心の調和を保つための瞑想
いつもブログをお読みいただきありがとうございます。
人生の疑問、「悩み」「苦しみ」「問題」が仏法真理を知ることで解決できれば幸いです
今回は、『瞑想の極意』に続いて、「心の調和を保つための瞑想」についてご紹介いたします。
瞑想とは、一言でいうと ”実在界との交流”です。
よく、守護霊とか、ハイヤーセルフとか、天使とかと交信するブログがありますが、
それほど簡単には、実在界の存在と交信ができるわけではありません。
なぜなら、この多次元世界は「波長同通の法則」のもとにあります。
交流できる実在界の存在と同じ波長、同じ悟りがないと通じ会えないのです。
この地球霊界の構造は、この地上3次元以降の多次元世界となっています。
高次元世界が玉ねぎ型に下次元を包摂する世界。
高次元からは下次元へ影響を与えられるが、下次元から高次元へは、接続したい次元の波長、悟りが必要となります。
この世界に生まれてくる理由の一つは、地上世界で様々な経験を積むことで、悟りを上げることを人生の目的としています。
3次元:地上界
4次元:精霊界、地獄界
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5次元:善人界(ここからがいわゆる天国)
6次元:光明界(各界の専門家達の世界)
7次元:菩薩界(ここからが天使の世界)
8次元:如来界
9次元:宇宙界
3次元の人間が高次元世界の住人と交流しようとすれば、
その住人と同じ認識、悟りを持っていることが前提となります。
分かりやすく言えば、7次元以降の天使と同通できるのは、
この3次元世界に生きながら、天使として生きているということです。
肉体を持ちながら、霊的存在としての自己認識、それぞれの霊界特有の悟りを得て
初めて「波長同通の法則」に従って、各霊界の住人と交流が可能となります。
しかし、すぐにでも交流できる世界もあります。
それは、4次元:精霊界、地獄界です。
天国ではなく、この地上に一番近い世界、この地上と価値観、考え方を同じくする世界には、すぐにでも交流できます。
しかし、これは、天使と交流するとは違って、地獄霊に憑依されたと言ったほうが正しい説明になります。
今日は、瞑想の入口、「心の調和を保つための瞑想」を紹介します。
瞑想状態そのものに入っていくためには、「心の調和」を維持するということが大事になってきます。
これは基本でありますが、初心者にとっては瞑想の七割近くを占めることになります。
この最初の関門を突破しないことには、この後の段階にはすすめません。
心を調和して、霊的世界から神仏の光を受けつつ、守護霊との交流を始めてみましょう。
・HAppy Science 『瞑想の極意』
・HAppy Science 「瞑想の極意」より 『瞑想の本質』
・HAppy Science 「永遠の法」より 『あの世の5次元世界、善人界』
・HAppy Science「大悟の法」より 『心のコントロールによって、・・・・・』
・HAppy Science「大悟の法」より 『高次元霊界へ同通できるかは、・・・・・』
・HAppy Science 『真実の世界観、心の法則があなたを幸福へ導く』
・HAppy Science「黄金の法」より 『波長同通の法則』
Happylife-Happyhealth
”心の調和を保つための瞑想” をご紹介いたします。
【目次】
1. この世的なる雑念を去って、心を整える
2. 念いにおいて不純なるものを出さない
3. 幸福な状態
4. 人間は同時にふたつのことを思うことはできない
5. みずからの心のありようを、より高次な世界へと向けていく
6. 一日一生
7. 瞬間的に定に入る。生活の中でアルファ波を出し続ける
■この世的なる雑念を去って、心を整える
『幸福瞑想法』というこの書物の中には、数多くの瞑想の方法があげられております。
けれどもこの書物を読んで、このまますべてを実践できる方はおそらくいないはずであります。
約12種類の瞑想方法が載っていますが、実践をすることは困難でありましょう。
それゆえに、この瞑想ということに関してひとつの枠組みをつくっていく必要があります。
まず、第一種類目に、「心の調和を保つための瞑想」といえるものがある。
瞑想の入口において、心の調和が大事だと言いましたが、瞑想状態そのものに入っていくためには、これを維持するということが大事になってきます。
