心配していました。

 

 

しかし、あなたが私たちの声を聞ける段階にまで達したことを、うれしく思います」

 

 

このような声を伝えていたのは、釈迦の過去世であり、魂の兄弟でもある、リエント・アール・クラウドやヘルメスたちでした。こうした高級霊たちが、「梵天」と名乗ってインド的に現れたのです。

 

 

この後、ゴータマは、宇宙の起源、地球の誕生とその歴史、文明の興亡、そのなかでの幾転生、幾十転生の自分の人生の姿、人類の未来についての予見などを、三世を見通す眼でもって洞察しました。

 

 

また、心が穏やかで、執われがなくなったとき、ピッパラの樹の下に自分の肉体を置きながら、霊体が宇宙大に広がっていくという体験もしたのです。

 

 

これが、心の王国の鍵を開いた人の特徴であり、自由自在の魂の存在を、霊的実感としてつかんだ証拠でもあります。

 

 

このときのことは、また改めて話すこともあるでしょう。

 

 

結局、「肉体と魂は違う」ということをしっかりとつかむことが、大いなる悟りの第一歩ともなっていったのです。

 

 

 

⑩大いなる第一歩

 

 

ゴータマは菩提樹下において最初の悟りを得ました。悟りというものは、いったん最高のものを味わうと、そのままでいたいと思うわけですが、どうしても、再び平凡な生活のなかに取り紛れていくことが多いのです。ゴータマもまた、そうしたことが多かったと言えましょう。

 

 

それゆえに、ピッパラの樹の下で悟り、仏陀となったゴータマは、「この悟りを、一日も早く、多くの者たちに伝えていかねばならない。これを語らずにいて、自分ひとりの心の奥に潜めておくだけならば、私の今世の生の意味がないだろう」と考え、だれかに伝えようとしたのです。

 

 

そこで、単に托鉢するだけではなく、だれかれなしにつかまえては、「私は悟りを開いた。私は覚者となった。私はこういう経験をした」と言ってまわったのですが、人びとは取り合ってくれませんでした。

 

 

「修行者よ、おまえは頭がおかしくなったのだ。あまりうぬぼれるものではない。あまえはだれのもとで修業して、そんなに偉くなったのか。独学で悟りが得られるものではないのだ」という言葉が返ってきたのです。

 

 

しかし、この感動をなんとか人びとに伝えたいと思った仏陀は、「私がルドラカ・ラーマプトラのもとに入門し、すぐさま師と同じレベルの悟りに達したのを見て驚き、その後、一緒に苦行した五人の修行者たちに、私の悟りを伝えることが出発点だ」と考え、彼らを探す旅に出ました。こうして、伝道の最初の一歩が始まったのです。

 

 

結局、伝道の第一歩は「伝えようとする思い」にあったということです。自分自身が体験したことを、だれかに伝えんとする行為、同じく道を歩む者、同じく悟りを求める者に伝えようとする行為があったのです。ここに、次なるステップが隠されていました。

 

 

「これが伝道の始まりだ。のちの世に初転法輪と呼ばれることになるだろう」と思うと、仏陀の胸は高鳴り、熱い血潮を抑えることができませんでした。

 

 

「人に伝えたい」という気持ちと、「もっと悟りを深めたい」という気持ちが交互になりながら、「一日もじっとしていられない」という思いがつのってくるのでした。

 

 

 

Happy Science『釈迦の本心』 より

 

 

 

 

仏法真理の基本的考え方

 

正しき心の探求としての「四正道」

幸福になるための四つの道

 

正しき心とは、身近な言葉で言えば良心のことです。

その究極が、仏の御心、創造主エル・カンターレの御心です。

正しき心の探求をしていくことが、本当の幸福への道なのです。

 

「四正道」の四つとは、「愛」「知」「反省」「発展」です。

 

① 「愛」とは、人から「もらう」ものではなく、相手の幸福を願って「与える」ものです。与えきりの気持ちで、相手を幸福にしていく行為です。これを「与える愛」と呼びます。

 

② 「知」とは、「知は力なり」—— 「仏法真理」を学ぶことで悩みを解決でき、「智慧」が得られます。仏法真理は、そのための最高の教科書であり、参考書でもあるのです。

 

③  「反省」とは、人間には自由意志があり、その分、幸福感も生まれますが、間違いを犯すこともあります。反省は、心の間違いを修正し、明るい未来を開く道具です。たとえて言えば、“消しゴム”のようなものです。

 

④ 「発展」とは、「利自即利他」—— 信仰を通して得られた、自らの幸福や成功を、周りの人へ広げていくことです。この地上においても、幸福な人で満ちた世界を創ることです。

 

 

 

霊界の基本構造観

霊界は悟り(心の境涯)に応じた、多次元の階層に分かれています

 

3次元:地上界

4次元:精霊界、地獄界

--------------------------------

5次元:善人界(ここからがいわゆる天国)

6次元:光明界(各界の専門家達の世界)

7次元:菩薩界(ここからが天使の世界)

8次元:如来界

9次元:宇宙界

 

 

 

・霊界は、天国が圧倒的に広く、地獄はごく一部です。

 

 

四次元幽界の一部に地獄があります。そこは、悪想念の曇りによって、仏の光が射さなくなった暗黒の世界です。

 

 

ただし、地獄は、天国に対抗できるような大きな勢力ではありません。また、人間は地獄からこの世に生まれてくることはできません。

 

 

・あの世に還るときには、この世で生きた心境にふさわしい世界に還ります。

 

 

心の世界も、霊界と同じく、多次元構造をしています。私たちの心のなかに、天国があり、地獄があるのです。

 

 

その心に応じて、善い心で生きた人は天国に、悪い心で生きた人は地獄に堕ちることになります。

 

 

転生輪廻と守護霊

人間は、生まれ変わりを繰り返し、魂修行しています。そして、「魂の兄弟」の一人が、守護霊しています。

 

 

・人間は、魂として ”永遠の生命” を持っています

 

 

人間の本質は霊(魂)であり、あの世が本来の住処です。数百年に一度くらいのペースで、この世に生まれてきて、また、あの世に還っていきます。これを「転生輪廻」といいます。

 

 

・転生輪廻の目的は “悟りの向上”

 

 

人間は転生のたびに、新しい環境に生まれ、新しい出会いや経験を経て、たくさんの魂の糧を得ることができます。順境も逆境も悟りの向上のためにあるのです。

 

 

・あなたを幸福へと導くために守護霊が頑張ってくれています

 

 

この世の魂修行を、安全で有意義なものとするために、各人には、必ず一人、守護霊がついています。

 

 

私たちの魂は、原則、六人一組の「魂の兄弟」というグループをつくっています。そして、そのなかの一人が、守護霊を担当しているのです。

 

 

 

                                  

仏法真理は「真実を知ること」であなたを「幸福へ、健康へ、成功へ」導いてくれるのです。---With Savior(救世主と共に)---

 

                                                 

『真実の世界、人生、幸福、健康に生きる方法』を知りたい方は、Happy Scienceの経典をご参照ください。今日のブログは、Happy Scienceの 『復活の法』 よりお伝えしています。