これは基本でありますが、初心者にとっては瞑想の七割近くを占めることになりましょう。
この最初の関門を突破しないことには、この後の段階はないのであります。
この一種類目の瞑想については、古来より「無念無想」という言葉がよく使われています。
この世的なる雑念を去って、心を整えることによって何も考えない状態、そして安らぎだけが身体の中に滲み透っていく状態をめざすと書いてあります。
現在禅のほうの修行をあちこちでやっておりますが、禅の瞑想の大部分がこの第一段階、第一種類目の瞑想であろうと思います。
ただ禅の瞑想において、いまだ未熟であると思われるところは、何ゆえの瞑想かということが分かっていないと思われるところであります。
形から入ってはいくが、形から入って形から出られないでいる。
そこに限界がある。そう思われるわけです。
しかし、この一種類目の瞑想は非常に大事でありますし、本日千数百名の方が来ておられますが、
このうちの千名以上の方は、まずこの第一種目の瞑想に入れないのであります。
ここに入るのもたいへん難しいこととなっています。
この一種類面の無念無想型、「心の調和を保つための瞑想」というのは、いったいどういうふうにやるのか。
また、どのような意味があるのか。
これを考えてみると、結局実相世界に旅行するような気持ちで、この世的な悩みごとから離れてみる。
そして心を落ち着かせてみるということになるわけであります。
したがって、単に無念無想になるということ自体が重要なのではなくて、心の雑念を払い、念いの中の不純物なるものを出さないという状態が大切になります。
これについて話をしてみたいと思います。
■念いにおいて不純なるものを出さない
念いにおいて不純なるものを出さないとはいかなることであるか。
この部分が分からなければ瞑想と言い、反省と言っても、ほんとうのものはわからないのであります。
念いにおいて不純なるもの、これがいったい何なのか。
これはこういうふうに言い換えてもいいと思います。
この私たちの住んでいる大宇宙というものは、ひとつの調和の状態にあります。
調和の状態にあって、そこに宇宙の理法が流れています。
私たちはいろいろなことを考え、思い、行動します。
そしてそれらの思いや行動は、私たちの自由にまかされているように思いますが、
しかしながら私たちの自由意志にもとづく思いと行動は、かならずこの宇宙の大調和の中で、作用と反作用を起こしているのであります。
これは間違いのない事実です。
自分が自覚するとしないに関わらず、かならず私たちの思いと行いは宇宙の調和を乱すもの
であるか、その宇宙の調和を進歩発展させるものであるか、そのどちらかに関わることになっているのであります。
そしてこの宇宙の調和というものは、非常に正確にできているものであって、均衡が破れた場合には、この均衡を取りもどそうとする方向に動くのであります。
それが個人のレベルでどのように出てくるかと言うと、自らの出した思いが、神のつくったこの宇宙の秩序を乱す方向に出た場合、それなりの反作用はかならず出てくるのです。
それはどういうことかというと、たとえば人を害する思いを発した人、こういう思いを発する人には残念ながら
心の乱れ、いらだち、苦しさ、悲しさ、こういう反作用がかならず訪れることになっているのであります。
宇宙の均衡というものは、実にしっかりとしているものであって、落ちただけの力でかならず跳ね返るのであります。
それを破らんとする者に対しては、かならずそれだけの反作用が自動調整装置のように働くこととなっているのであります。
それゆえに、自らの不幸感覚が強い方は、何ゆえにということを考えていただければよいのですが、おそらくそれだけの不調和な波動をみずから出しているのです。
不調和な波動を出しているからこそ、それだけの結果が心の中に生まれてきているのであります。
■幸福な状態
しかし、宇宙の法則は非常に公平にできています。
単に罰を与えるという方向だけに法則が現れるのでありません。
逆に宇宙の進化、発展、調和に貢献するような思いと行動で生きた人には、またそれだけの反作用が出てきます。
その反作用はどういうものかと言うと、幸福感覚という名の反作用というものであります。
思いと行いにおいて調和されている人にとっては、安らぎという名の幸福がおとずれてまいります。
結局幸福な状態というのは一体何であるかと問うてみるならば、消極的な定義かもしれないし、
初歩的な定義かもしれないけれども、みずからの心が千々に乱れないこと、上がり下がりしないこと、そしてくよくよと考えなくていいということ。
あの晴れた空のごとく、カラッと晴れ上がっている。
そして三月の小川のごとく、さらさらと流れていくこと。
そうした状態であることが最初の幸福の状態ではないでしょうか。
心が様ざまなものに引っかかり、乱れている時に、さて、その人はその上にどのような幸福を築くことができるのでしょうか。
いろいろなことで心の中が雑然とし、そして取り乱しており、悩みの渦中にある人は、いったんこの悩みから出ていく必要があるのです。
これをしなければ、ほんとうの意味での幸福感覚は戻ってこないのです。
その方法のひとつとして、この「心の調和を保つための瞑想」があるのです。
ではどうするのか。まず外形から入っていく。
姿勢を正し、そして呼吸を正すことによって、肉体的な条件を整えていく。
そして、色心は不二であるから肉体の波長を整えることによって、その中に宿る魂の波長が次第に整ってきます。
この整いから、次なるステップを踏み出すのであります。
■人間は同時に二つのことを思うことはできない
「日蓮聖人の霊言」の中で日蓮聖人はこういうことを言われています。
「人間は同時に二つのことを思うことはできない。
自分が今マイナスの思いにとらわれているならば、そのマイナスの思いを消すことだけを考えてはならない。
マイナスの釘を抜くことのみを考えてはならない。
マイナスの釘を抜くためには、その釘の頭から、プラスの釘を打ち込んでいけ。
積極性という名の釘を打ち込んでいけ、さすればその釘は板の下に抜けるであろう。
これが人間の心は同時に二つのことを考えることができない理由である。」
こういう話をしておられたと思いますが、まさしく同じです。
私たちは同時に二つのことを考えられません。
これはひとつの慈悲でもあるということを知らねばならないのです。
心が雑然とした悩みに支配されておりながら、同時に調和するということはできないのです。
どちらかであります。
そしてまずここで大事なことは、この世的な悩みごとから離れるのに、悩みごとに取り組むのではなくて、
より高次なものに波長を合わせることによって、この世の悩みごとを去るという方法が呈示されているのであります。
少なくとも、私たちの悩みと称されるような精神波動は4次元的波動以上のものではありえないのです。
4次元的波動、もっとはっきり言ってしまえば4次元の下部、暗黒部分へと通じる波動であると言い切ってもよいでありましょう。
■みずからの心のありようを、より高次な世界へと向けていく
この波動を去るためには、この波長を心から取り去るためには、単に取り去るということに専念するのではなくて、みずからの心のありようを、より高次な世界へと向けていくことが大事になってくるのであります。
それによって悩みごと、あるいは人の思い煩い、他人に対する思い煩い、他人から受ける念というものと、自分の心の波動とが合わなくなるのであります。
毎日生活していると、いろいろな出来事が起こります。
不愉快に思われる人の言動にぶつかることもありましょうし、自分の言葉が人を不愉快にしたことも、おそらくあるでしょう。
こういう時に、現象としては同じことが起きているとしても、その後の反応はさまざまであります。
たとえばある人から投げかけられた不幸なことば、自分をがっかりさせるような言葉があったとして、
それで壱日中悩むのも自由、一週間悩むも自由、一生悩むも自由でありますが、それを一瞬にして消し去るのもまた自由であります。
ゆえに、この第一段階の瞑想がある意味において完成段階に近づいてきた方は、
日々の生活において、自分の心という名の池に外部から来た他人によって投げ込まれた
小石によってできた波紋をすぐさま消し去ることができるようになってきます。
これを消し去ることができなかった人は、池のなかに落ちた小石の波紋であるのに、まるで嵐の夜の大荒れの海のごとく感じることもあります。
心は自由自在です。
どちらの方に感じることも自由自在でありますが、それは本人のコントロール能力次第となるわけであります。
したがって、この無念無想の瞑想がある程度達人の段階までできるようになるというのはどういうことかと言うと、瞬間的に定に入ることができるようになってきます。
それはどういうことか。
たとえば、だれでもいいですが、前にいる人が突然演壇に上がってきたとする。
そして私の前に立って、私の瞑想の話の妨害をしたとする。あるいはその瞑想は違うということで、アジ演説をやったとします。
もちろんこの会場の調和は乱れるでしょう。
しかし、この乱れというものがどこまで尾を引くかということは、各人の問題としてあるということで、
どの段階でこの波紋を取り去ることができるか、収めることができるか。
そして元通りの澄み切った湖面のごとき心を維持することができるか。
まさにここに修行の真面目というべきものがあるのです。真骨頂ともいうべきものが出てくるのであります。
それゆえに、この第一段階の瞑想修行においては私たちは必ずしも座禅をし、
人里離れた所に住む必要はないのであって、まず日常の修行としては、
いろいろな人との出会いの中において、どのように心を澄んだ湖面のごとく保つかという修行から入っていくのであります。
それはまず、他人の言葉と思い、念、行動、こうしたものをどういうふうに受け止めて自分の中でより次元の高いものへと昇華してしまうかということであります。
私の言ったとえを思い出してください。
小石を投げられて、それが心の中の池に落ちたとして、その波紋をどう見るか。
嵐の夜の大波と見るか、それとも瞬時に収まっていく波紋と見るか。
これは努力によってどんどんと変えていけるものであります。
■一日一生
そして、真にすぐれた無念無想型の瞑想者は、一日一日を分断していくことが可能となります。
一日一生という言葉がありますが、この一日がほんとうに完結していくようになります。
それは今日の悩みを明日に持ち越さないということであります。
また、今日の枠の中に昨日の悩みを持ち込まないということであります。
これは一日一生という言葉で表されていますが、これも幸福のために大切名考え方であります。
昨日の悩みを今日に持ち越さないこと、そして今日の悩みを明日に持ち越さないこと。
今日は今日で収まりをつける。今日十分に悩んだら、もうそれでよい。
今日の心の中に起きた波紋を明日に持ち越さないこと。
これが一日一生でありますが、この一日一生の枠を、無念無想型の達人になると、もっと短くしていくわけです。
一時間一生とする。一分一生とする。一秒一生とするということが可能なのであります。
すなわち、こうした心の波動を乱すようなものを、一瞬にして断ち切っていく。これが大事となります。
これを現代よく使われている言葉で話すならば、アルファ波、ベータ波ということです。
雑念が出ている状態はベータ波が出ていると言われています。
■瞬時に定に入る。生活の中でアルファ波を出し続ける
そして禅僧が定に入っている状態は、アルファ波が出ているというふうにいわれます。
ただ問題は、座り、呼吸を整えてアルファ波を出すことはそう難しくはないが、
毎日の生活の中でアルファ波を出し続けるということが難しいのであります。
この状態をどう作っていくかということが、大切な基礎鍛錬になります。
これができて、はじめて第二類型以降の瞑想もしっかりとしたものになっていきます。
それゆえに多くのみなさんに、今日申し上げておきたいことは、まず瞬間的に定に入る訓練をしてほしいということ。
瞬間的に心の波紋を止めていく、そういう努力をしてほしい。
これはどうすればいいかと言うと、たとえば他人から自分を傷つける言葉が発せられたとする。
その時に怒りのままに反論するのではなく、一瞬のうちに自己反省してみる。
自分の思いと行いに誤りがあったか。
相手の人がそういう言葉を出すだけの原因を自分がつくったかどうか。
これを一瞬にして思いめぐらせてみる。
そして心に思い当たることがあったとすれば、それについてはすぐに相手に詫びることです。
また、自分の思いの持ち方を瞬時に切り換えることです。
相手がそういう言葉を出したというのは、その前に自分が相手に対して否定的な言葉を出したからではないのか、
あるいは相手をいじめるような、さいなむような思いを出したり念を出したり、あるいは行動をしたのではないか。
こういうことを一瞬にして思い巡らす必要があります。
そして、自分が違っていると思ったら、即座に態度を変えることです。
これが瞬時に定に入るための方法です。
そして、自分を悩ませている相手が、現在ただいま自分の前にいないとするならば、その人に対する思いというものを切り換えることです。
すまないことをしたと瞬時に思うことです。
これは損得勘定からいっても得なことです。
長い時間、あるいは何日も、相手の欠点を責め続け、思い続けることは、相手にとって不利だというだけではなく、自分自身不幸であるのです。
そういう思いを持ち続けるということは、損得勘定でみても、明らかに損です。
自分に原因があったら、すぐに改めること。
そして自分に原因がなく、相手に原因があると思ったならば、相手に対する許しの思いを起こすことです。
これが大事です。
許しの思いを持っても、その苦しみがなくならないと言うのならば、それは自分の愛の不足ではないかどうかを考えてほしいのであります。
私たちがさまざまな書物の中で言っている「与える愛」と言うのを本当に実践したことがあるのか。
与える愛というのは物を与えることでもなければ、具体的にその人に小さな親切をするようなことでもない。
与える愛の中には、相手への思いを切り替えるということも入っているのです。
相手に対して裁くような目で見た、そういう貧しい心の自分ではなかったか。
さすればその思いを圧倒的な善念に切り換えることはできないか。
これを思わないということは、その人自身の罪であります。そう思わなければいけない。
またいろいろな人間が一緒に生活しています。
同じくこの会場にも千何百人の方がいたとしても、魂の進化速度はさまざまであります。
たとえば自分に理解できたことであっても、人がそれを理解できないということがあり得るということは、十分に考えられることであります。
その人がわからないということを待ってあげられるかどうか。
これも大事なことであります。
こういう気持ちがなければ対機説法ということは決してできないのであります。
おしきせのごとく、同じ考え方をすべての人が受け入れなければ納得がいかないという考えの方は、対機説法ができないということになります。
私も皆さんにいろいろな話をしておりますが、百パーセントわかる方もいるかもしれない。
九十パーセントわかる方もいるかもしれない。半分しかわらない方もいるでしょう。
十パーセントの方もいるかもしれない。けれども、十パーセントしか分からないからと言って、私は腹を立てません。
なぜならば、その人にとってはまだまだこれから登山を始めたところであるからなのです。
こうした心の余裕を持って、世の人々と接してみると、相手が自分と同じ心境にないからいらだつという考えは、非常に狭い心であることが分かってくると思います。
相手に対する許しが出てくるための方法は、自分が本当に悟る以外にはないのであります。
真に悟った人は、他人に対して優しくならざるを得ないのであります。
なぜならば、その人がなぜそういう言葉を投げ掛け、なぜそういう悩みの中にあり、なぜそういう行動の中にあるかということが、手に取るようにわかってくるからであります。
それがわからないということは、まだ同じ土俵の上に上がっているということであります。
自分を苦しめる相手の想念は、少なくとも四次元波動以上のものではありえないのです。
それと四つに取っ組み合っているということは、自分もまたその土俵の上にいるということであり、それ以上の悟りの段階にはないということの証明がなされているのであります。
それゆえに、何度も言いますが、この最初の段階は非常に大事です。
不調和の心でいるということは、他人の責任でなくて自分自身の責任でもあるし、
またそれは損得勘定で言っても得な勘定ではありえない、損であることが明らかであるならば、やめることです。
そういう感情を持たないことです。すぐ切り換えることです。すぐ湖面のごとき心を取り戻すことです。すぐ満月を取り戻していくことです。
それが大事だと言えましょう。
この第一段階はだれもが努力によって可能なことです。
この努力は、まず自分をいうものを見つめる習慣がなければ実効が上がりません。
もう一度、自分というものを見つめてください。
そしてその時に、この瞑想の話にも出てきますが、大いなる見地から見た自分と相手というものを見なくてはならないのです。
単に三次元的視点から見てはいけない。
瞑想の一番大事なところは三次元的な視点を離れるところにある。
高次元の視点から自分を見、他人を見、世界を見るところにある。
ここに瞑想の本当の意味があるということを知らなくてはなりません。
『瞑想の極意』より
仏法真理は「真実を知ること」であなたを「幸福へ、健康へ、成功へ」導いてくれるのです。---With Savior(救世主と共に)---
『真実の世界、人生、幸福、健康に生きる方法』を知りたい方は、Happy Scienceの経典をご参照ください。
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